零
目の前に表示されているタイマーの残り時間が、後五分を切った。
既に尽くせるだけの手は尽くした。けれど、止められなかった。
輪郭をなぞる様にして伝ってきた汗を、腕で拭ってから、翠系統の奇抜な髪色をした女子高生、風見舞奏は、握りしめていたペンチを、タイマーの横に置いた。
「ごめん……もう無理だ……」
出入り口が瓦礫に塞がれ、地上からは二百メートル以上離れた脱出困難な一室の中で、舞奏は独り言の様に呟いてから、室内に居るもう一人の女性の方に目を向けた。
白夜叶愛。この国において、誰もが認める名探偵であり、誰もが認める清楚系美女と言って過言にならない、とても三十歳前とは思えない風貌を備えた、長い黒髪の女性。
先程までは彼女が、このペンチを握り、目の前のこのタイマーを止めるために奮闘していた。この、爆弾のタイマーを止めるために。
しかし、叶愛は此処に辿り着く前に腹部に銃弾を受けており、その上で無茶な行動を繰り返してきたせいで、正に満身創痍と言ったボロボロの状態だった。
今や、意識も混濁していて、息遣いも荒い。
血が止まらない右の脇腹を左手で押さえながら、かなり苦しそうな表情をしている。
その叶愛の左手に指輪が嵌められている事に気付いたのは、今更になってからだった。
最初に舞奏が“白夜探偵事務所”に訪れた時には、そんなものを嵌めていたような記憶がない。
きっと、最初に出会ってから今に至るまでの間に、あの、ちょっと間が抜けてそうな感じがした恋人から渡されたに違いない——そう思った。
舞奏は両手の平を強く閉じ、拳を作りながら悔やんだ。
(どうして? どうしてこんな事になったの……? どうして……! こんな筈じゃなかったのに……!)
タイマーが残り三分を切った。
舞奏の目から涙が零れた。
タイマーを睨みつけ、配線をもう一度だけ確認するけれど、複雑に交差している線のどこをどう切ればいいのか……、やはり、全く分からない。
タイマーの横、床に思いっきり拳を叩きつけた。
「くそっ! 畜生! どうして……! こんな事なら、私が……私が……!」
言葉にならない筈の想いが、我先にと口から出ては形になる前に消えて行く。
悔やんでも悔やみ切れない。
そんな想いが溢れ出て来る。
叶愛を撃ったのは、他でもない舞奏自身だったからだ。
勿論、撃ちたくて撃った訳じゃない。殺そうとする意志なんて、当然としてなかった。
だからこそ助けたい。
何とか叶愛だけでも、この部屋から、この建物から、逃がしたいと思うが、それが出来ない。
良策が一つとして思いつかない。
助ける方法が見つからない。
自分の無力さと非力さに、声にならない悔しい想いがこみ上げてきて、涙が止まらなかった。
「あの……」叶愛が急に口を開いた。
荒い息遣いのまま、微かに目を開いて、朧げな視線を舞奏に向ける。「ちょっとだけ、私の話、聞いてくれます?」
「何ですか?」舞奏は涙を拭いた。
「私、この前、三年間付き合ってきた彼に——」そこまで言って、酷く咳き込む叶愛。口から吐血している。
「白夜さん……!」
駆けよろうとして、叶愛が左手の平を見せ、それを制した。
はぁ……はぁ……、と、息を整えながら、喉をならして、もう一度喋り出す。
「彼に、結婚しようって言われたんですよ。だからこれ、婚約指輪なんです。今、私、幸せの絶頂にいたんですけれど、人生……甘くないですねぇ」
また咳き込む叶愛。
その口元には笑みが浮かんでいる。
この絶望的な状況の中で、叶愛は笑っていた。
「どうして……、どうして笑ってられるんですか……私達、もう死んじゃうんですよ?! このままじゃ確実に、この建物と一緒に!」
「はぁ……はぁ……まぁ、だからじゃないですか」
叶愛の言葉の意味が分からなかった。
「“だから”? どういう事ですか」舞奏の問い返しに叶愛はクスッと笑ってみせた。
「人生って……生きてると辛い事の方が圧倒的に多いものですから、死ぬ間際位、幸せだった時を数えましょうよ」
叶愛はそう言いながら、我ながら粋な事を言ったと思った。
死を間近に意識した事が今までにないわけでもなかったけれど、ここまでまだ生きたいと思ったのは初めての経験で、自分の感情の奥底辺りから未だ知らない自分が浮上してくる事に、少しだけ困惑した。
爆弾のタイマーは残り一分を切っただろう。
舞奏はタイマーの前で言葉なくうな垂れている。
叶愛は天井を見上げながら、思った。
探偵失格だ、と。依頼人である舞奏をこんな状況に巻き込んでしまって、挙げ句、此処から助け出す事も出来ない。
恋人に——尚弥に会わす顔がない。
——すいません、尚弥……約束、守れそうにありません。
叶愛は覚悟を決めて、ゆっくり目を閉じた。
——数十秒後、高層デパートの最上階にある個室が大爆発を起こした。
デパートの正面入り口前では、叶愛と舞奏の知人達から、二人の名を呼ぶ声が一斉に上がった。
その知人達から少しだけ距離をとった後方にいた女子大生、鈴村 愛も、その大爆発を見ていた。
“通話中”と画面に表示されたままの携帯を耳から離し、携帯を持っていた右手に勝手に力が入った。
ブロンドの長い巻き髪が、風で揺れる。
歯軋りがなる位、強く歯を噛み締め、炎上するデパートの一室を見つめる。
「危ないから下がって!」
「下がってください!」
騒ぎが混沌とする中、何人かの警察官の声が張り詰める。
対して、叶愛と舞奏の名を呼ぶ声もおさまらない。
あの二人なら……
みんな思う事は同じな筈だ。
二人の事を信じて、二人を止めなかったのは私達だ。二人の背中を、送り出したのは私達だ。
愛が佇んでいる間に、他の野次馬達はその後ろまで下がっていってたようで、「君も早く離れなさい」と警察官に腕を掴まれた。
携帯を持っていた方の、右腕だ。
右手に、より一層の力が入った。
「ばか……」
小さな声で、呟くように一言だけ口にした。
炎と煙が舞い上がるデパートの一室を睨みつけながら、愛は、叶愛が最後に自分に言った言葉を思い出していた。
“——さようなら”
叶愛が口元に浮かべていた不敵な笑みが、今も脳裏に焼き付いている。
あの時から、こうなる事は予期していた。
愛の表情が緩んだ。右手の力も抜いて、警察官に従い、デパートに背中を向けた。
携帯を耳に当て、言葉を発する。
周りの騒音に掻き消されないように、しかし、誰にも聞かれないように注意を払いながら、口を動かす。
緊張の面持ちで、相手の言葉を待った。
相手の声が聞こえてくると、不意に愛の口元に微かな笑みが浮かんだ。
「——大丈夫だよ、あなたの言った通りだ。こっちは全て計画通りさ」
愛はそう言いながら、振り返り、もう一度だけデパートの方を確認した。
先程以上に煙が上がり、炎もその勢いを増している。消防隊の消火活動が追いついていない事は一目瞭然だった。
愛はその光景に目を伏せ、携帯電話の通話を切った。そして、再びデパートに背中を向けると、そのまま歩き出した。
事の全ては、二ヶ月前のあの事件から始まった——そんな事を思い出しながら。