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生体分子モーターを人工的に培養し、工業にも生かされるようになったことで産業は飛躍的に進歩した。それまでコイルと磁力で作られた回転モーターのエネルギー効率の悪さを克服し、生物機能を模倣した高分子アクチュエーターが造られた。回転するローターは羽ばたく翼に取って替わり、軍事産業にも影響を及ぼした。生物の動きを模倣した、巨大な鉄の鳥。
空艦艇“ハチドリ”も、そうした産業の発展により生まれた次世代型の軍事兵器である。全長12mの円筒形の物体が本体で、左右に2枚ずつ、計4枚の「羽」がある。DNAコンピュータによる完全自律制御で飛行し、空中停止もする。その姿から“ハチドリ”と名づけられた。人工の鳥、あるいは中空に留まる『飛行要塞』。
ホバリングしつつ、“ハチドリ”が降下を開始する。直下には、伊豆半島の何もない荒野があった。空中で停止しつつ徐々に距離を詰める、地と機体。近づくと、4枚の唸りを上げている「羽」の音がよりはっきりしたものになる。はばたきが突風を起こし、風が石を紙くずのように舞い上げる。植林されたクローン樹木が煽られて、木の葉同士が当たってかすれた音で鳴く。
地面から5m地点で停止。ハッチが開くと、人型の影がそこから吐き出される。サブマシンガンを肩にかけ、防弾繊維で編みこまれたタクティカルスーツ。人影は地面に着地するなり、身を低くし銃を構えた。黒いスーツ、つや消しの銃身。銀色に塗られた6文字が各々の背に、権力と存在を誇示して記されていた。
“特別保安警察”
上昇する“ハチドリ”の腹にも、同じ文字が書かれている。
《全員降りたな》
サブマシンガンの、万年筆めいた銃口が隣の草むらから飛び出ている。銃の持ち主はショウキだった。顔全体をマスクで覆ってはいるが、明るい銀髪の先端がマスクからはみだしている。
《移動するぞ》
くぐもった声が響く。加奈はボルトを引いた。
《いつ来ても“中間街”ってのは気味が悪いっすね。この土埃、たまんねえっすわ》
《うるさいぞ、加藤》
通信はオープンチャンネルになっているから、隊員たちの会話まで聞こえてしまう。鼓膜に直接届く声は、何重ものフィルターを通した輪郭の曖昧なものになっている。内耳に埋め込まれた聴覚デバイスは空気の層を介していない、加工されない音であるのに。一番純粋な音が、実は一番不愉快さを伴っている。
油が浮いた水溜りに、足を踏み入れた。飛沫が跳ね上がる。臓物の臭いがした。
左腕のチップの表示が、心拍数の乱れを告げていた。バイオセンサーがグリーンからオレンジに変わる。血中の酸素濃度が減少しているというサインだ。眩暈のようなものを覚えた。なに、いつものこと。人差し指ほどの、携帯用注射デバイスを取り出す。中身は灰色の溶液だった。首筋につき立て、ミクロの針を皮膚に差し入れる。親指で押し込むと、人工赤血球が頚動脈から体内に送り込まれた。
バイオセンサーの液晶がグリーンに変わるのを確認した。左腕に埋め込まれた電極が、生体内の分子認識を行っている間ずっと加奈の心は“中間街”とともにあった。
土が混ざった生温い潮風が、トタン張りの廃屋に叩きつけるように吹き付ける。風の塊が砂塵を舞い上げ、粗末なバラックをカタカタと鳴らす。赤錆が浮き出た簡素な構造体群の中に、頭一つ飛び出た多層型建築物がある。誰かの墓石のように打ち建てられたそれを、都市の人間は“蟻塚”と呼んでいる。もともと旧市街地にあったビルを増築して出来た、土で練り固めたような簡単なつくり。いくつもの小部屋が凝縮された構造物。やがてそれらは周りのビル群を呑み込み、巨大な鉄と石の多層建築となり。地を這うものたちが、土と石を積み上げて、漆喰で壁を固めて鉄筋で強化する。そうして出来た、堅牢な造りの居城。“蟻塚”は“中間街”の歴史そのものを表している。
“蟻塚”の一つに、黒い集団が忍びよる。一切の気配を消し、闇に溶け込んでいる。
《アルファ1、入り口を固めた。アルファ6、アルファ7応答せよ》
ショウキがマイク越しに呼びかける。
《アルファ6、裏口にて待機》
《同じくアルファ7、待機》
聴覚デバイスからの無味乾燥な声が、二人分。加藤と山下だ。加藤は慣れているとはいえ、山下はこれが初陣となる。機動隊から引き抜かれたばかりの山下は体力はあるものの、精神面で強化が必要である。先ほど“ハチドリ”に酔ったというのも、おそらくは加藤の方便だろう。兵士でいればいい機動隊と違い、ここでは一人一人が兵士と参謀の役をやらねばならない。それだけに、重圧はかかる。今も、若干声が震えていた。
《楽にやれ、山下。今回はただヤクザの取引現場を押さえるだけだ。大して時間もかからない》
ショウキが言うのに、山下は安堵したのかさっきよりいくらか落ち着いた声で応じた。よし、と言うとショウキが加奈に合図を出す。加奈は頷き、腰にとりつけた長さ20cmの缶を手にする。安全装置を外した。
身をかがめる。右手に持ち、腕を振り上げる。スプレーで落書きされた、土と鉄筋の“蟻塚”の壁。そこに唐突に明けられた暗黒の口。
加奈は、缶を投げ入れた。
地面に落ちるとともに、缶の両端が弾け白い煙が噴射される。30秒間。煙の塊が完全に外気に晒される。普通なら煙は外に出た瞬間に霧散してしまう。だがその白い靄は風に散らされることなく一箇所にとどまっている。浮遊した後、煙は暗闇の中に吸い込まれていく。
「ナノカメラを投入」
加奈が告げる。
ショウキが頷いて言った
《網膜スクリーンに切り替え》
ほどなくして、加奈の視神経にカメラの映像が送信されてくる。
分子機械が空中を漂い、“蟻塚”などの構造物に侵入し詳細な見取り図を作る。分子機械に微生物の動きを加え、さらに羽虫の群のように宙を漂うように作ったナノカメラは、民間人の入手が規制されている代物だ。なにせ微細なマシンはどんな隙間にも入り込む。個人情報の漏洩に繋がるため、使用するときはいちいち申請しなければならない。作戦前、突入前、そしてバルブを開放する直前。PDAで使用許可をとり、ゴーサインが出たときのみ、使用できる。
そんな面倒な手続きを得るだけの価値はある、このカメラが生み出す効果を考えれば。細かい霧状の機械群体は、“蟻塚”のような構造把握の難しい建築物の内部を探るのには重宝する。無機物と有機物を判別し、生体反応を探ることが出来るのもこのナノカメラの特長だった。
網膜に備え付けられた微細なスクリーンに投影された、微細カメラの映像には砂嵐が伴っていた。
「映像、大分悪いな」
加奈が言うと、隣にいたショウキも同感だと言う。
「仕方ないさ。もともと一つの分子機械は映像を取るようには出来ていない。全体の中の、それぞれのマシンが協調して賦与されたプログラム通りに動き、カメラ構造を持つように配列されてからやっと映像を捉えることができる。どこかが映像が歪んでいても、こうして撮れているだけで奇跡に近い」
生物行動プログラムに加え、映像受信の機能も与える。肉眼では判別できない微小な機械にそれだけの機能を持たせている。多少の不出来は勘弁してやれ、とまるでいたずらして叱られた子供を庇うみたいなことを言う。馬鹿馬鹿しいと加奈が頭を振った。
「機械は、所詮機械だ」
そう言った加奈の声には、重たい響きがあった。
やがて全ての階層に分子機械が行き渡る。網膜にはっきり映る、“蟻塚”の内部。
《構造把握、これより突入する》
言って、ショウキが飛び込んだ。加奈も後に続く。
「赤外線」
とショウキがいうのに、加奈は懐から暗視スコープを取り出した。コンタクトレンズサイズのそれを、右の眼球に直接かぶせる。レンズの裏に走らせた、高分子EL素子が緑色に発行する。火傷を負ったケロイドの皮膚を思わせる、風化した壁とむき出しの配管がレンズの中に浮き上がって見えた。大小のパイプ群が織り交ぜられる様は、神経組織が複雑に絡み合って相互に干渉し合う脳内のモデルによく似ていた。
水道管から、水滴が天井から零れ落ちる。地面に水溜りをつくっている。
水滴が、跳ねた。
静寂の構造体、息遣いすら封印した闇の中で。ただ、水の滴り落ちる音がする。
H&Kのサブマシンガンのグリップを強く握りこむ。冷気が肌をなぞる、なのにグローブの中は汗ばんでいた。
らしくもないな、やはりこの空気か。少し緊張している。
“中間街”独特の沈殿した空気と錆びた鉄、饐えた臭い。風が、穴だらけの“蟻塚”を抜ける度、オーオーと唸り声にも似た音が鳴る。そうしたもの、空気や音、五感の全てが。脳裏に浮かぶ、イメージを象らせる。
血濡れた手、炎の舌、滴り落ちる体液――それらのイメージが輪郭を帯びてくると耐え難い苦痛の波が襲う。心臓を凍りの手のひらで掴まれたようになり、筋肉が収縮して固まる。息が詰まる、閉塞感。心に澱が溜まっていく。
「加奈、最初に言っとくが……」
ショウキが出しぬけに言葉を発した。
「何よ」
「俺たちはチームだ、それは分かるよな」
「んー……まあ……」
「で、俺はお前のパートナー」
「知ってる」
内心、ショウキが話しかけてきたことに安堵していた。もしこの空気の中、一人でいたら自分がどうなっていたか分からない。
「だから、その、何だ。何か悩み事でもあるのか、さっきから」
加藤からの突入準備完了という報告を聞きながら、ショウキが言った。
「様子がおかしいぞ、お前」
「そう?」
微細カメラの映像で、いよいよ対象に近づいてきたことを知ると加奈はサブマシンガンの銃口を上に向けた。
「わたしが先行するから、ショウキ。援護して」
「おい、話聞いてたか。俺は……」
「心配せずとも」
壁に背を預けて、ステンレスの扉を注視する。トリガーにかけた指が、震えていた。
「あんたが思うようなものじゃ、ないさ」
そう言って勢いをつけ
扉を蹴破った。