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関西地方は、滋賀より先に公共交通機関は通っていない。
滋賀の大津より西、そこから先は武装地帯となる。京都、大阪、兵庫の二府一県に渡って広がる“中間街”、ここにはもうひとつの『国』が存在していた。
京都報国同盟――『興国の政変』で君主を追われ、皇室が瓦解した時に皇統を残すべく決起した3つの結社があった。既存のヤクザ、右翼組織とは一線を画した新興勢力で、台湾国民政府の援助を受けた機甲化部隊が関西地方を占領し、独立宣言を出したのが2030年、丁度“特警”が発足した頃に重なる。共和制に対抗する勢力は各地に散らばっているとはいえ、大っぴらに「建国宣言」を出したのはこの報国同盟をおいて他にない。一万人規模の兵力を有し、その全てがゲリラ化して関西の至るところに潜伏しているため、ここに近づくことは死を意味する。東西に列島を分割する非公認の「独立国」。兵庫より先の四国、九州へと赴く場合は、リニアを使わず空の便を使うのが通常だった。
その、混沌の京都にわざわざ出向く者の気が知れない――とばかりに、若い兵士が加奈と紫田を見ている。まあ、当然の反応だろうと加奈は思った。
「大津の空輸基地までは同行しますが……」
と兵士から説明を受けている紫田が、開いているのか分からないような目つきで遠くの方を見つめている。その姿を横目で見ながら、加奈は昨日のことを思い出していた。
本部でのブリーフィングで、加奈、ショウキ、加藤を前にして紫田がいきなり「京都に行く」などと言い出したときには、まずショウキが食って掛かった。
紫田曰く、これは戦闘行動に帰結するものではなく交渉であるということだった。政府としても、京都との膠着状態をどうにかさせたいらしく、しかし表立っては動けない。つまりは密使だな、と紫田が言ってた。加藤が不満そうに、
「政府のおエライさんは、命令するのが仕事っすからね」
と鼻を鳴らして
「割り食うのはいつもオレらじゃないですか。京都なんて、自分が行くのが怖いからってこっちに振ってきて……」
紫田が口を慎め、と言うと加藤はすみませんねえ、と悪びれもなさそうに言ってから黙った。
「東京や静岡とは違うがあそこも一応は“中間街”だ、そこは我々の専門だろう」
紫田はそう言っていたが、狙いはそうではないだろうと加奈は踏んでいる。政府要人にもしものことがあったら大事だが、“特警”であればいくらでも替えがきく。何かあれば京都に対する大義名分が出来る。それ故に、だろう。いやらしい手を使うなと思った。
「部長、それでも危険なことには変わりはありません」
最後までごねるショウキを制して、加奈が言う。
言葉を切って
「わたしが随行します」
清澄な分子エンジン音が空中に波打って、甲高い羽音がフィルターを介したように聞こえる。押し寄せては引く音階が、水面に咲く波紋の広がりを見せて増幅される。加奈の聴覚デバイスが捉えた、生体分子のかすかな流動。空艦艇“ハチドリ”の生体エンジンの駆動音が、頭上を旋回しているのを感じた。
「おでまし」
と加奈が言うのに、紫田が渋面をつくって
「どこに」
「ん、直ぐ上ですよ」
そう言って加奈は頭上を指差した。何もない虚空を。
曇り空の中、薄く、空が光ったかと思うと円筒形の機体が現出した。機体表面に施された光学迷彩が解除されると、シリコンの外壁が徐々に色を帯びる。完全に透明度が無くなると、4対の羽を持つ鉄の鳥が空に浮かんでいた。
「ほら」
加奈が言うのに、紫田が眉根を寄せて
「高周波を捉えられるほど、わしの耳は良くない。聴覚デバイスを埋め込んではいないからな」
「なら、埋め込んだらどうです? 今どき生体分子機械の一つも入れていないなんて」
「余計なお世話だ」
と、不機嫌そうに言った。
“ハチドリ”の羽音は、高い周波数を発し、通常の人間には聞き取れない音域での駆動音になる。分子機械で組み込まれた、聴覚デバイスで増幅された者にしか音を拾うことはできない。それも機内に入ると事情が変わる。
“ハチドリ”に乗り込むと、加奈を迎えたのは息が詰まりそうな音の波だった。
機体を揺るがすような重低音、金属が軋む音は高分子アクチュエーターが伸縮し、培養された分子モーターが心臓の鼓動と同じく一定のリズムを刻む。軋む天井、唸る壁。四方から迫る音が煩わしくなって、加奈は聴覚レベルを下げた。生体部品を使っていると、どうしても内部に音がこもるのは仕方のないことなのだろうか。
「耳が良すぎるのも、問題じゃのう」
紫田はシートに身を預け、悠然と座りこんでいる。兵士の一人がシートベルトを着けるよう促した。30歳半ばほどに見えたが、首筋に刻まれた皺が年齢を物語る。ドラッグ・デリバリーによるアンチエイジングも、首の皺までは消せないものだ。
「離陸します」
とその兵士が告げると、背中に軽く重力を感じる。窓の下に、ミニチュアモデルのように小さくなった静岡空港を臨む。すると窓の外に、一瞬だけ虹色の光が差した。光学迷彩が作動したのだ。“ハチドリ”自体、国内には数十機しか導入されていないが、このうち外壁を周囲の環境に合わせて色彩を変えることのできる光学迷彩を施している機体は陸軍、海軍あわせて5機しか配備されていない。光学迷彩そのものが特殊なテクノロジーの産物であり、各国の軍でも実戦投入されているところは少ない。応用されているのは、強化外骨格やステルス航空機など兵器が主である。ナノカメラも含め、特殊なテクノロジーは民間への技術転用は制限されている。そのため、この国では軍と“特警”の装備がテクノロジーの最先端をひた走る。こんな喧しい飛行物に億単位の金を投入するのも、半世紀遅れたこの国の軍事力を底上げしたいがためだろう。米国との同盟が破棄されて以来、単独防衛を余儀なくされたこの国はひたすら軍事に力を注いできた。不安定な東アジアの中にあって、国家を守るために予算の殆どが軍事予算に投入され、結果、“中間街”の対策は益々遅れる。囚人のジレンマ。
雲が切れると、相変わらずの砂まみれの市街地が砂漠の町の寂寥を以って広がっているのが見えた。
「京都はな」
と紫田が切り出したのに、加奈は顔をもたげる。
「近代より前までは歴代の天皇が住んでいたところだ、知っておるか」
「ええ、まあ一応は……」
そうは言うものの、はっきり言ってうろ覚えだった。近代史ならば幸雄から教わったものの、それ以降となると自信はない。そもそも、この国がおそろしく長い間、天皇という君主を拝していたことをつい最近知った位なのだから。紫田は続ける
「明治維新で大政奉還されて、以来天皇は東京に住むようになった。それも『興国の政変』で立場を追われ、今はスイスに移り住んでおられるようだがな。そんなわけで、熱狂的天皇主義者たちの多くは京都を象徴的な目で見ている」
「それが、『報告同盟』が京都を占拠した理由ですか?」
右手の方に、深緑の水を湛える琵琶湖が見える。いよいよか、と機内に緊張が走った。この先の、大津にある中継基地で旧型のヘリに乗り換える。そこから先の京都までは戦場。
「理由は、まあそれだけではないだろう。あの男のことだから――」
最後の方は、降下する“ハチドリ”の生体エンジン音にかき消されて聞き取る事が出来なかった。
大津に着くと軍事用でない、民間のヘリに乗り換えた。そうでないと撃ち落とされるからだ。向かうところは共和国の法が及ばない、いわば“敵国”。領空侵犯をすれば排除される。
乗りこむか――ジャケットの下に忍ばせたブローニング拳銃には、対機甲弾が収まっている。万が一の時は、紫田をこれで守らなければ。手のひらが汗ばむのを感じた。
離陸する。
旧型のローターの音を聞きながら、京都の“中間街”を見下ろした。
京都は、関西最大にして、しかしてもっとも豊かな“中間街”、と評される。報告同盟が“国”として独立する、と宣言したときから同盟は何もなかった“中間街”に教育と産業を持ち込み、“国”としての機能を持たせた。その甲斐あってか、窓の下に広がる街は大都市のようには行かないまでも、政変以前に存在した木造の住宅街であった。日本家屋が立ち並び、ところどころ灰色の壁をしたのは工場のようだった。家々の間を、小奇麗な衣服を纏った人間が行き来しているのが見える。しかし、閑静な市街のところどころにカーキ色の軍服を来た人間が立っているのを見ると、やはりここは戦場なのだと思い知らされる。郊外に備え付けられた地対空ミサイルの切っ先が常にこちらを向いているのは、兵士でもない民間人に過ぎない操縦士の平常心を失わせるには十分だった。
操縦棹を握り締めたまま、青い顔をしている操縦士に加奈が話し掛けた。
「ゆっくりだ」
耳元で囁くように
「ゆっくり息を吐いて、空気を吸い込みなさい。腹の中に、溜め込むようにね。それが出来たら黙って操縦するように」
20代の若い操縦士が、頷いた。腹式呼吸は筋肉を弛緩させ、精神を鎮める効果がある。
心配ない、と加奈が言った。奴らの指定する航行路を飛べば、手出しはしないはず。もっとも、撃ち落とされたら撃ち落とされたで政府の思惑通り、と言ったところか。
横目で見る、地上に据えつけられたパトリオットミサイルのナイフめいた機影。あれに撃たれたら、さすがに無事では済まないだろうと思いつつ。
――それも悪くないかもしれないな、都市で死ぬのはわたしには合いそうもない。
そんなことが、頭をよぎる。
やがて降下するヘリから臨む下界に、比叡山の厳かな佇まいが映った。
ヘリポートに降りたった加奈たちを出迎えたのは、加奈と同年齢位の若い女だった。
「お待ちしておりました、紫田様」
馬鹿丁寧に、深々とお辞儀をするその女はまるで化粧気がなく、髪も染めていない。白黒映画に出てくる女優のようだと思った。左胸には同盟の兵士であることを示す、十六八重表菊の徽章がある。
「柳秋水、と申します。そちらの方は……」
と横目で見る女の目は、なにか物珍しい、奇異な動物でも見るようだった。そんなにこの髪が珍しいのか、これだから“中間街”は――と加奈は睨み返してやった。頭の先からつま先まで、色のあるものが殆どないその女を。
「彼女は私の部下です」
と紫田が答え
「柳、ということは。君は」
「ええ」
柳秋水は微笑して
「こちらに。父が待っています」