2―1
第二章です。
膨れ上がった古傷に膿が溜まる。皮膚の下、疼痛と熱を伴う腫瘍が、塞がった傷痕に残されていて常に神経を圧迫して。体内に潜んだ異物、鬱屈した血液の残滓が皮膚の下に留まると、皮膚が腐り落ちてゆく感覚に陥る。己の体が醜悪なものに変わってゆき、細胞は死に至る。セントラルドグマ、DNAから蛋白質に転写される、流れがせき止められると生体は有機物の塊と化す。自分が自分でなくなるような――“中間街”を思うとき、最初に抱くのはそんな気分だった。
閉鎖された空間で、時代から必要とされなくなった鉄滓と風化した建造物が瞼の裏に蘇ると、胃の中が沈みんでいくような重苦しい気分を引きずる。循環する血液がせき止められたときの、締め付けられる感触と喉が絞られたような閉塞感が、澱んだ空気を纏いながら襲ってくる。息詰まるせめぎ合い、混沌の記憶。フラッシュバックが瞬くその中心に向けて射出する、複合メタルの爆裂弾。丁度、溜まった膿をメスで切り裂いて押し出すように、子供時代の忌まわしい過去を撃ち抜く。カスタマイズされたブローニング・ハイパワーの、無機質な銃口から撃ち出すことで、精神と脳内に溜まった過去の残像を排出する作業。軍に入った後、そして今は“特警”と。忘れるために、撃つのかもしれない――それでも構わないだろう、と加奈は思う。それで忘れられるなら、忘れている。“中間街”、食うか食われるかなんて生易しい理論ではない。肉となるか、それとも肉を纏っていられるか。その二種類に大別される世界だった。
生まれたときのことは覚えていない。気がつけば、自分は自分だった。物心つくかつかないかのうちに、人を殺して生きることを教わった。じっとして動かない、鉄の塊を使って誰かの肉を打ち壊す、それだけのために生まれたのだと。
壊さなければ、壊される。
銃のグリップを、汗ばんだ手のひらが包みこむ。腕を伸ばして体の中心に銃身を据えつけると、フロントサイトの白い星が瞳の中に映った。群がるのは肉の群、敵は3人。強化されたサムライが、突出した異形の肉体を以ってして各々刃や拳を振りかざす。サムライ、なんて呼ばれるだけあって奴らの体は接近戦用に改造されてあることが殆どだ。目の前の3体は腕の中にセラミックの剣を仕込み、腕の細胞を変質させ硬化した拳を持ち、または肉食獣の牙と爪をつくる遺伝子を導入していた遺伝子導入の化け物と、それぞれ対峙している。獰猛かつ変則的に攻撃を仕掛けるサムライたちに、都市警は随分手を焼いた。筋肉の細胞を操作して、獣の力と敏捷性を手に入れた遺伝子技術の申し子たちは、ネオンが作る暗がりでじっと息を潜め。ある日突然、牙をむく。政府に反旗を翻したヤクザたちの根本を叩けずにいるのも、ヤクザが神出鬼没なサムライたちの筋肉に隠れていたからだ。
遺伝子に特化した傭兵を叩く、そのために作られた組織が特別保安警察、通称“特警”。
ゆっくりと銃口をもたげる。一番近くのサムライに狙いを定める。
発砲。対機甲弾頭が額に着弾すると、マグネシウムの白い光が瞬く。高性能火薬が爆散し、内側から組織が破壊される。素早く右に振って、二発撃つ。二体のサムライの胴体に、食いちぎられた臓物を飛び散らして風穴が開いた。この間、およそ2・0秒。
「すげえな、相変わらず」
と言うショウキの声がした。加奈が銃を下ろす。
『状況クリア』
機械の合成音がそう告げると、果たして今しがた蹴散らした肉共は粒子となって消失した。フルCG立体映像を生み出す投影機から伸びる青白い光の筋が、完全に途絶えると辺りには闇が。一拍おいて、訓練室の正規の電源が点く。
「反応速度、射撃性能、そして精神状態。全てパーフェクトだ」
ELスクリーンに並ぶグラフは、ほぼ完璧な直線を描いている。ショウキが軽く口笛を吹く。
「こんなもんじゃ、計れないよ。実戦で役に立つかなんて、分からないでしょうに」
シミュレーション用の電子銃を置き、左腕の端末から記憶メモリーを抜く。戦闘データはバイオチップに定着されて、己の体にフィードバックされる。常に最高の状態に持って行くように、得られたデータを基にして左腕の分子端末が人工血球を操作する。恒常性、ホメオスタシスの維持は生物が生物である以上欠かせない機能であるが、それを目に見える形にするのが左腕に埋め込まれた分子端末である。分子をデバイスにした、DNAコンピュータは携帯端末の役割を果たすとともに、体内の血液状態や細胞の反応を計るバイオセンサでもある。人体を常に監視するシステムは、発見が難しかった病を燻り出すことの他にも運動性能の分析、それを基にした肉体強化に役立つ。国が推し進めたゲノムプロジェクトによって生まれた技術のひとつ。データ化された自分の体が、ELスクリーンに映し出される。銃を撃つ前、撃ったとき、そして直後の数値。撃つ瞬間、呼吸と脈拍が乱れている。グラフが、ほんの2,3mmほど跳ね上がっていた。余計な事を考えるからなのだろうか、軽い興奮状態にある。他の数値は全て正常なのだが。
「いかんな、これじゃあ」
ため息をついた。他の者から見れば、完璧に近い数値。けれど、数値が如実に表すのは限りなくゼロに近づくマイナスの体。近づいてはいるけど、決して到達しないもの。漸近線は収束し、極限値を叩き出すも零にはなれない。辿り着けない、“完璧”な値。それでも良いかもしれない、この数字でもなんら差し障りはないしむしろ理想的とも言える。しかし、ダメなのだ。完璧でないと、完全でないといけない。どこか弱いところがあるのは、欠陥なのだ。完璧に、ならないと。ゼロにならないといけない、弱いままでは。
――お前はでき損ないなのだから――
「そこまで追い込むことはないだろうに」
ショウキが首を振って
「俺らの仕事って、完璧なのは理想だがなかなかそうはいかんぜ。もともと人間は不安定要素抱えまくりなんだから、人間の二つの脳、古いアナログと新しいデジタル的な概念がせめぎあって、そのせいで人間ってのは不安定なものとなっている。それが長所でもあり、短所でもあるのだが」
グラフを見つめながら、加奈は電子銃の設定を調整した。左腕の端末と有線でつながっているため、自分にあった銃とそっくり同じ作動をトレースするようにできている。たまには違う銃でやってみるか、と思い立つ。今度は軍用のベレッタ拳銃……
「聞いてんのか、おい」
「一応耳には入ってるよ、そうがなるな」
ひらひらと手を振って、加奈は電子銃を手に取った。第2ラウンドだ。モニターが消え、訓練室が一瞬暗黒に包まれる。ホログラムが形を帯びて、“蟻塚”の込み入った通路が再現された。
「あの娘だが」
とショウキは言って
「やっぱり記憶が混乱したままらしい。生まれも親も、やっぱりわからないままだそうだ。塩基登録してあれば少しはわかるんだがな」
「しかし、 “UNKNOWN”。塩基登録をしないってことは、やっぱり主義者じゃない?」
「どうかね、自らの意思で登録拒否できる歳でもないし。やっぱりあの子の親が主義者、なのかね」
フルCGでグロテスクに再現された、猿の尻尾とトラの牙を備えたサムライが頭上から飛び掛って来る。慌てず正確に、胴体を撃ち抜く。絞り込むような悲鳴を上げた。破裂した腹から赤黒い肉片が飛び散って、ひだの裏側まで造りこまれた腸の一部がショウキの足元に貼り付いた。
「なにもこんなところまで再現しなくてもなあ、血とゲロの臭いまで漂ってきそうだぜ」
ショウキが顔をしかめた。
「リアル志向、結構じゃないの」
また物陰から飛び出した、こんどはやけに小型の――上背が加奈の腰の辺りしかない。良く見ると、まだ10にも満たない子供のサムライだった。東洋人の少年が、体に似合わぬ巨大な刃を振りかぶる。脳裏に星が瞬いて、閃光が瞼に焼きついた気がした。胃の粘液がせり上がって、心臓が縮み上がるとまたあの感覚が蘇る。封印した扉がこじ開けられて、仕舞い込んだ記憶がこぼれてくる。
心臓が、高鳴った。
銃を構えて、2,3発砲。少年のあどけない顔の真ん中にめり込んで、肉がひしゃげる。骨と皮が引き剥がされるのを感じると、やがて後頭部が赤く弾けて脳髄と頭髪が散った。陥没した右半面から眼球が、視神経にぶら下がっていた。顔の半分ほどがなくなって、横たわる少年の左半分の顔がこちらを見ていた。
少年の顔がブレて、残像が重なる。岩肌と遠くに望む駿河湾、コンクリートの双璧の向こうに、赤い瞳が覗きこんでいるのが潮際とともに裏打ちされる。雑然と広がる油膜のようなさざめきが収束して、灰色の球体、濁った水滴が落ちる。水溜りに跳ねる、意識の集合。
眩暈がした。
「少し乱れたな、呼吸。脳波も」
ショウキが言う。
「子供を撃つのは苦手か?」
「そういうんじゃ、ない」
苦手なわけではない。武器を持っていれば、女子供とて撃つのは戦闘の基本だ。ただ、子供の姿、特に“中間街”に住まう子供を見るとどうしても記憶が蘇る。かつての、加奈と。さらにもう一人。重なる、面影。かき消してもかき消しても、何度も象る集合体。
加奈は電子銃を置いた。ホログラムを消す。
「もういいのか」
ショウキが訊く。
「これ以上やっても無意味だし」
タオルを手に取って額に当てると、脂汗をびっしりかいていたことに驚く。狼狽しすぎだ、馬鹿め。我ながら情けない。
「なら、飯でも食うか」
とショウキが言った。
「オゴるぜ」