2―6
「新伝とは縁を切った」
壁にかけられた、古ぼけた写真を見ながら柳が言った。
「縁、とは」
「そのまんまだよ。かつては同盟の客分として置いていたのだが、あやつは危険すぎる」
額縁に収まった、すっかり色あせた写真には若き日の柳と新伝が写っていた。柳はふう、っと息を吐いて
「俺はな、紫田。国体護持、日本民族による主権回復。そういうことを訴えて、この京都報国同盟を作り上げたんだ。しかしあいつは、移民排斥の国粋主義に走った。それは、俺の理想とは違う。異民族を排斥することが正しいとは、思わない。ヤクザへの支援を断ち切れとあるが、そんなものはとっくに断ち切っておるよ」
「国体護持か」
紫田が呟く。
「柳、お前にこんなことを言うのも難だが。時代はもう、君主を求めてはいない。民族や人種の概念は無くなりつつある。もともと曖昧だった『日本民族』と言う定義、それは一体どこにある? 変化するのだよ、時代は」
「変わらないものだって、あろう。紫田」
とん、と杖をついた。
「環境が変わっても、時代が変わっても。そこにある、本質。軸は、そうそう変わらんよ。いつだったか、議論しただろう。DNAの」
「DNAは受け継がれる、という話か」
遠い過去に思いを巡らせながら
「生物の体、生体は生れ落ちてから、代謝を繰り返しいつかは滅ぶ」
「けれど遺伝子に組み込まれた情報は、次の世代に受け継がれる。DNAは、代を重ねても不変だとな」
と柳が言う。
「観念的なものだろう、柳」
紫田は腰を上げた。柳とは背中合わせに、立ち上がる。
「DNAが決定することは、ヒトの卵からヒトが生まれ、カエルの卵からカエルが生まれる程度の事。実際に生体に作用するのは蛋白質で、その形状は少しずつ変わっていく。不動のものなんて、ありえない」
「それは……俺のことを言っているのか。それとも」
柳は振り返って
「お前の事か?」
紫田は、口を閉ざした。柳は再び、写真の方を向いた。
「紫田、お前今、新伝を追っているんだったな」
「ああ」
「頼みがある。新伝を、討ってくれ」
と柳が言うのに、驚いて顔を上げた。
「そうすれば、兵庫からの撤退。その条件を飲もう」
「それは……もとよりそのつもりだが。しかし、なんでまた……」
「理想のために」
柳は天井を振り仰ぎ
「今は袂を分けたとはいえ、一時は志を同じくした。俺には息子がいないからな、本当の息子みたいに思っていた」
写真には、軍服を着た新伝がいた。少し緊張気味の、まだあどけなさを残した青年だった。
「あいつは俺のところを飛び出して、東北に拠点をおいてなにをやらかしたかというと単なる破壊と恐怖を与えるだけだ。俺たちは筋を通してナンボだ、筋の通らない奴は排除されるべき」
「お前がやればよかろう」
「俺の手で引導を渡すのは忍びない」
柳の、杖を持つ手が震えていた。紫田は
「やはり、変わらんな。お前の、そういう所」
柳は黙して、語らない。
しばらく待機していると、柳との話し合いが済んだようで部屋から紫田が出てきた。紫田は「帰るぞ」と一声かけると、また暗い鉄筋の通路を戻る。秋水が先行して、加奈も続いた。開け放した扉の向こうで、柳が背を向けているのがちらりと見えた。
地下に潜ったときと同じように、車に乗り込む。昇降機が稼動し、地上に出る間、紫田はずっと無言だった。紫田と柳のこと、大学の同期というのは本当なのか、聞いてみたい気もした。何を話したのか、あの2人の間にどんな因縁があったのか――そう問うことを許さない、空気を纏っている。言葉では埋らない溝、紫田と加奈とでは生きてきた時間が違い過ぎる。安易には訊けない気がした。
上昇が終るとまたランダムな走行を繰り返し、やっとフロントガラスが透明度を取り戻したときには、空が茜色に燃えていた。
「これを、お返しします」
と秋水が、加奈のブローニングを差し出した。
「正直、かなり焦ったわよ、あの時。プラスティックの短針銃なら、金属探知機には掛からないものね。次からはボディチェックを怠らないようにするわ」
加奈は無言で拳銃をひったくって、ホルスターに収めた。本来あるべきところにあるべきものが収まると、果たして安堵感を覚える。パズルのピースが、かっちりとはまったような。
「あなたとは、話が合いそうだと思ったのに」
秋水が残念そうに言った。合うものか、と加奈が返すと、ふと耳に子供の声が聞こえてきた。
振り返ると、5,6歳ほどの男の子たちが5人、通りでボール遊びに興じていた。網膜に蘇った時刻表示は、17:09。こんな時間に、子供が外で遊んでいるなんて都市内部ではありえないことだった。都市の子供なんて、部屋にこもって仮想現実のゲームに没頭するか、ネットサーフィンに情熱を注ぐか。それが普通だ。そもそも、子供だけでいることが無い。子供を放置すると、親の管理責任が問われる。場合によっては罰金がとられるので、都市に住む子供は通常、だれか大人たちの目の届く範囲にいなければいけない。部屋にこもっていれば、子供たちはゲームができるし親たちもとりあえずは罰金徴収から免れる。外に出る事なんて、先ず無い。
それが、ここでは――男の子たちは直径30cmほどのボールを投げあって、ぶつけ合って、転げ回って遊んでいた。あんなこと、怪我するからという理由でだれもやりたがらないだろうに。木造の家から中年の女性が出てきて、ご飯よ、と声をかける。男の子たちは、じゃあね、また明日と言って駆けてゆく――そんな光景を見ていると、何かが込み上げてきそうになる。あの母親は、少なくとも子供たちを残して消えたりはしない。自分のために手を上げることも、子供に辛辣な言葉を投げかけることもない。それも、法律で縛る必要も無く、自然とそうすることが当たり前であるかのように振舞うだろう。母親の柔和な微笑と、男の子の邪気のない笑顔を見ているとそんなことを思った。今まで見てきた、伊豆の“中間街”、横浜、静岡の“ゲノム・バレー”と。そのどれにも無かったもの、なのに懐かしさが込み上げてくる。自分を生んだ人間なんて、どこの誰だか分からないのだし、あの家族のようになることは今後絶対、ありえない。その、筈なのに。
子を成して、家庭を築いて、育て、死んでゆく。そんな全てを、羨ましいとも思ったこともない。ない、はずなのだがどうしてか引きつけられる。
死の匂いしかしない、と幸雄が言っていた。“中間街”は死んだ街だと。なら、彼らは。あの男の子と、その母親は死んだ街の住人ということになる。では、死の匂いを感じるか? 答えは否だった。あんな風に笑う人間は、都市の内でも外でも見たことは無い。
「いい所だと思わない?」
秋水が言った。
「“中間街”といえば、皆嫌な顔するけどね。ここに住む人たちは、少なくとも都市の人間みたいな窮屈な生活はしていないわ。仕事して、勉強して、夜には家族と一緒に食卓を囲む。都市みたいに便利じゃないけど、ここを離れたいって人は、今の所いないわね」
わたしたちはなにも強制していないのに、と秋水が言う。加奈は、夕陽に染め上げられた京の町を臨んだ。
比叡山が、紅葉に色づいている。鐘の音が、遠くの方で響いていた。目の前を、赤蜻蛉がついと横切った。秋風が頬を、柔らかく撫ぜるのを感じた。
あの、伊豆の“中間街”とは何もかも、風が運ぶ匂いや大気中の微粒子の一つ一つすら違う、もっと透明で清澄な空気のベール。金属や有機物、砂っぽい空気は、少なくともここにはない。
また、と言って秋水は黒服たちを従えて去っていった。紫田の方を見ると、何かを思い詰めたような目つきで天を仰いでいた。
空には灰色掛かった雲が、絹を裂いたようになっている。
ヘリのローター音が、降りてきた。