2−11
後部座席から、運転する山下の後頭部を見つめる。自動運転に切り替えた山下が、釣り雑誌を読んでいるのを眺めなつつ、脚にかかる違和感を拭い去ろうと腰の位置をずらした。
座席に座る加奈の、膝を枕にして鈴が眠っている。よほど体力を消耗したのか、起きる気配は無かった。なんとかしてこの状態を脱しようと、膝をずらして鈴の頭をどけようとするがそれも無駄な努力と悟る。隣に置いてあった通信用の端末が邪魔で、これ以上は身動きが取れない。つまり、このまま家に着くまでずっと膝枕してやらなければならない、ということだ。
「そうして見ると」
山下がミラー越しにくすりと笑った。
「まるで親子か、仲の良い姉妹みたいですね。なんというか、微笑ましいです」
「二度とそんな考えが及ばないようにしてやろうか、このシートは防弾加工じゃないからね」
「……冗談です」
ひきつった笑みを残して山下が黙った。再び雑誌に目を落とす。加奈はため息をついた。
――ややこしいことになったな……これじゃ本当に保護者だ。
紫田には、家には子供を保護するほどのセキュリティはないこと、帰路に着く途中でまた連中に襲われかねないこと、そもそもガキのお守なんて御免だということを説明したのだが。
「そんなこといっても、チームに女はお前しかいねえんだから。俺が連れ帰るわけにもいかねえし」
とショウキが言うのに、返す言葉が無かった。確かに、この年頃の少女を保護するというのであったら、女である自分しか適任者がいなかった。
「それに、さっき張の旦那と散々言いあってたじゃないか。この娘は渡さない、みたいにさ」
あれはそう言う意味で言ったわけではない――と抗議したがすでに紫田が「決定事項」としてしまった以上、従うより他無かった。
「やってられないわ……」
街灯の光が尾を引いて流れていくのを、呆然と眺める。まさか、“特警”の任務に子守が含まれていようとは。しかしまあ、今晩だけのことだ。明日までの我慢だと言い聞かせる。明日にはまた、同じような保護施設に預けられるだろう。もっとセキュリティのしっかりした所に。
いや、どうだろうか。あの“燕の家”は、大手の警備会社と提携していた。ああいった児童保護センターの中で、そこまで安全対策が為されているところは少ない。皆、ギリギリの予算で経営破綻の危機を抱えたまま運営していると聞く。それでも襲われた。まさか、センターの方もストリートギャングがゲリラ並みに武装しているとは思わなかっただろう。
そこまで考えて、違和感が頭をよぎる。
すなわち――なぜ、この娘なのだろうか、という疑問。細胞が欲しいだけなら、その辺にいるガキを攫ってくればいい。なにも鈴である必要は無い。警備会社のシステムに真っ向挑んで、ギャングに過ぎた火力を与えてまでこの娘を拉致する必要があったのだろうか。細胞ではなく臓器、または体そのものが目的だったとしても、費やされた銃弾を思えば“中間街”から調達したほうがはるかに安上がりだ。
最初からこの娘の細胞ではなく、この娘そのものが目的だったのかもしれない。だからその場で解体して幹細胞を抜き取らなかったのか。では、この子にどのような有用性があるのだろう――
などと考えていると、山下が「着きましたよ」と声をかけた。地下駐車場に入るように指示すると、鈴が瞼をこすりながら半身を起こした。
「起きたか」
と加奈が言うと、眠い目をこすりながら、ここはどこですか、と訊いてくる。
「わたしの家だ」
車から降りて、そう告げる。鈴は不思議そうに首を傾げた。さっきまで死にそうなほど震えていたのだが、それも落ち着いたようだった。山下が、それでは失礼します、と言ってバンを走らせた。テールランプが見えなくなると、向き直って。
「今夜一晩、甚だ不本意ながらうちに泊まってもらう。その前に一つ確認、ここではわたしがルールだ。家の物に勝手に触ったり、騒がしくしたりしたら遠慮なくつまみ出すからそのつもりでいるように」
と、口調を強めて言う。鈴は3秒ほど経ってから
「え、あはい。あの、お世話になります」
ぺこりと頭を下げた。加奈は肩をすくめて、昇降機に乗るよう促した。7階の、オートロックの自室に静脈照合で入ると、玄関脇の椅子にジャケットが無造作にかけてあった。そういえば、最近掃除していないなと思いつつ
「散らかっているが」
それでも鈴を、家に上げる。鈴は、お邪魔します、と言って中に入った。
「適当に座りな。今、何か持ってくる」
と鈴に言って、自分はキッチンに向かった。冷蔵庫を開けてみる。何も無い。そういえばここ数日、サプリメントと純水だけの生活が続いていたっけと思い辺り、とりあえず何か無いかと戸棚を漁る。手に、アルミ缶のひんやりとした感触が当たった。取り出して、蓋を開けてみると、日本茶の粉末が、真空パックに包まれて入っていた。そう言えば3日前、幸雄が送ってきたなと思い出す。電話で幸雄が、静岡のブランド物だ、結構高いんだぞと言っていた。お茶よりはコーヒーを好む性質だったので、あとで涼子にでもあげようと思っていたのをすっかり忘れていた。
丁度いい、とパックを開ける。茶葉の香りが漂ってきた。天然物か、なるほど高級だなとカップを2つ用意する。粉末だから、匙一杯分、すくって湯に溶かせば直ぐに飲むことが出来る。手間はかからない。
「出来たわよ」
とリビングにカップを運ぶと、鈴が壁にかけられた写真をじっと見つめていた。
「あんた、勝手に触るなといったよね?」
「い、いえ触ってませんっ。見ているだけです」
「まあ、別にそのぐらいは構わないけど」
テーブルにカップを置いて、一口啜る。なるほど、言うだけあるなと思った。すっきりとした甘みがほのかに香って、口当たりは爽やかだ。これは、人にやるのは惜しいかもしれない。
「あの、この写真の女の人。加奈さん、ですか」
鈴が写真を凝視したまま尋ねた。
「冷めるよ」
と言うと、鈴がテーブルに向き直って両手でカップを取る。いただきます、と消え入りそうな声で言うとおずおずと口をつけた。
「おいしい……です」
「そりゃどうも」
と言ってカップを置いて
「軍にいたときのものだ」
「え?」
「その写真。昔、国防軍にいたことがあってね。戦友と、朝鮮で」
写真の中央では、20歳を向かえたばかりの加奈がライフルを抱えて胡坐をかいていた。我ながら、緊張しきった顔をしている。そう言えば、朝鮮有事が自分の初陣だったか。
「隣の、人は」
加奈の傍らに座っている40代の男を見て、鈴が訊いた。
「ん、まあ相棒だよ。昔の、ね」
固くなっている加奈とは反対に、屈託無く笑う。モンゴル出身の、気のいいおっさんだったな、などと言ってカップの縁をなぞった。
「だった、というと……」
「その3日後に死んだよ、敵の弾受けて。殺しても死なない男だったが、20mmに体を撃ち抜かれて……ね。まあ、昔の話さ」
鈴は、沈うつな顔で一言、「そうですか」と言ったきり黙りこくってしまった。俯いて、なにか悪いことをした子供のように。
「ちょっと、なんであんたがそんな顔するの。戦場なんだ、人が死ぬのは当たり前だろうに」
「当たり前、ということはないと思います」
ぼそりと鈴が口を開いた。蚊の鳴く様な声だったので、聞き取り辛かった。
「何で?」
「だって、失ってしまったら……二度と戻ってこないんですもの、命は。死んだ人は、二度と」
「まあ、それはそうだけど。でも、戦争だから」
「戦争だから、いいんでしょうか」
今度ははっきりと聞き取れた。
「さっきの人たちも……あの、助けていただいた事は本当に感謝しているのですが……でも、やっぱり死んでしまうとなると……」
「おかしなことを言う」
すっかり冷え切った緑茶を飲み干して
「自分が殺されていたかも知れなかったのに、あのクズ共に同情しているの? 余裕あるね、とても“中間街”出の人間が吐く台詞とは思えないわ。生命ってものがグラム単位いくらで取引される、あの街で」
鈴は、やはり俯いたままだった。
「昔、あんたと同じようなこと言ってた奴がいたな。生命の不可逆性、不安定で繊細で、それが紡ぎ出す分子の集合体たる生命はそれだけで至高の芸術品だ、とかなんとか。でも、そんな風に考える人間は、この街でも少数派だよ。見な」
窓の外を示した。環境建築の華々しさが、遠く霞む。
「あそこにいる人間も、そして“門”の外に住む連中も。テクノロジーには限界が無い、ってことを知っている。病気になれば、ナノチューブで病巣に薬剤を投与して、血が足りなくなれば人工血球がその機能を補う。臓器丸ごと一つ失っても、再生医療の恩恵に預かれるならそっくり同じ機能の生体素子集合体が臓器の役割を果たす。そうすれば、前と同じ身体に戻れる。脳ばかりは、どうしようもないけど」
と、自分の頭を小突いた。
「生体分子機械、あれの埋め込み率によるけど脳が無事なら少なくとも生きながらえることはできる。だから、わたしたちは確実に脳を撃ち抜く。まあ、ショウキなんかはやり過ぎだけど……って、あんたにゃ刺激が強すぎるか。こんな話」
「あ……いえ」
鈴はカップを両手で包みこんで、それでも、と切り出した。
「それでも……やっぱり命は有限、なんですよね」
カップを満たす、濃緑の液体を見つめる。手の震えがカップに伝わって、波紋を広げていた。加奈は
「そうだな」
と言って
「シャワー浴びてきな」
「あの、加奈さん」
大きいサイズの寝間着を着た鈴が、遠慮がちに口を開いた。
「何」
「やっぱり……わたしが床で……」
ベッドの下にマットを敷いている加奈に、鈴が言った。
「人が寝たベッドは、嫌だってか」
「そうじゃなくて、あの、悪いですし」
と、真新しいシーツに包まれたベッドを横目で見やる。
「シーツを替えた、わたしの努力が無駄になってもいいということね」
「え、いえその。そういうわけではなくて、ああ何というか……」
しどろもどろになっている鈴は、なんだか泣きそうな顔をしていた。そろそろ勘弁してやるか、と加奈は
「わたしは慣れているから、どこでも寝ることができるけどあんたはそうもいかないでしょう。床で寝るということは、思いのほか体力を消耗する。疲れたあんたの身体には、堪えるよ」
「加奈さんも、疲れているんじゃ……」
「わたしは疲れないようになっている」
と、マットの上に体を横たえて
「いいから言う通りにしなさい。ここはわたしの家、わたしのルールに従ってもらう。ベッドで寝るの、いいわね?」
「……はい」
観念したらしく、寝間着の余った裾を引きずってベッドに潜りこみ
「……ありがとう……ございます」
これまた消え入りそうな声で鳴いた。面倒な子だな、と息を吐くと
「消灯」
と言う声に反応して、室内灯がダウンした。LED照明が消えて、肌色の蛍光ランプがぼうっと四隅で灯るのみとなる。
「加奈さん」
薄暗闇の中、鈴が言った。
「今日は、ありがとうございます。あと、変なこと言ってしまってごめんなさい」
変、ね。確かに変なことだわと思って、しかし
「謝ることじゃないって。何ら悪いことでもない」
「あ、はい。すみません」
「そう簡単に謝らない。癖になるよ」
「は、はい……すみま……せん」
だから、と言いかけたがベッドから小さな寝息が聞こえてきたのを受けて、黙った。
「ほんの子供か……」
と呟いた。
ほんの子供。いつだって“中間街”は、その子供たちに苛酷な運命を背負わせる。
毛布を被った。
第二章終了です。