1―7
「さっきのことだが……」
とショウキが言う。加奈はすまなかった、と謝った。
「蝙蝠病か? なにか幻覚が見えたか」
「ちょと、それとは違うんだけど」
木製の壁ばかりが続く廊下を歩き、新伝のいる一室に向かう。黒い絨毯が際限なく続いて、天井には裸電球が等間隔に吊り下がっていた。その電球も寿命が尽きかけている。明滅する黄土色の光が薄ぼんやりと足元を照らしているのみ。薄暗闇の中、帽子を目深に被った少年とすれ違う。目元は見えないが、やけに整った顔立ちをしていた。黒っぽいナイロンのジャケットを着て、耳朶に勾玉のピアスがぶら下がっている。赤い色の勾玉だが、それが何を意味するものなのかは分からない。
「お前さんがああいう風になるのはここが“中間街”だからか」
ショウキが言うと、加奈は顔を上げて
「そう、なんだろうな……きっと」
蝙蝠病の症状は多岐に渡る。加奈のケースは、フラッシュバックを伴う強い幻覚に蝕まれていた。触れたくない過去、封印した記憶が浸透してゆく。細胞の内側に、生理食塩水が浸ってゆくより早く入り込む、記憶の呪縛からは逃れられない。いくら防壁を張り巡らしても、必ず到達する精神の奥底に。
ぽん、と肩に手が置かれた。
「なに、気にするな。お前がどうにかなっても大丈夫なように、そのために俺がいるんだから」
ショウキは加奈のことを、責めることもしない。いつも、そうだった。今日みたいなことも一度や二度ではない、そのたびにいつも迷惑をかけて。それなのにショウキは「気にするな」と言う。気にするな、前衛を支援するのは後衛の役割だ、と。
そのために、俺がいるんだから――
そんな風に言うなよ。わたしは独りで生きるって決めたんだから、あんたの世話にはならないよ、と声に出さずに言う。わたしが見る幻、そんなのはわたしの弱さが見せてるんだ。自分が強くなればいいんだ。なのに、そんなことされると自分は強くなれない。手のひらの体温に、全て任せてしまいたくなる。それじゃダメなんだ、ダメなんだよ。もっとしっかりしなければ、この手に縋っては――そんな自問を幾度となく繰り返し
それが内側に溜まっていく。
「問題ないって」
ショウキの手をとって、そっと払う。
「自分の事は自分で始末をつける。幻覚といっても、一時的な事。こいつを飲れば――」
といって左手でプラスティックケースを取る。錠剤を口に放り込むと、苦々しく固いそれを奥歯で噛み砕く。右手には、ブローニング拳銃。ぐっと握ると、鉄の凍える感触が腕の神経を這い上がって温度を消し去ってゆく。これこそが真実だ。惑わされるな、わたしが生きているのはこういう世界なんだ。臓物と硝煙が、全て。どこか歪んでいるくらいが、丁度良い。
「見てな。後衛のあんたが仕事なくなるくらい暴れてやるよ。そうすりゃ、あんたも他人のこと心配している場合じゃなくなるわね」
なるべく自然に見えるように微笑してみたが、ショウキはなにか怪我しているところを我慢しているような顔になって
「俺は……ただ……」
そこから先に、なにかを言おうとしたが
「静かに。着いたよ」
加奈が声を殺して言った。ブローニング・ハイパワーを両手で保持し、壁に背をつける。視線の先に、扉があった。“701”とある部屋番号、その先に新伝がいる。
「ショウキ、私が先行する。あんたも」
「ああ」
言うと、ショウキも銃を抜いた。8インチもある、銀色に磨かれた銃身はS&WM500。“特警”他、軍でも都市警でもオートマチックを使用する人間が圧倒的の多い中、この男はたった5発しか装填できない大型リヴォルバーを好んで使う。50口径もあるこの銃はグリズリーを斃せるというシロモノだが、実際の任務を考えれば銃の選択を間違っている。が、どうやらこれはショウキの譲れないところらしい。やっぱり古典的だと思った。
撃鉄、起こす。
カウント。心の中で、ゆっくり3秒。筋肉が脈打つのが分かった。首筋につたう汗が、意識を鋭敏にする。冷たく高鳴る、鼓動の矛先。
0っ……!
ドアを蹴破った。
加奈が飛び込むと、銃を両手保持のまま構えた。四方に目を走らせる。薄茶色の壁に囲まれた部屋の真ん中に粗末なベッドとテーブルがあるだけだった。
後ろからショウキが続くが、怪訝な顔をして銃を下ろした。加奈はベッドに近寄る。獅子の彫刻がなされたベッドサイドテーブルには、飲みかけのビールの缶がある。灰皿には吸いかけの煙草が燻っていて、まだ半分も残っている。他には何もなかった。確かに、ここに人がいた気配はある。でもそれだけ。新伝の姿は、どこにもない。
「逃げたか? しかし裏口は所轄が固めているし……」
窓から逃げたかと思ったが、はめ殺しの窓は薄く引っかいた傷はあるもののそこに収まっていた。あれは割らなきゃ逃げられんな、とショウキが肩をすくめて
「どうやら、掴まされたようだな。だからあんなカメラじゃ分からねえつったのによ」
畜生、やってられねえとぼやくショウキだったが、しかし加奈は銃を保持したまま言った。
「でも確かに、ここにいる」
加奈の視線の先には、木製のベッドがある。汚れたシーツがくしゃくしゃに丸められて、黴臭いマットレスの上に無造作に置かれていた。注意深く、歩を繰り出して銃を向けた。
「どこに?」
「この下だ」
「下、ってベッドの下か?」
ありえないだろう、とショウキが呆れ返ったように言う。ベッドと床の間は20cmもない。大の男がこんなところに入り込める、わけがない。そう言って反論するも、加奈はベッドの下で息を殺している何かの存在を嗅ぎ付けていた。ナノカメラの生体反応がないと、さすがに分からないだろうが。これは加奈が“中間街”にいた頃に身につけた、勘のようなものだ。ただし、酷く鋭い勘。
銃を構えたまま、右足を後ろに引いて、ベッドを思い切り、蹴り飛ばした。まるでフットボールをコーナーから蹴り飛ばすような容易さを以って、木製のベッドが宙に舞い上がった。ショウキは呆気に取られている。まさか、いくら木で出来ているからといって蹴飛ばすとは思っていなかっただろう。
向かいの壁に激突して、粘土で塗り固めたようになっていた壁面に大きく亀裂が入る。
「修理代は後で払うよ。それより……」
今しがたベッドがあった箇所に目を落とす。子供が一人、うずくまっていた。白い布一枚、纏ったような格好だ。黒く長い髪が、首と顔の周りを隠している。新伝じゃあない、なら誰だ。加奈は引き金にかけた人差し指に神経を集中させる。
「立ちな」
と命じるが動く気配はない。少し、声を荒げた。
「立てよ、日本語が分からないのか? 立たなきゃ撃つよ」
もぞ、と背中が動いた。それから、おずおずと顔を上げる。まだ年のころ12,3歳ほどの少女だった。ゆっくりと立ち上がって、両手を頭の後ろに。加奈の言葉に、少女は素直に従った。痩せた身体を白いボロボロのワンピースで包んで、髪が首に纏わりついている。少女は上目使いで加奈の方をじっと見ている。恐怖に睫が揺れている。唇を噛み締めているのは、何かを耐えているように見えた。土と埃にまみれた素足同様、肌も煤けたように汚れていたが、顔立ちは端整だ。すっきりとした顎のライン、切れ長の目。“中間街”じゃあまり見ないタイプだ、と思った。どちらかというと、都市内部の馬鹿高い私立中学にでも通っていそうな、そんな品の良さがうかがえる。
透明な肌と花弁がかった唇が、何かとてつもなく繊細で、ごく簡単なことで消えてなくなってしまいそうな儚いものであるかのように思えた。
「なんだ、こいつは」
「さあね、まさか新伝の娘ってわけじゃないだろうに」
網膜の裏が瞬いた。少女の身体を走査するが、何かを隠し持っているわけではないらしい。子供に爆弾を抱え込ませて自爆させるというのはヤクザのよくやる手だが、そんなものは発見出来なかった。しかし、まだ安心は出来ない。こんなところに一人でいるなんて、不自然すぎる。加奈は銃を構えたまま問う。
「わたしの言葉は分かるか?」
少女が無言で頷く。加奈は続けた。
「あんた、ここでこの男を見たか?」
と言って新伝の写真を見せる。少女は首を横に振った。
「そう、それじゃあなんでここにいる? こんなベッドの下で何をしていた」
沈黙。
一定時間、耳を押すような静寂が流れた。
「あんたねえ……」
加奈はため息をつくと、少女に顔を近づけて
「質問に答えなさいよ。それとも喋れないのか? もしくは理解できるほどの脳みそを持ち合わせてないのかどっちだ!」
苛立ちぶつけるように声を張り上げると、少女は肩を奮わせた。まただ、またこいつもか。弱い奴ってのはすぐこうなんだ、目をそらし、耳を塞げば事は過ぎていくものと思っている。“中間街”とガキってのは。
「ちょっと、何とか言ったら――」
「もうよせ、加奈。怖がってんだろう」
ショウキが後ろから諌めるように言った。
「何、ショウキってば少女趣味だったの」
「阿呆、んなわけあるか。そういうこと言ってんじゃねえっての。子供相手に脅迫じみた真似は止せって言ってんの」
「甘いこと言うなよ、こいつは新伝を目撃しているかもしれない」
「だから、ガセだろうが」
「そんなこと、分かるものか。大体、不自然すぎるだろうこんな所に――」
「あー分かった分かった。そんなに言うんなら……」
そう言って遮り、ショウキはベッドサイドテーブルにある消えかけの煙草を取った。火を消してビニールに入れる。
「じゃあその娘は所轄に預けよう。重要参考人としてさ。俺たちはとりあえず、この煙草から本人のDNAを取り出すことに専念する、いいか?」
「いいよ、それで」
加奈は銃をホルスターに収めた。少女はまだびくついている。加奈は少女をせっついて歩かせ
「あんた、とりあえず警察に引き渡すから」
少女と一瞬、目が合った。ブラックオパールめいた瞳は、やはり“中間街”の人間ぽくない澄み切ったガラス球だ。都市の人間が拉致されて、ヤクザに売られたのかもしれないと思った。良くある話だ、都市の内部とはいえヤクザと通じている人間は腐るほどいるのだから。
ショウキがPDAで通信している。加奈は少女の肩を掴んで、こっちへ来いと指示する。
「あー待った、加奈。予定変更だ」
入り口に立って、ショウキが手のひらを向けて制止した。
「何よ」
「その娘は“特警”が預かることになった」
「は、はあ?」
自分の喉から出たとは思えない、素っ頓狂な声で返してしまう。ショウキがさらに
「本部から通達。そいつは連れて帰る」