2―8
「今、上だ」
と“ハチドリ”の、分子モーターが伸縮する音を聞きながら加奈が応答する。PDAには加藤からの通信を示す表示が刻まれる。
「了解した……ああ、ショウキが行っているなら問題ない。わたしも……」
PDAに一言二言、喋ってから加奈は通信を切った。
「どうした」
と紫田が訊くのへ
「加藤から連絡が入りまして、例の対象Aが何者かに誘拐されたとのことです」
「あの少女がか」
紫田の、鉄面皮の表情がやや意外そうな顔になる。
「今はショウキが向かっているそうです……オペレーションφを始動させて」
「的確な判断だ」
紫田が言った。本来、衛星追尾システムは紫田の指示の下行わなければならないが、不在時には現場の判断でシステムを作動させることもある。常にベストな選択を、的確な判断と迅速な対応が生死を分ける。
「どうしますか? わたしも向かいましょうか」
「向かう? ここからか?」
「丁度、横浜市上空に差しかかったことですし」
眼下に臨む環境建築群の光触媒を示して
「ここから直接行ったほうが、早いですよ」
言うと、同乗する兵士の了承も得ずに“ハチドリ”のハッチを開け放った。凍てつく空気の塊が、機内に入り込んで渦を巻いた。
若い兵士は慌てているが、紫田は悠然と構えている。
「行くのは構わんが」
と紫田が言って
「一応、都市内部だからな。よほどのことが無い限り特殊弾頭の使用は控えることだ」
「それは命令?」
加奈はハッチの縁に足をかけて、身を乗り出し
「忠告だ」
と紫田が言うと同時に、横浜の光触媒めいた環境建築に身を投じた。
クラクションを鳴らして、ショウキのバイクに相対する、高速道路上の車たち。カワサキのハンドルを右へ左へ、操ってハイブリットカーの群をかわす。網膜のGPS上を、赤い光点が南へ移動するのを確認すると高速を抜けて下道へと入る。LED照明のない路地裏に入り込み、神経組織のようになっているビルの狭間を単車で駆け抜けた。爆音を響かせるカワサキと赤いLEDランプに驚いて、路地を闊歩していた猫が飛びのくのが見えた。
光点はさらに南へ下る。この先は港だ。なるほど、海外に売り飛ばすつもりか。
こうしちゃおれん、とさらに速度を上げた。
「クソが」
と呟く。ガキ共が、いきがってんじゃねえよ。環境建築の都市に生まれて、親の金で大学まで行ってりゃ満足だろうに。ヤクザになる度胸も無いくせにはねっ返りやがって。躾が必要か、とひとりごつ。
《誰を躾けるって?》
何の予告も無く、聴覚デバイスから音声が流れてきた。
「加奈かよ、どうした」
《どうしたって、加藤から連絡が》
あの野郎、マジで入れやがったのか――と舌打ちして
《聞いたよ、あの娘が誘拐されたって。『天正会』か?》
「実行犯はストリートギャング崩れ。だけど依頼したのは、あるいは」
PDAに向かって通話すると、左手をハンドルから離さなければならなくなる。車体が傾いて、バランスを崩しかけるのを慌てて戻した。ふらついた時、生ゴミの入ったポリバケツにぶち当たったが構わずに走らせる。
《でも、オペレーションφを作動させたところで殺られたらお終いだよ》
どうも加奈の声がおかしい。デバイス越しに聞こえる音声に、時折雑音が混ざる。テレビのノイズとは違う、たとえるなら隙間風が吹き付けるような。
「分かってる。だからこうして――」
《わたしも今、そっちに向かっているからさ。データ、送って》
おかしなことを言う。本部に寄らずに、いきなりこっちに移動しているというのだろうか。
「お前、今どこにいるんだよ」
《今? えっと……三菱の看板を過ぎた辺り》
「看板、って。何言って――」
と言いかけて、しかして直ぐにその言葉の意味を理解する。息を吐いて、一言。
「馬鹿か、お前は」
夜の冷気が耳を打ち、風が幾千の矢となって肌を刺す。
普段は見上げるだけの広告塔、今は加奈の足元に霞んでいた。大小のビルの壁面に足をつけ、脚力のままに蹴りだす。足裏がシリコン壁から離れると、ネオンと光子線が飛び交う横浜の林立するビル群の中に跳びこんだ。
ごうっっと空気がぶつかってくる。排気熱と水素ガスの混じった都市上空の風を吸い込んで、下腹部に落としこむ。着地、跳躍とともに呼気。呼吸は爆発力となり、推進力となる。燃料に点火したときと同じくに、細胞の一つ一つに血液が満ちてゆく。
ビルからビルへ移る様は、夜を駆る鴉か、もしくは山河を飛び回る天狗。生命のデザインが普及したとはいえ、こんな風に体を造り変える人間は、まず居ないだろう。それが可能なのも、全身の細胞、組織の至る所に埋め込まれた生体分子機械が組織の人工的増殖を促し、骨量と筋密度を異常なまでに発達させたため。衝撃に耐えうる体には、シリコンベクターマシンによる、生体の金属錯体化によって生み出される。金属錯体――蛋白質分子とシリコンの配位結合された超分子の集合体、有機物と無機物の混合、それが加奈の身体だ。生体分子を備えた微細機械の泳動が、金属分子と蛋白質を結びつけた結果生まれた、機械と生身の融合体。ナノバイオテクノロジーの究極体であり、かつ未だ完成されない進化途上の形。晴嵐加奈の肉体は、常に変化している。
骨はすでに骨ではなく、炭素クラスタを集積して造られた人工骨であり、臓器は分子機械と臓器チップとの連携集積体。金属錯体の表皮、その下に張り巡らされたナノワイヤが、フィードバックと神経結合強化を司る。人工の血球は異常に発達した自己修復機能を備え、生物機能の強化と肉体の機械化が軍事用生体分子機械によって成されている。
銃弾は通らず。刃でも、切り刻む事の出来ない肉体。
着地の衝撃は生物の柔軟性と硬化された四肢が吸収し、極限まで高められた反射神経が、化け物じみた曲芸を普遍の物とする。
こういう時は、この肉体も有り難いな、と加奈は思う。戦うための身体は、所詮戦うこと以外では意味を成さない。軍、そして“特警”と。戦場を潜り抜ける、修羅場に身を投じることでしか生きていけないのも、この骨と肉、血が枷となっていたから。それならば、せめて証明する、この血肉の有用性を。
――そのために生きている。
網膜に瞬く光点が、横浜港の倉庫街に落ち着いた。そこに、目指す対象が居る。
すぐに追いつく――白色の低周波、猥雑として密集する紡錘体の中に投入する。集合する意識が都市上空を飛翔するのを感じつつ。
目が覚めると、周りの環境が一変していた。
鈴が感じたのは、まず圧迫感。皮膚を締め付け、血管が収縮する縛めが両腕を圧迫する。頭の中に、靄がかかっている。オブラートで包まれたような視界の中に、20人以上の人間が立っているようだった。息遣い、笑い声。カチャカチャと金属が鳴りあわされて、煙草の匂いが漂ってくる。
鳩尾が痛むのを感じた。そうか、と思い出す。“燕の家”に、爆音が轟いたかとおもうと顔をマスクで隠した男が踏み込んできて……
「目ぇ覚めたぜ、オイ」
と、日本語が聞こえた。その声に、たむろしていたほかの人間も集まってくる。奇妙な格好だ、と思った。だぼついて、体にあっていない。袖が余った、ラフな服装をしていて指や首元にシルバーアクセサリをじゃらじゃらいわせて。耳や唇にピアスを開けたり、露出した二の腕に刺青を施している者もいる。格好はバラバラだが、全員、体のどこかしらに青いものを身に付けている。
施設で迫水から聞いた、カラーギャングのようだ。
「あ、あの……」
「気ぃがついちゃった? 眠り姫ちゃん。あんまり目ぇ覚めないからキスして起こしちゃろうと思ったのに」
目の前のバンダナの男が、ヤニで黄ばんだ欠けた前歯を見せて笑った。自然と体が、硬直してしまう。
「ヨオ、マエジ。そいつどうすんだら?」
と、後ろから白人の男が話しかける。髭面の、瞼にピアスを付けた20代ぐらいの青年がマリファナを吹かしながら
「こいつを拉致ったんはええけどぉ……」
今度は、タンクトップを着た10代後半の少年が、鈴の肩に手を置いて寄りかかった。かなり崩れた広東語で、聞き取り辛い。
「クリス」
とタンクトップが言って
「そいつ誘拐してん、港に待っときゃええってんが……」
港、と言う単語だけ聞き取る事ができた。そういえば、ここは倉庫のようだ。薄暗がり、空間の四隅にコンテナが積まれている。埃と油に混じって、微かに潮の匂いがする。
横浜港には放置された倉庫があるらしく、そのうちの一つなんだろうと思った。
「それは、そいつに言えよ」
とマエジといわれた日本人が、後ろを指差す。青を纏った男たちが、一斉に振り返る。
「のお、『天正会』の」
つられて鈴も見た。
黒い男だった。髪、瞳、コート、手袋、そして靴も。色だけでない、そこに闇そのものが塊を成して佇んでいるようだった。昏い、まるで黄泉の番人といった風情。悄然とした、生気の抜けた顔。その顔の左半分に、トライバル系の刺青が彫りこまれている。
「その女を、引き取りに来る人間がいる」
男が静かに言った。
「ふうん、どこぞのマフィア? その娘、切り刻んで捨てるんか」
クリスと呼ばれた男が近づいて
「もったいねえ、こんな上玉をよ? なあ、そのオエライサン来る前に味見してもいいかよ?」
クリスは鈴の髪に触れて、首筋に指を這わせた。勝手に喉が収縮して、声が洩れる。撫でまわす、節くれだった指が肩と背中を沿って、胸元に至る。針を突きたてられたようだった。それも10本単位で束になった針。触れられたところから水分が抜けて、肌がささくれるのが、尖った物を押し付けられた感触に似る。枯れ枝のような指が、水分を吸い取っているのではないかと、思った。
「出たよ、このペドフィリア」
とタンクトップが笑った。
「発育途上のガキにしかおっ勃たねえってんだ、変態が」
「るせえよ、この」
クリスは鈴のうなじに舌を這わせた。後ろから手を回して、鈴の太股と腰を撫で回してくる。背筋が凍りついた。皮膚が粟立ち、全身から血が抜けていくようだった。
拒絶の言葉を吐こうとしたが、喉が言葉を発することを忘れてしまったかのようだった。はっきり、やめて、と言おうにも情けない呻きしか出てこない。クリスが耳元で、シンナー臭のする息を吐きかけると、窒息しそうなほどの圧迫を覚えた。
「そんな怯えんでいいじゃ、オレが手取り足取り……」
「やめろ」
と刺青の男がクリスを引き離した。クリスが不満そうに
「んだあ、邪魔すんなよ」
男に突っかかった。
「そいつは預かり物だ。指一本でも、触れることまかりならん」
「なんだよぉ、いいジャンか少しぐれえ。どうせ殺るんだら、なら犯った後でもいいじゃろう?」
「ダメだ」
と男が言い張る。
「けっ、スカシてんな。女みてえな面しやがってよ」
クリスは鈴から手を離し、黒い男に詰め寄った。鼻面をつき合わせて、
「『天正会』の、あんたぁあんまり口が過ぎるぜ。いっくらヤクザだからって、オレらを嘗めンなよ?」
タンクトップの少年が、リヴォルバーの撃鉄を起こした。男たちが下品な声を上げて笑う。刺青の男を取り囲むように、ゆっくりと歩を進めて移動して……男は眉をひそめた。
「それともお前がナメてくれるんか? なあお嬢ちゃん」
だらしくなく開けた口から、涎がついと垂れる。クリスは舌を出して、ひきつった顔をして。
「ヨオ、オレのを咥えて……」
そこから先は、喋ることが出来なかった。
ひゅっ、っと風を切る音がした。次に吐き出されたのは下卑た挑発でも、罵倒でもない。
血の、塊だった。
「ひっ……」
男の手には、クローム加工のクナイが握られている。開いた口から覗いていた、舌が根元から切り取られている。
なにが起こったか分からない、といった顔をしていたがやがてクリスは地面に転がった肉片――自らの舌を見てようやく事態を解したようだった。
言葉にならない、獣のような雄たけびを上げて転げ回った。男は切り取った肉片を右足で踏みつけてクリスを見下ろす。クリスは地面をのたうちまわって、溺れたように口をぱくつかせている。エクスタシーに達したときのように喘いで、苦痛に顔を歪めて最後には動かなくなった。
全員が、騒然となる。殺気がその場に居る人数分だけ沸き上がり、一人が口火を切った。
「ら!」
タンクトップがリヴォルバーの銃口を向けた。そいつが引き金を引くより速く、刺青が血のついたクナイを投げ打つ。空間を真一文字に切り裂いたクナイが、シリンダーに突き刺さり、銃身が真っ二つに割れた。
早業だった。手元が見えない。どよめきが起こる。
「いいか」
と男は向き直って
「貴様らは、俺の命令通りに動けばいい。それ以上は求めないし、余計なことをしたり言ったりしたら消えてもらう。例外はない、貴様ら全員が同条件。前金を払ったら、その分だけ働け。下手なことをするな」
両手に新たなクナイを抜き放ち、きっと見渡した。この一睨みで、彼らは少なくともこの刺青男が力ずくでどうこうなる相手ではない、と悟ったようだった。面白くなさそうな顔をして、しかし膨れ上がった殺気が急速に冷めてゆく。
「貴様らガキ共、それしか能がない。クソガキ共」
刺青の男がクナイを収めると、ふと鈴と目が合った。黒曜石めいた瞳の中に、鈴が写り込んでいる。今、人を斬ったという風ではない。変わることの無い大局を観察する、世捨て人のような温度の無い、目。
「とりあえず、そこに転がってるのを片付けろ」
刺青の男が言って、目をそらして
「あとは、俺が『良し』と言うまで待機だ。いいな」
他の男たちが、固まったまま頷いた。その時
「おい」
と見張りの男が、入り口から叫んだ
「誰か、来ぃやがったぜ」