2―5
まるで空気が立ち昇るかのように揺るぎなく、柳が立ち上がった。手元が光った、時には細身の刃が抜かれて柳の右手に握られていた。
仕込杖だ。柳がついていた樫の木で出来た杖、そこの刀が仕込まれていたのだ。鞘が床に落ちると同時に、切っ先を紫田の首につけた。
反応できなかった。挙動は一切見えず、技の起こりは皆無。ノーモーションで抜刀された刃が、今にも紫田の頚動脈を切り裂かんとしている。
――しくじった。
「貴様!」
加奈は懐から銃を取り出した。プラスティック製の短針銃を柳に向ける。玩具のような安物の銃口が柳を捉えると、黒服2人が同時に、銃を構えた。国産のリヴォルバーを、機械の正確さを以って加奈の頭部、心臓につける。遅れて秋水が、ゆっくりとグロック拳銃を構えた。銃を下ろしてください、と静かに告げた。口調に反して、険しい表情で。
「この距離なら、あなたとて無事には済まないでしょう」
「そこの爺が、刀をどけたらな」
と言って、加奈が柳と秋水を交互に睨み渡す。引き金にかけた指に神経が集中してゆくのに、銃のグリップを絞り込んだ。秋水が構える銃口が、洞穴のように奥深い。もう一度、秋水は
「銃を、下ろしなさい」
「断る」
両者とも、一歩も退かない。
柳は直刀を紫田に当てたまま、視線を加奈の方に向けた。
「晴嵐、加奈さんか。こちらには、あんたの体を砕く武装はないが――」
その言葉、加奈の身を竦ませるには十分すぎる威力を持っていた。
「わたしのことを?」
「知っているさな。セイラン・テクノロジーの令嬢にして、“特警”のエース。全身に埋め込んだ生体分子機械には全て自社のものを用いている。セイランの『歩く見本市』ってね」
柳が乾いた声で小さく笑った。しかし、目は笑っていない。万物を見渡すように睥睨するようで、かつ突き刺す視線。柳の後ろに並ぶ、3つの銃口、そのどれよりも重い圧力を放っている。
「義父のこと、悪く言うと」
奥歯が勝手に鳴りそうになるのを、ぐっと歯を合わせた。顎が痛くなるほど噛み合わせ、その咬合力の強さが刺激となって、神経を走る。皮膚感覚が鋭敏になり、筋肉の瞬発力に作用する。血が満ちてゆく、体の末端にまで。
「気に障ったかの、お嬢ちゃん?」
「貴様……」
最後は茶化すように言うのに、引き金に力をこめる。
「やめておけ」
と柳が言って
「その短針銃の針が届くより先に、紫田(この男)の首を掻き切る」
そう告げられると加奈はなにも出来ない。紫田につけられた刃は、加奈が「撃つ」と思うより先に首を切る。柳の言葉の端々に、そう思わせる何かがあった。脅迫や恫喝の類ではなく、経験に裏打ちされた説得力を持っていて、「必ずそうなる」という確信を与えさせる。それは科学的根拠にも等しく感じられた。
空気だ、柳の纏う空気がそう思わせているのだ。加奈の体を包みこむように、粒子の雲が漂って。加奈が動けば空気も動く、それが柳に伝われば即、切ることだろう。紫田の首を。
ゆえに、動けない。
――クソッ
歯噛みしても遅かった。今、紫田の命は完全に敵の手中にある。
「銃を下ろせ、晴嵐」
押し黙っていた紫田が、口を開いた。この状況でも、顔色一つ変えず柳と向き合っていた。
「し、しかし……」
「斬るつもりならとっくに斬っておる、この男は。間合いの中に入った時点で、覚悟はできておるよ」
怖れなど感じていない、という口調だった。変わらずに、淡々と述べる。
「それと」
と紫田は続けた。
「少し、席を外してもらいたい。この場は、この男と2人だけで話したいのでな」
「それは……」
「命令だ、晴嵐」
ぴしゃりと言い放つ。加奈は不承不承、銃を下ろした。すると柳が
「秋水、お前も席を外せ」
刀をつきつけたまま言う。秋水が銃を下ろして、黒服たちに目配せする。機械的に構えられた銃は、機械的に下ろされた。
「晴嵐さん、こちらに」
と秋水が、微笑みながら言った。
「お茶でもいかが?」
横目でちらと、紫田の方を見やる。紫田がかすかに、頷いた。短針銃をホルスターに収めると、秋水の後に続いて部屋を後にする。最後に、柳を睨みつけて。
加奈たちが出て行った部屋の中央で、未だ刀を構えたまま動かない柳と、その柳を見上げる紫田が残された。
刃が、頚動脈の上に置かれていた。
刀の柄を握る、柳の右手は卵を持つように柔らかい。無駄な力が入っていない。剣先はぶれず、揺るがず。呼応するように、両者の視線が険しさを増す。
沈黙が一定時間続いた後、
「腕は落ちていないようだな、柳」
紫田が口を開いた。
「『九段暴動』を思い出す。あの時も、お前に軍刀を突きつけられたな。何と言ったかな、あの時」
「さあ、何だっけ。覚えてねえよ、適当に叫んだんだから」
柳はそう言って、カラカラと笑った。刀を元の杖に収めて、ソファーに背中を預けるように、どかっと腰を下ろした。目元から険しさが消えると、人懐っこいような笑顔になる。
「この間OB会だったんだろう? 後輩たちをしごいてきたか」
「わしらの頃に比べると、勢いがなくなっていたな。しごくような稽古はつけて無い。あんな稽古をつけたりしたら、たちまち人権委員会の査問にかけられる」
「いまどきの学生なんて、そんなもんだろう。もっとも、勢いありすぎて俺みたいになっちゃかなわねえがな」
よほど面白かったのか、自分で言った冗句に自分で笑う柳。紫田は、笑えんよ、それはと言ってわずかに微笑した。
「すっかりご無沙汰だな、先輩方にも。あの『興国の政変』がなけりゃー俺だって」
「政変のせいじゃなく、飽くまでお前さんのせいだろう。大学から除籍させられたのだって」
「ま、そうだな」
柳は先ほどまでとは打って変わって、屈託が無い。居酒屋で昔話に花を咲かせている、好々爺といった風情。だが、これが柳弘明という個人である。人懐っこく、明朗で豪快。そのことを、紫田は知っている。ただ、その素顔はゲリラの長という仮面の裏に、巧妙に隠されている。
本当なら、昔を懐かしんで酒を酌み交わすことだって出来ただろうに――思っていても口には出さない。かつての盟友は、国家の敵であるのだから。
「懐かしいな、あん時はただ剣を磨いていればそれで十分事足りた。単位を落としまくっていてもな」
仕込杖を軽く振った。乾いた笑い。細めた瞼が、淋しげだった。
「その杖」
と紫田が切り出して、黒光りする樫の表面を示す。
「特注か。護身用にしては、刃が厚い」
「こんなもん、ただの飾りさ。軍刀もそう、銃の時代に刀なんざ」
「その割には、実に効果的に使う」
「精神的なものさ、後は見苦しくない最期を向かえるために。サムライの最期は、ハラキリって決まってる」
紫田は呆れたように――それでも少し楽しげに――息をついて
「変わらないな、お前も」
「大学の時の、お友達なんですよ」
と秋水が、加奈に湯飲みを差し出していった
「どうぞ」
「いらん」
と突っぱねた。なんで、敵陣のど真ん中で敵の茶を啜らなければならんのだ、馬鹿め。
「そう、肩肘張らないでもっとリラックスしたらどうです?」
ここ、置いときますねと湯呑みをサイドテーブルに置いた。濃緑の液体を湛えた茶碗から、湯気が沸き上がった。それが、空調の微風に煽られて形を変えた。渦を巻いて、輪を作り。そのまま、空間に溶けてゆく。
なにがリラックスだよ、わたしとお前は敵なんだぞ。
「敵、っていうのは自分で作るものなんですよ」
秋水が湯呑みに口をつけた。
「己の心が作り出すものです。この人は敵、この人は味方、と。その他の要素も絡んできますが、結局は自分の心が敵と味方を選別するのです。瑣末な問題ですよ、そう考えると」
何故テロリストに説教されなければならないのか、良く分からなかったが。
「父、柳弘明と紫田さんは」
秋水がお茶を啜りながら言った。
「もともとは同じ学び舎で、剣の腕を磨き合った仲と聞きます」
「部長が? 柳と?」
「ええ。大学で、剣道を」
だからあの腕か、と先ほどの重圧感を思い出す。起こりの見えない抜刀、正確無比な剣捌き。立つ、抜く、構える。たった三つの動作の中に、鍛え抜かれた戦士の剛胆さと、役者のような気品を漂わせていた。
しかし紫田が剣道とは。はっきりいって、似合いそうも無い。紫田はデスクワークのイメージしかなかったから。
「昔は友でも、簡単に敵味方になる。自分の心構え一つで、そういうものですよ。所詮は」
「それは少し違うだろう。どちらかというと、立場の問題だ」
とセブンスターに火をつけると、横から秋水の手が伸びた
「ここは禁煙よ」
煙草を取って、揉み消した。
「地下だから、煙は厳禁」
「それはいい事聞いた。今度来る時は発煙弾をしこたま持ってきてやるわ。テロリストを、燻り出してさ」
「テロリスト、ね」
秋水は一言、呟くと
「あなたたち政府は、皆そうね。テロリスト、テロリストって。そう言えば、自分たちの罪を全て他人に転嫁できると思っている」
秋水が少しくだけた喋り方になったが、そこは特に気に止めず
「どういうこと?」
「“中間街”を見れば分かるでしょうけど」
と秋水が言う。
「都市に入れないのは、ヤクザだけじゃない。むしろ、一般の民衆が多いんだから、“中間街”に住んでいるのは」
「いや、だからって」
「命を脅かすもの、このままだと先細りだって分かっていて、武器を取るしか選択肢がない。いや、それすらも選択できない人がいるというのに。そういう人たちを全部“テロリスト”という言葉で括るの? 全部が全部、凶悪な殺人者と」
そうまくし立てた。
「それは……」
言葉に詰まる。
「あそこに住んでいるのは、国から見捨てられた人。自らの無為無策を棚に上げて、都市の外にいる人間を有害たらしめたのは他ならぬ共和国政府よ。凶悪なテロリストに仕立て上げて」 言うことがいちいち胸に突き刺さる。“中間街”のストリートから臨む、都市を囲う“門”をやけに遠く感じていた、子供の時分を思い出していた。
“中間街”の汚えガキ――大体がそういう評価だ、あの街の人間に下されるのは。施設にいても、そこから出て路上に出ても。ガキはただのガキ、それ以上でも以下でもなく、なじられて踏みつけられていく。それが普通だった。
――それを疑問には思わないの?
そう、訊いた奴がいたっけ。その問いに、わたしは何と答えたのだろうか。何と――
「晴嵐さん? 聞いてます?」
秋水が言うのに、我に返った。いけない、またフラッシュバックか。しかし、眩暈はいくら待っても襲ってこない。プラスティックケースを取り出すも、錠剤は必要なさそうだと懐に仕舞い込んだ。
「そうは言うが」
額の汗をそっと拭いながら
「あんたたちは、少なくとも違うだろう。国民にとっては脅威なんだから、その武装は」
「ま、わたしたちはこれでも筋は通しているつもりだけど」
すると、秋水は困惑するような顔になって
「どうも、その辺理解していない輩が多くて……」
そこから先は、何も言わなかった。
テーブルに置かれた湯呑みから、温度が奪われていく。