1―6
中に入ると、黴と埃の臭いを伴い、湿気た空気の塊が押し出されて顔を叩いた。黒っぽい絨毯が敷かれ、正面に古い銀行で良く見る木製のカウンターがあった。あれで、フロントのつもりなのだろうか。くたびれた中年男が背中を向けているのに、近づいて
「新伝龍三は泊まっているか」
男――多分支配人だ。振り返って、胡散臭い目を向ける。ホルモンバランスが崩れて、ガタガタの顔をしている。目の大きさが左右で違い、鼻が潰れている。額と頬に金属が入っているみたいで、四角形の黒い物体が皮膚の下に埋め込まれている。その皮膚も、人間のものとは思えないほどざらついて蛇の皮でも被っているかのよう。改造手術の典型的な失敗例だ、と思った。
「日本語わかるか? 新伝は泊まっているかと訊いている」
「なあ?」
と醜悪な面を歪ませた。
「なんじゃ、あんたら」
北京語訛り著しい聞き取り辛い日本語だった。加奈はさらに身を乗り出した。聞きやすいように。
「新伝はいるか、と言っている」
「知らんがあ、客の個人情報だ教えん」
何が個人情報だよ、えらそうに。ショウキが横から口を出した。
「教えた方が身のためだ、俺たちゃ所轄や都市警とは違うからな。口を割らなければ、この安宿勝手に家捜しするぜ。てめえの食い扶持、壊されたくなけりゃ吐きなよ」
支配人の男はちょっと眉を上げて、それから言った。
「夜狗、か貴様ら」
聞きなれない単語が飛び出してきた。なんだ、夜狗ってと言うと中国語さ、とショウキが答えた。
「俺たちのこと、どうやら一部じゃそう呼んでいるみたいだ。主に大陸移民が。夜の狗、って書いて夜狗」
「ふん」
夜の狗――狗って政府の狗か、と向き直って
「わたしたちが何者なのか、知っているなら話は早い。宿泊者の名簿、3秒以内に出せ」
「ダメだあ、プライバシーの侵害だや」
「そう、ならどうやって教えてもらおうかな」
腰のナイフに指を滑らせて、唇を舐める。交渉が通じるとは微塵も思っていない、ここはやはり“中間街”の流儀に則った方がいいだろう。そっちは加奈の専門分野。
「そうじゃね、先んずあんたの身体に聞いてみるがや」
支配人が、ニッと笑った。
突然だった。突然、木製の天井が粉々に砕け、木屑が粉になって降り注いだ。割れた天井、頭上から黒い影が躍り出てきた。
「やりやがったな!」
ショウキが怒鳴る。加奈がブローニングに手をのばすと背後に気配を感じた。振向くと同時に丸太ほどの腕が水平に振りぬかれるのを感じた。下がって避ける。目の前には、2mの巨体が立っていた。ホルモンとステロイドを打って作った、馬鹿でかい筋肉に覆われている。左右の腕が、鉄で出来ている。二の腕から先に移植された、筋電義手はところどころ配線が飛び出して、ビニールテープで何重にも補修されている。だらしなく半開きになった口からは、水道管が詰まったときの音が洩れていた。男の目が血走っているのを見るに、興奮剤を投与されているようだ。天井から降ってきた方は、小柄な男だった。真っ黒いカンフースーツを着て、両手に匕首を持っている中国人は典型的な暗殺者の特徴を帯びている。
「サムライ雇うの、ヤクザばかりだと思うな」
しゃくりあげるように支配人が欠けた前歯をむき出しにして笑った。笑うとさらに顔が歪んで見える。
「殺るか? ショウキ」
背中合わせになって、加奈が言った。ショウキは張り詰めた声で
「仕方ねえな、直ぐに終りそうか」
「機甲弾使えば、一発で。でもあれ高いから」
加奈は大男の方と、ショウキはカンフースーツの方と向き合った。脇に吊ったホルスターからブローニングを抜き放つ。
「あんたは?」
加奈が訊くと、ショウキは袖をまくって左腕を差し出した。
「俺は、こいつがあれば十分」
なるほどね、こういうときには便利だなその腕も。ブローニングのグリップを両手で握る。
「10秒で終らせる」
ショウキが言うのと、同時に動いた。
正面の大男が右構えに、機械の拳を突き出してきたのを左に避ける。
義手の男が拳を繰り出してきた。ボクシング、それもサウスポーだ。厄介だな。見かけによらず、俊敏なステップを踏んでいる。左と右、ほぼ同時に打たれたストレートが前髪に触れた。距離をとり、ブローニングを発砲。額に銃弾がめり込むことはなく、鉄の腕に全て弾かれる。
頭上に影が躍る。カンフースーツの男が、匕首を逆手に持って跳躍し加奈の目の前に着地。目が合うと、赤茶けた瞳に加奈の顔が映っている。
瞬間、刃が水平に走る。風を直に切る音、頬を切る。薄く血が糸を引くのを確認した。ショウキが横から割って入り、機械の腕をぐいと前に突き出した。
火薬が爆ぜる音がした。
ショウキの義手の、手首部分から細い針が3本放たれる。空間を3つの黒線が切り裂いて、先端がカンフースーツの首筋に突き立つ。直後、断続的な濁音を響かせて刺さった針から電流が走った。カンフースーツは匕首を落とし、泡を吹いてその場にくずおれる。倒れたカンフースーツは白目を剥いて小便を垂らしていた。ショウキの左腕には暴徒鎮圧用の電気銃が仕込んであり、発射された帯電針は毎秒1万ボルトの電圧を瞬間的に流す。普通の人間に使ったら間違いなくショック死する。
「どうよ、やっぱり10秒だろう」
「1秒、過ぎた。欠陥品だな、それ」
「ああん? 何言ってんだ。俺ぁちゃんと数えてたぜ?」
「じゃあ、あんたの頭の中身が欠陥品なんだ」
「んだと、喧嘩売って――」
大男が右ストレートを打ってきたので、話は中断された。手出しは無用、と加奈が呻いて再び、今度は左フックを打ってくるのに飛び込んだ。
掌を突き出す。男の左拳と加奈の掌が衝突し、鈍い音を立てる。普通なら受けた方がもたないであろう一撃を、しかし加奈は難なく受け止めた。
「でかい筋肉だね、お兄さん。ごつい男は嫌いじゃないよ」
男の腕、生身の部分に銃口を圧し付けて撃つ。いきった男根のようなそれが貫かれ、苦悶と悲哀の声を上げて飛びのいた。加奈が掴んだ拳は潰れていて、鉄が握られた形のまま変形している。そのありえないほどの力を目の当たりにして、さらに驚愕したように目を丸くする。
「わたしの身体は、硬いよ。あんたたちサムライの比じゃないって」
怒声を上げて、男は右腕を振り上げる。上空から鉄槌が降ってくる。加奈が横に避けると、鉄の腕が床を砕き、ばらばらと石の欠片が飛び散った。さらに、その腕を水平に振りぬく。
一瞬だけ屈み、力を溜める。
鋼鉄の手刀が側頭部に触れる。こめかみが軋む音を、骨から直に聞く。振り抜かれるよりも先に、加奈は上に飛んだ。手刀はそのまま空振り、男は体勢を崩した。
空中で捻転しつつ、逆さ撃つ。
脳天を捕捉して発砲する。回転する先端が皮と毛髪を剥がしてゆく。頭蓋骨が砕け、灰色の脳髄が露出するともう一度叩き込む。熱せられたブリットが内側から殻を打ち破る感触が、小気味良い反動とともに手首に返ってきた。
手ごたえ、あり――
着地と同時に、巨体が仰向けに倒れた。事切れた肉の器、開けられた穴から粘液がこぼれている。血の雫がわずかに頬にかかったのを、フィンガーレスグローブの生地で拭った。
「30秒だ、すこし時間かけすぎだぞ加奈」
ショウキがいうと、額にこびり付いた血を拭いながら加奈は
「29秒よ」
と言う。今しがた斃したサムライの方は見向きもせず、フロントで固まっている支配人の方に歩いて
「穴、開くぜ中国人」
まだ硝煙が立ち昇る銃口を突きつけた。支配人はというと、目の前でサムライの頭を吹っ飛ばした銃に慄き、怯えていた。口は悲鳴の形になるが、それ以上発すると目の前の銃口が火を噴くかもしれないという恐怖に駆られているようで何も言わない。左右で大きさの違う目が、加奈を見上げて
「や、やめてくれえ」
震える声で、懇願している。加奈はさらに銃口を押し付けた。
「いいから教えなよ、クズ。本当に撃つよ」
「た、頼むから命は、命は」
先刻までの威勢は消え失せ、ウサギみたいにブルブル震えていた。下から見上げる媚びた視線。自分はあなたよりも下ですと全身を使って主張する卑屈で欺瞞に満ちた態度。 うんざりだ、そういう態度は。施設にいた大人もそうだった。自分たちに対しては強く出て、外部からやってくる大人――大抵は立派なスーツを着ていた――いやらしいほど下手に出て。擦り寄り、哀願する。弱者が強者に対する、卑屈な目。
やめろよ、ムカつくんだよ。やめろ――
衝動的に腕が振り上がった、勝手に。
ショウキが後ろに立って加奈の右腕を押さえた。振向くとショウキが黙って、首を振った。
――止めてくれなければ、殴り殺していた……。
「ショウキ……」
加奈の腕を下ろさせると、ショウキがしゃがみこんで支配人の男の首根っこを掴み
「とりあえず、出しなよリスト。俺らぁも気が長い方じゃない、わかるだろう?」
ショウキは表を指差した。パトカーが数台、通りを封鎖している。地元の警察だ。
「なんなら所轄にお前さん引き渡してもいいんだぜ。ムショで臭い飯食うよりかは、まだこのオンボロホテル経営していたほうがいいだろう」
男はコクコクと頷いて、引き出しから青いファイルを引き出しから取り出した。ご丁寧にページをめくって、差し出す。
新伝龍三の名前が、一番上に記されていた。