2―4
日産のハイブリットカーに乗るよう促される。加奈が乗り込もうとしたとき、
「その前に」
と秋水が言って
「懐のもの、お預かりしますわ」
金属探知機を片手に言った。舌打ちして加奈は、ブローニング・ハイパワーを弾倉を抜いて渡す。さすがに抜かりないな、と言うと。
「お褒めに預かり、光栄ですわ」
秋水がわざとらしく言う。別に褒めてない、と言って加奈は車に乗り込んだ。
合成革のシートに腰を据えると、透明だった窓ガラスが一気に墨で塗りつぶしたように黒くなった。
「分子機械がガラス表面を泳動しているんです」
と秋水が説明した。理屈は光学迷彩と同じようだ。もっとも、あれは発光細菌を壁面に走らせて光量を調整するのだが。
「少しの間、外の景色は見えませんが我慢してくださいね」
「私は構わんよ」
紫田が能面を貼り付かせた無表情で言った。
なるほど、これから行くところは外部者に見られるわけにいかないと言うことか。車は右に曲がったり左に曲がったりを繰り返し、方向感覚を掴めないようにわざと複雑な動きを取っている。ランダムな動きで、胃の中が引っ掻き回される心地がした。“中間街”の風景なぞどこも似たり寄ったりだが、こういうときには外を眺めたくなるのは人間の本能なのだろうか。
急に、背中に負荷が掛かる。体が傾いて、どうやら坂道を昇っているようだった。山道か。
「もうすぐ着きます」
と秋水が言う。そう言い終わるか終らぬかのうちに、停車した。
ガタン、と車体が大きく揺れたかと思うと一瞬だけ、体が浮き上がるような心地を覚える。今度は車体が下に沈みこむ感覚。そういえば本拠地は地下にあると聞いた。車ごと昇降機に乗って、地下に潜って行っているのだろうと推測する。聴覚レベルを上げてみると、車体の向こうからかすかにワイヤーが擦り合わされる音がした。
随分深く潜るのねと言うと、秋水は助手席でくすりと笑った。
「今の軍には、見つけられません。過去何度も潜入作戦を展開したけど、ここが見つけられることはありませんでした」
得意気に、そう語る。
「地下の構造は数百の階層に分かれていて、一つの層に数十通りのルートがあります。“御所”に移動するには――あ、“御所”っていうのは同盟軍の司令部なんだけど、そこに至るまでには決められたルートを決められた順序通りに進まないと、永久に辿りつけないようになっています。ちょっとした地下牢ね、過去何度も共和国軍の兵士が行方不明になって数ヵ月後に干からびた姿で発見されたり、なんてこともあったわ」
秋水の年齢は、それでも20代後半といったところだろうがいたずらっぽく笑う様は見た目よりもかなり若く見える。時折ぱっと弾けさせる笑みは、子供がはしゃいでいるようで。
今までのヤクザとは、違う。
「そんなこと、わたしたちに話してもいいのかよ」
「お話したところで大した影響はありません。ここに入れば、あらゆる電子機器が機能しなくなる。例えば、あなたたちの体に埋め込まれている情報通信機器(PDA)も――」
いわれて、初めて加奈はPDAが沈黙していることに気がついた。通信状態は圏外を表している。なにか、妨害電波のようなものが流れているのだろうか。
なるほど、共和国軍が迷うわけだ。いくらナノマシンを散布しても、走査出来なければ意味がない。皮肉なものだな、人を生かすための電子機器がここでは人を殺すのだ。
「考えたわね」
と呟く。
やがて昇降機が止まったのか、機械の音が途絶えた。つっかえ棒を外したような抵抗を感じて、車体が上下に弾む。秋水が告げた。
「さあ」
どこか、面白がる風情で
「着きましたわ」
後部座席から降りると、果たして加奈たちを出迎えたのは“蟻塚”内部を想起させる入り組んだパイプ、縦横に走った鉄骨。狭苦しい空間が、車一台を収容する分だけ開かれていた。金属の粉が漂う、粉塵だらけの空間に混じる、油と皮脂の臭いは“中間街”のそれに通じる。
鉄筋が交差する、まるで籠だ。炭素クラスタに内包される金属原子、フラーレンの心地を得た。
「ようこそ、“御所”へ」
秋水が言った。
およそ、どの国のハイテク機器を用いても場所を特定することが出来ないとされる、京都報国同盟の本陣。通称“御所”。『興国の政変』後、京都を制圧した報国同盟は以前から存在していた地下鉄をさらに掘り進め、地下数百メートルに及ぶ地下都市を創り上げる。入り組んだ階層と堅牢なシェルターは、どんなに慎重な部隊でも突破は難しく、また各所に張り巡らされた電波障壁が磁場を狂わせる。どのような電子戦機を用いても全ての階層の解析には至らず、ナノカメラすら入り込めない電磁の要塞。それが、“キョウト・アンダーグラウンド”と呼ばれる同盟の砦であった。
“御所”は、その最深部にあると推測される。加奈が感じたのは、地下特有の息苦しさだった。空気の循環は、深ければ深いほど困難になる。どんな循環装置を使っているのか分からないが、これではまるで高山にいるようだ。試しに酸素濃度を計ってみようとして、ああそうか電子機器は使えないのかと思い出した。PDAも、旧式の携帯電話すら通じないこんな地下深くで、ここにいる人間は果たしてどのような手段で通信しているのか。少し、気になった。
「お二方はそのようなこと、ないと思いますが……」
薄暗い廊下を歩きながら、秋水が振り返ってきた
「あまり、出歩かないようにしてください。ここは様々な電波が飛び交っております故、場所によっては危険ですから。“御所”周辺は安全ですが、電磁波が人体に及ぼす影響がどれほどのものか、ご存知でしょう」
「随分親切だな、敵である我々に」
紫田が抑揚のない声で応じる。
「例えばそれを教えずに、我々が電磁波に当てられて細胞を変質させて死んでゆく様を、つぶさに観察することだって出来るだろうに、君たちは。ここでは、我々は無力なのだからな」
「いえ、政府の代表として来られた方にそのようなこと致しません。まして」
秋水は、小さく肩をすくめて
「父の古い友人である、紫田さんには」
古い、友人? こともなげに話す秋水だったが、紫田とテロリストが「友人」とはどういうことだろうか。問いただそうと加奈が口を開きかけたとき
「ここです」
秋水が立ち止まった。目の前に聳える、黒塗りのいかにも重厚そうな扉の前に立つ。秋水がブザーを鳴らすと、入れという男の声がした。
「失礼します」
扉を開けた。
いきなり飛び込んだ、床一面の鮮烈な赤。原色の、血にも似た色が網膜に突き刺さった。暗がりから突然現れた“赤”、眼球に、網膜に刻みつけられた真紅は、一瞬血の沼に足を突っ込んでいるような心地にさせる。2秒ほどの時間を有して、ようやくそれが敷き詰められた絨毯の色であることを認識した。
次にそこが、12畳ほどの空間、応接室のようなものであるということが分かる。沼の中央に、浮島の如く据えられた黒いソファーが二つ。上手のソファーには、紋付袴の老人が座っていた。その脇には、殺気だっている黒服が2人、立っている。
「こっちに」
と老人が言う。禿頭の老人は、すっかり白くなった髭を胸の辺りまで伸ばしていた。刻まれた深い皺と、杖に置いた枯れ木のごとき手指が老人の年齢を示す。生体分子機械を埋め込んで(インプラント)いないようだ。生体分子機械は生物機能の補助目的で入れられる。まともな分子機械を使用しているなら、皮膚の弛みや毛髪の衰えはありえない。明蘭のように60歳以上若返らせることすら可能なのだ、ナノバイオテクノロジーは。しかし、そうしたアンチエイジングを施した形跡は伺えなかった。
「柳弘明だ」
と老人が名乗った。秋水は会釈すると、2人の黒服と同じように柳翁の脇に控える。
そうか、こいつが。背筋がささくれだった。京都報国同盟の長にして、ヤクザたちの頂点に立つ男。柳弘明、国内ゲリラには軍神のごとくに崇拝されているナショナリスト。それが、目の前にいる。
まあかけろ、と促す柳。紫田がソファーに座ったが、加奈は背後に控えた。柳の正面に立ち、黒服たちと秋水を見渡せる位置に。いざというとき、紫田を守ることが出来る、ここなら。
柳は杖に両手を預けたまま、加奈を舐め回すように見て
「そちらは?」
と訊く。
「わしの部下だ、交渉には支障はない」
「部下、ね。ま、カタブツのお前さんのことだから、それ以上のことはないんだろうが……」
皮肉っぽく、柳が言う。しょぼくれた一重瞼の奥から、瞬きひとつせずに加奈を射抜く柳の目。加奈が真っ向睨み返してやると、首筋が粟立つ。
瞳の奥底に、猛禽が爪を隠している。獣のように猛ることなく、静かに獲物を狙っている――そんな印象だ。
眼光は、不思議に実体を伴う粒子のベールを纏っているようだった。表面だけをなぞって睨みを利かせた気になっている、ヤクザたちとは違う。重圧、視線に質量が伴って、細かい粒子が細胞の間に入り込んでゆく。象牙色した骨の、髄液まで見透かされそうな心地が、落ち着かない。この男なら、おそらく。例え共和国の潜入部隊が“御所”に至ったとしても、この男と対峙すればどいつもこいつも精神を崩壊させてしまうかもしれない、と思った。こいつなら、視線だけで。
刺し違えてでも、果たしてこの男を殺れるだろうか――脳内でシミュレートする。柳弘明、奴がどう出るか。そしてどう、応じるか。だがそれは無意味だと悟った。加奈が何かを考える、その暇すら与えてくれないだろう。なにもかも、先の先まで読まれているような鋭い、目。冷や汗が伝う。これほどの重圧、サムライを相手にしても味わえない。幸運だったな、ついてるよ加奈、と唇を噛む。こいつを前にすれば、少なくとも余計なことは考えなくて済みそうだよ。
「政府としては」
紫田が切り出して
「京都報国同盟に休戦を申し込む、その条件として次のことを要求する」
取り出したのは、きちんと折りたたまれた封筒だった。柳が受け取ると、簡素な文面だった。
柳が読み上げると、大体内容は次の通りだった。
曰く、兵庫からの撤退。
曰く、ヤクザへの資金流入の打ち止め
「新伝龍三の『天正会』、およびそれを中心とするナショナリストに対しての支援を打ち切り、兵庫からの撤退。その二点に於いて、政府としても最大限の譲歩を」
「くだらんな、紫田」
柳が書状を丸めて、投げ捨てた。加奈は身構えた。それに呼応して、黒服2人も。秋水は直立したままだった。
「くだらんよ、紫田。お前はいつから、そんなにつまらない男になり下がった? 昔からカタブツだったが」
この2人は、やはり知り合いなのか……「古い友人」と言っていたが本当のことなのだろうか、などと思っているとおもむろに柳が身を乗り出して
「政府の狗なんぞになりおって、昔のお前なら俺をぶん殴ってでも言うことを聞かせただろうよ。こんな紙切れ一枚のために、国に使われて」
「それが仕事だ、わしの」
飽くまで紫田は、淡々と応じる。ふん、と柳は長いあごひげを撫でつけて
「共和国を認めた覚えはないぞ、俺は。兵庫から撤退? 不当にこの国を占拠しているのは共和国だ。天皇陛下を追い立てて、我が者顔でこの地に居座る不届き者。俺はやつらから、この国を取り戻しているだけだ。お前だけは、分かっているものと思っていたがな」
「テロリストの」
紫田が言った。柳の目つきが、鋭角を帯びる。
「テロリストの、気持ちなんぞ分からぬよ。不当に占拠しているのはお前たちであって、不届きなのはそっちではないのか」
紫田が言った、直後だった。