嵐の前の静けさ
「何をしに来たのですか、もう来ないでって言いましたよね」
「今日は命日です、せめて、花束だけでもとー」
「必要ありません、お引き取り下さい、」
「赦されようとは思っていません。でもこれは、クリスチャンたる私の務めなのです」
「務め?務めだって?あなたは、ただ義務を果たすためだけにここに来たの?」
「そういうわけでは…」
「帰って下さい。義務感でこんなことをされても、私も彩香も迷惑なだけです。もう二度と来ないで。」
「私は、彩香のためにー」
「…あなたは何も変わらないんですね、円城寺さん」
「!!」
「逃げて欺いて、行き着く先でも自己保身ですか、周りは欺けても、私には通用しませんよ、私はあなたを許さない、例え、全てを受け入れたとしても、、」
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丑三つ時、虫の声だけが辺りに木霊している。誰もが眠りにつく深夜に、教会には明かりが灯り、マリア像の前に片膝をつき祈りを捧げる1人の人物がいた 。
「天に召します我らが主よ、私の信仰はまだ弱きとお考えでしょうか?以前はあなたを身近に感じ喜びと感謝と讃美で溢れておりました。あの、取り返しのつかない罪を犯した二年前から、私はこれまで、あなたに人1倍忠誠を尽くしこの身を捧げてきました。ところが、今もあなたから恩恵を受けることはなくこの身は遠く離れ不安と孤独と恐れの中におります。
私には生命に変えても守らなければいけない人がいます。ですが今の私では守りきることができない…。いま1度、自分の不信仰と罪をすべて悔い改め信仰の第一歩からもう一度歩み始めます。ですから、神よ、迷えるあなたの子羊をあわれみ、罪と滅びのなかから救い出して下さい。聖霊で満たして下さい。どうか私にも天の祝福をお与え下さい。あなたに赦されることだけが、私の全てです。悪より救い出して下さい。あなたに喜ばれる信仰の道を死に至るまで忠実に歩み続けることを誓います。父と子と、精霊の御名によりて アーメン」
彼は何かを決意したような強い眼差しで、銅像をいつまでも見つめていた。
「このままではダメだ……早く、一刻も早く、取り戻さなければ…」
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寮に来てもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。
私はいつからか、記憶のことで頭を悩ませることが減ってきていた。戻らなければという義務感のような感情と焦りが、いつの間にか薄れ、私はここの寮生として、クリスチャンとして、皆の期待に応えられるよう務めを果たすことを一番に考えるようになった。寮生活も慣れ、教会での仕事も大体簡単なものはできるようになった。
しかし、宿命か、運命か、そんな何気ない教会での日常も、少しづつ、影から音をたてて軋み始めていった。
「あれ?斗真さん、もう食べないのですか?」
ある朝、いつものように皆と朝食を頂いていたとき、隣にいた斗真さんはまだ半分も手をつけていないお皿を片付け始めていた。
「えぇ」
「体調でも悪いのですか?」
「いいえ?そうではありませんよ。今日は聖金曜日、ちょうど良い節目なので、今日からクリスチャンとして、しばらく断食を行おうと思います。」
「断食!?」
「ああ、心配しなくても、完全に食事をたつわけではありませんよ。」
「…いつまで続けるのですか?」
「そうですね…金曜日と、あと…週に二、三日くらいでしょうか。」
「そんなに!? 」
「1日の食事を十分な量を1回と少量を2回にすること、動物の肉を食べないなどの規定があるだけ。それほど厳しいものではありませんから。」
「でも……」
私が言い終わらないうちに、そのまま彼は洗い物を終え部屋に戻って行ってしまった。
ふとまわりを見ると他の寮生達の食事量はいつも通りだった。
「…皆さんは断食はしていないのですね。」
「私たちは、日本のキリスト教徒ですから、断食を行うのは復活祭の期間だけ、斗真の断食はローマカトリック教会の手法をとっているのでしょう。彼は3年間留学した際に、カトリック教会にお世話になっていましたから、そこの習わしに触れて、今も根強く守っているのでしょう。」
「いいんですか?ここのやり方に従わなくて」
「あいつのことは放っておけ 。やりたいなら好きなようにさせればいい。あいつがそれで、満足するなら、な。」
「紫苑時は1度決めたら絶対に曲げない厄介な奴なのよ。」
よくあることなのだろうか。瀬野さんも桜田さんも、きにもとめていないようだった。
「そうですか…」
朝食を終え、制服に着替え寮のロビーに向かった私は、いつも待っているはずの斗真さんがいないことに気づいた。
学園に転校してから斗真さんとは日直や朝練がない日は毎朝一緒に登校していた。今朝は、早く食べ終わっていたからもう準備し終わっているはずなんだけど…
結局、、あのあと随分待っていたけれど、ユナン神父に斗真さんは先に出ていったと聞かされ、私は遅刻ギリギリで何とか間に合ったのだった。
心配だったけれど、その日はそれ以上変わったこともなく、私も何も追求できなかった。
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「斗真さんは…まだ聖堂で祈っているのですか?」
ある休日の朝、掃除当番だった私は教会の外の階段を履いていたとき、ちょうど教会から出てきたユナン神父に話しかける。
「えぇ、まだそのようでしたね」
「…そうですか…」
やはり、と意気消沈した。
ここ最近、彼は、学校以外の1日の大半を礼拝堂で祈りに費やしていた。
休日、朝、朝食を終えた彼は瞑想に行くといい礼拝堂に向かい、もうかれこれ2時間近くたっていた。休日だというのに何処にもでかけず、、以前ならば部活動や得意の料理などをしたり、修道院工場の手伝いをしたり、休日はそんなふうに過ごしていたのに…。
それだけではなかった。この間から突然断食をしだし、通常の量の半分も口にしていない。鳥や獣の肉を全く口にしようとしなかった。ここの修道院は断食をするのは 復活祭とカーニバルの間だけだったし、さらに彼は修道生でなく未成年だ。
「私、心配です。このままじゃ、斗真さんがいつか倒れてしまいそうで…」
「…そうですね。私も、そのことについては昔から懸念していました。」
「昔から?…どうして斗真さんはそこまで、祈ることに……ユナン神父は、何か知っているのですか?」
「斗真は…本当に昔から信仰心の厚く誰よりも清貧、貞節 従順を心がけて下さる本当に忠実な信者だと皆から聞いています。
ですが彼は、神に祈りを捧げることに全てを費やしすぎているんです。彼は欲がなさすぎるのです。あなたのいう通り、彼のその信仰心は、自己犠牲の上になりたっている。しかし一番の問題は、タチの悪いことにそれに彼は、全く気づかない。彼はたとえ忠告したとしても決して信念を曲げないでしょう。」
「…そんな…」
「彼らはシスターたちとは違いまだ未成年です。彼にはもう少し、普通の学生生活に当てる時間を作ってもらいたいのですが…彼は…致命的な欠点をもった青年ですよ」
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それでは、7月10日、本日の聖書研究会を始めましょう。本日は前回の続きから、聖書296ページ、ヨハネによる福音書の「弟子たちのために祈る」から解読していきます。
聖書研究会に参加している間も、先ほどのユナン神父の言葉が頭から離れなかった。
………致命的な…欠点……
彼は祈るとき、決まって同じ表情、同じ眼差しをする。
それは、懇願でも、決意でも、郷愁でも、不安でも誓いでも、そのどれでもない私の知らない感情に思えた。
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その日、私は懺悔室で罪の告白を聞く当番だった。
特殊なガラスの構造により、私からは相手が見えるが向こうからは影のように曇りシルエットしか見えていない変わった構造になっていた。
「罪の告白を…しても宜しいでしょうか」
斗真さんがそこに現れたのは、私が当番を行って3日目の夜だった。
ふらふらした足取りで顔面は蒼白、手は小刻みに震え何かに怯えているようだった。
「告白なさい。あなたが真に己の罪を認め、償おうとすれば、その祈りはきっと神に聞き届けられるでしょう。」
私はすぐにでもかけよりたい気持ちを抑え、必死に感情を押し殺す。
「先週の土曜は、 彩香の命日でした…」
彩香?突然知らない女性の名前を挙げられ呆気にとられる。
「ホントはもっと、早く告白しなければいけないことだって、わかっています。でも、自分の中で、何が罪なのか、何がいけなかったのか、葛藤していたんです。……3回忌でした。そこで、、偶然、会ったのです。彼女の母に…」
詳しい説明をしようとしない限り、シスターの皆さんは彼のその彩香と呼ばれる人物について事情を知っており、私はシスターの1人だと思っているのだろう。
「もう2度と彩香のお墓には立ち入るなと、言われてしまいました…
あのとき私が止められなかった罪、いえ、止めなかった罪、。。あの時の罪は一生かけてでも償い切れないほどの重大な過ちでした。毎日、毎朝、毎夜罪を悔い、祈り続けてきました。
…赦されることだけが全てでした。今まで私は、罪を償ってきた、つもりでした…でも私は…もう分からなくなりました。」
「どうして、分からなくなったのですか?」
「もう謝罪は必要ない、お参りに行くこともやめて欲しいと言われたからです。…つまるところ、私の行いはただの欺瞞で、迷惑なだけだと…決して赦されないと分かっているのに、私の祈りは、それでも意味があるのでしょうか?」
「それは、あなたのことを許さない、そういう気持ちもあるかもしれません。でも、本心は、ずっとあなたが苦しそうな顔をしているからじゃないですか?」
「それは……」
「私でも、最近の斗真さんはずっと、何かに追い詰められているような、、そんな感じがして…もうこれ以上、悩んで、苦しんでほしくない、きっとその人も、私と同じ気持ちだと、そう思います。」
「祈ることしか、私にはできない。自分自身があの罪を赦してしまえば、悩むことをやめてしまえば、私は…クリスチャン失格の、ただの大罪人になってしまう…私は、ただー」
「罪を忘れたり、風化させたりと言っているわけではありません。自分が許したくないなら、祈り続けたいなら、それでも、それでもいいと私は思います。あなたは毎日ずっと後悔し、償いつづけてきたのですよね、相手の人だって、きっとそれがわかっているはず、だから、きっと、大切な人にそんな顔をさせてまで、償ってほしくない、そういうことだと、私は思います。……すみません、私は神父ほど気の利いたこともいえないし、、ただの迷える子羊の独り言と思って貰って構いません」
「.....あなた、シスターじゃないですね、」
「!」
「どんな理由があろうとも祈りをやめることは許されない、それはクリスチャンの追放を意味します。」
「.....斗真さんは今まで沢山努力してきました 償ってきました 。それを私はずっと、みてきたから。あなたの罪は赦されないかもしれない。でも、あなたの祈りはただ赦されるための償いではないはずです。
誰がなんといおうと、私はあなたを赦したい」
「私などに、そこまでしてもらう価値はありませんよ、私は…本当は身勝手で、傲慢で、罪深い人間なのです。結衣の見ているような人間じゃない。」
そんなことないのに、どうして、いつも自分をそんなに蔑むの?斗真さんは周りの人たちの気持ちが、見えているの?
斗真さんはもっと自分を大切にするべきです。
完璧であろうとか、クリスチャンたる行いに縛られて自分を殺してしまっている、何となく、今の私にはそう見えます
一瞬、鋭い視線で睨まれたようなきがした。
その今まで見た事のない表情に身体が強ばる。
「私の罪を知れば、そうは思わないでしょう。」
「どうして?でも私は斗真さんの罪を知りません。あなたは一体、何をそれほどまでに思いつめているのですか?彩香さんとは…誰ですか?あなたの罪とは…?
その理由が知りたい。私にも、あなたの罪を背負わせて下さい」
「……結衣……気持ちは本当に嬉しいです。
ですが私があなたに告げなくても、すぐに知ることにるでしょう。」
「でも………」
「ですが…結衣に心配はかけたくありませんし。あなたが望むなら、祈祷の時間もほどほどにしますね。」
が、すぐにいつものように柔らかい表情になり笑顔でそう、言った。しかしその笑顔は、8割が自嘲めいた笑顔で、哀しかった。
ー何も分からなかった。
私では駄目だった…彼の哀しみを、彼の闇を癒してあげられなかった。理解してあげられなかった。
ただ、私はまだ、斗真さんにも心を開いてもらえるほど信用されていない、ということを身にしみて感じただけだった。
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翌日、昨夜の懺悔室での出来事が終始脳裏によぎり、殆ど眠れなかった。
食堂には、皆さん揃っていた。そこには斗真さんの姿もあった。
「おはようございます。」
「おはよう、結衣」
いつもと変わらぬ笑みで接する彼を見て、私の心の不安が消えることはなく逆に不安を煽った。
皆は…彼の罪を、知っているのだろうか。
彼がそこまで思い詰める罪とは……一体……シスターに聞けばすぐに返ってくるだろうが、知りたいと思う気持ちと同じくらい、知ることが怖かった。
今日もまた誰よりも早く席を立ってまだ半分も手につけていない食事を片付け始めていた。
「斗真、シスターたちが断食をするのは、2月の復活祭の時期だけですので、…あまり断食を意識しなくても良いのですよ?」
ユナン神父が心配そうに彼にそう話す。
「ユナン神父、本場、ローマカトリック教会における断食は週に一〜二度定期的に行うものなんです。
それに聖金曜日は大斎・小斎の日、シスターが行っていなくても、私は寮長ですから。率先して行いたいんです。それに、完全に食事をたっているわけではありませんし、誰にも迷惑などかけていないはずです。」
しかし、そう単調に告げると、そのまま出ていってしまった。
「……斗真さん…」
「斗真はこの時期少し精神的に不安定になっているだけです、あまり気にやまず、時が解決してくれるでしょう。」
「…ユナン神父は、斗真さんが、彩香さんに犯した罪について、どう思っていますか?」
どうして聞いてしまったのか、と聞かれると第三者の意見が聞きたかったからだった。罪の内容は知らないし、知っていたとしても、私には是非の判断など出来るほど優れていないけれど、
気持ちを少しでも理解したかった。そのとき聞くならばユナン神父が1番、この寮の中ではみんなと親しいし信頼も暑かったから。
ユナン神父は何かを思い返すかのように少し感慨深い表情になり、そして真剣な顔で向き直り、話し始める
「橘さんのこと、やはり結衣も知ってしまいましたか。。……クリスチャンとして、いえ、一人間として、斗真が犯した罪は聖書の「人間の罪」の、自殺幇助に当たる決して許されない大罪です。いくら未成年であろうと人としての倫理くらいわかっているはずだと思い込んでいた私たちの責任です。ですが彼はすぐに自分の過ちに気づくことができたことは幸いです。罪を犯し、私たちのサポートも虚しく、寮を去っていった生徒もいましたから、、」
自殺、幇助…?
その聞きなれない言葉に一瞬思考が止まる
どんな理由があったのかは分からない、だけど言葉通りだとしたら、それって、斗真さんが、その彩香さんって人に自殺を、、
……
私は彼のことをほとんど知らない。だけど、私には彼がそんなことをするようにはとても思えなかった。
「今の斗真さんは、神父にとって、幸せに見えますか?」
「クリスチャンとして色々誓約していることもありますし、規律も厳しいですので、普通の学生らのような自由とは言えませんが、昔に比べたら随分、笑顔でいることが増えたと思いますよ」
「そうですか」
ユナン神父はそう言っていたが、私にはとても彼が幸せそうには思えなかった。
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さらに…気がかりなのは斗真さんだけに限ってではなかった。
皆は休日、と、深夜に、どこかへ出かけているようで、揃っていなくなっていた。以前より距離を感じた。
私は何度も目撃した。
執務室に私以外の寮生全員が入って何時間も出てこなかったこと。
夜遅く、制服をきた彼らとユナン神父、さらにシスター数名が揃って教会から出ていく所。
ミサの後私以外の寮生を呼び出して教会で何かをしていること。
ユナン神父は聖書の勉強会だと言っていたけれど怪しかった。
何でもない些細なことなのかもしれない。だけど、
あんなに厳しい戒律で門限やルールを守らせて、自分たちは隠れて違反している、、それは私の心に疑念と不満が渦巻いていく。 外出したいわけじゃない、門限のことよりも、皆が隠し事をしている、
1度感じた疑念は、収まる気配なく広がるばかりだった。
「どうかした?結衣」
私はあるミサのあと意を決して葛城先生を捕まえて声をかけた。
「今日もユナン神父も寮の皆さんもいませんでしたね」
「ああ…そうだね。皆忙しいのかな。まあ、ミサは強制ではないから」
「先生、ミサだけじゃなくて、最近よく休日は皆さん揃ってどこかへ出かけているみたいなんです。あまり夕食にも集まらないんです。一体、皆さんはどこへ行っているのでしょうか、何をしているのでしょうか……葛城先生なら、何か知ってるんじゃー」
「知らない」
「え?」
「ユナンたちの行方のことは何も知らない。」
彼に聞いたのは彼だけは出かける素振りがほとんどなかったから。 隠したいことから彼は外れているのだと分かったから。
でもー
「本当ですか?」
「知りたいなら直接彼らに聞きなさい」
「あ……」
そう冷たく言い放つと、どこかへ行ってしまった。
反論を許さぬ言い切るようなその口調は、私に更なる疑念を抱かせた。
先生も、何か隠している…
だけど結局問い詰めることもできずろくに情報も得られないまま、時だけが過ぎていった。
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何回目を迎えるか分からない日曜ミサの朝、ミサの準備のため私はいつものようにテーブルをセッティングし、パンとぶどう酒を聖櫃に用意していた。
今日もユナン神父たちは見当たらなかったため、
私とフィオナさんが主体となって働いていた。あたりには続々とシスターや、一般のクリスチャンたちも集まり始めていた。
準備室に荷物を取りに行き、戻ろうとしたとき、シスターたちの声がきこえた。
「あの子、まだ雑用係なのね」
それが一瞬で私のことを示しているのだと理解した。
「もう三月はたつのに、福音書の朗読もできないしオルガンも弾けないらしいわよ 洗礼すら受けていないのだから、信用もできないわ」
私は準備室のカーテン裏から出ていくことができずただ聞いているしかなかった。
「え?まだ洗礼を受けていないの?」
「司祭は記憶が戻ってから改めて受けてもらうっていうけれど、
本当は過去に罪ばかり犯してきた人間らしいからか洗礼を受ける資格がないんじゃない?」
「やっぱりね。罪を償う気なんてないのよあの子には。」
「そもそも、白百合寮の生徒でありながらまだ何も知らされていないらしいし、シスターになる気もないらしいわ 」
「シスターになる気もないなんて…なんて人なのかしら、神に一番近き場所で暮らしながら…
神を信じているかも分からもない人間をどうして司祭様は赦したのかしら」
「それはあれでしょ、……だから」
彼女たちが耳打ちで何かをいう。
「でもこの間、彼女聖書の勉強会に来てたわよ
一応、」
「聖書の勉強会に?ここはあの子には務まらないわよ、両親が教会通いを捨てた裏切り者じゃねぇ?せめて礼拝に週に一度訪れるだけの一般のクリスチャンに戻ればいいのに。」
「ここにいるのも、身よりもないし居場所もないからでしょう?」
「修道院に入るつもりもないなんて…孤児院の子供じゃあるまいし、、、ここは弱者の救済施設じゃないのに、本当、」
シスターたちがあまり私をよく思っていないことは知っていた。皆、挨拶は交わしてくれるし、食事を一緒にとったりもしていた。だけど、それな表面上の建前で、私と当番の時はよそよそしい所があったし、影で私のあまり良くない噂を何度か耳にしたことがあった。
修道長は冷静で場をわきまえている人だが、やはり私のことは好ましく思ってはいないのか、必要な話以外は決してしないし、冷たい。
シスターの中で、いつも会う度に優しく変わらぬ笑顔を向けてくれるのはフィオナさんだけだった。
フィオナさんの話によると、私は幼いとき、教会に毎週通う敬虔なクリスチャンだったのに、ある日突然通うのをやめ、寄付金も払わなくなり、音信不通になったという。
皆知らないフリをしている、だけど、昔からのシスターやマザーは私を知っているはずだ。おまけに記憶がなく、今までだってどうやって生きてきたのかすら分からない。信用されていなくて当たり前だった。
何とか、クリスチャンとして認めてもらえるように、今まで頑張ってきた、つもりだった。
ーでも、私は先週のミサで、大きな失敗をしてしまった。それは、初めて神父に福音書の1説の朗読を任され、修道院候補生である私は、勤めを果たそうとした。
でも、ある文章の解説を求める一般人のクリスチャンからの質問に答えることができなかった。
私の不勉強が、結果的に白百合寮の皆の評価を下げてしまった。それからというもの、私はずっと裏方だった。
普通ならば、修道院候補生である私は司祭の隣で整体拝礼を進行したり、聖書を朗読したり、賛美歌や憐れみの歌を歌ったり、オルガンでミサ曲を奏でられなければいけないのに。。
シスターたちが不満に思うのも理にかなっていた。
斗真さんは私と一緒にいとまを見つけては聖書の勉強や私が全く知識もスキルもなく酷い有様だった料理を教えてくれた。
桜田さんは、よく図書室にいて、会う度に祈りの種類や教会の歴史など様々なクリスチャンのことが書かれた書物を紹介してくれている。
それは瀬野さんも、例外ではない。
…私は結局、皆の重荷になっているだけなのかもしれない。ユナン神父と斗真さんは表面では優しくしてくれるけれど、大事なことは何にも話してくれない。
それは信用されていないのと同じに思えた。
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翌日、休日だったが特にやることもなく、今日も朝食には桜田さんしかおらず、彼女と過ごすほど親しくはなかったし、案の定桜田さんはすぐにどこかへ出かけたらしい。
私は図書室で読書をしていた。最近ここが私のお気に入りの場所だった。
「フィオナさん?」
見覚えのあるシスターを見かけた。
「あら、結衣ちゃん、ごきげんよう。本当に本が好きなのねえ」
「他に行く場所がないだけですよ。フィオナさんは?お仕事はお休みですか?」
「えぇ、今日は夕方まで非番なのよ。」
私たちは図書室で偶然あいお互いに隣で読書をする。
「最近、皆どこへ行っているのか、全然夕食にも朝食にも集まらないんです。」
「あら、寮の皆が?」
「はい。休日は確かに食事は自由ですし外出も自由ですが…最近は平日でも…皆で揃って食事したのが、遠い昔みたいです。
でも、フィオナさんは比較的よく寮に来てくれますよね、フィオナさんといると楽しいですから」
「うふふ、ありがとう。」
「ーそれでね、そのシチューが驚くほど下手でもう…
鶏肉は生だし玉ねぎは焦げるし味はなぜか濃すぎてくどくなってしまいもう散々でしたよ」
「シチューにはコツがあるのよ。野菜は固いものから先に入れなくてはだめよ。今度私が教えてあげるわ。」
「本当に!?ありがとうございます!」
どのくらいたっただろうか、お互いに会話も少なくなり集中し読みふけっていた頃だった。
ガタン
突然フィオナさんが急に何かを察知したように椅子から立ち上がり、前の扉の方をじっと見つめている。
「…呼んでいる。」
「え?」
そう静かに呟くと本を閉じ図書室を後にしようとした。
「ど、どこへ行くのですか?」
「私、用事を思い出したわ。今から少し出かけてくるわ」
「え?用事って…?」
「すぐに戻るわ。結衣、あなたは寮で待っていてね。」
「フィオナさ…っ……」
言い終わらないうちにフィオナさんは出ていってしまった。今日は非番だって言ってたのに、、こんな夕方から、何の用事だろう。
いつも通りの態度だったけれど…どこかいつもの雰囲気と少し違った。
それから、玄関の前の談話室で消灯時間ぎりぎりまで皆を待っていたけれど、誰1人、戻ってくることはなく、眠さに負け、いつの間にか深い眠りに落ちていった。
次の日の夜遅く、私は今朝図書室で借りた本の続きがどうしても読みたくなり、本を借りに行った後、ついでに飲み物を取りにキッチンに立ち寄ると、前の部屋の談話室に明かりがつき何やら話し声が聞こえた。
いつもの寮生全員と、ユナン神父、さらにシスター数人もいた。
「今日の ーは、 ー刑務所からです。 患者はーが強く 2人1組でー て下さい ーは瀬野、あなたに任せます くれぐれもー 優先で お願いします。」
ユナン神父が何かを読み上げて指示している。...あまりよく聞こえない、でもこれだけは分かる
また皆で夜中にどこかへ行くつもりだ。
今まで見て見ぬふりをしてきた。だけど、、
私は彼らが玄関を出るのを見届けると、談話室のソファに腰を下ろす。
もう何も知らないのは嫌だった。今日こそは問いただそう、そう強く決意した。
しばらく読書をして過ごしていた。何刻経っただろうか、ウトウトし始めていたとき、玄関の扉が突然開き、その音で目を覚ました。
「ゆ、結衣⁉︎どうしてこんな時間に…」
最初にユナン神父と斗真さんが私を見かけ意表をつかれたように驚いた声をあげる。私がいたことがそんなに意外だっただろうか。外は雨が降っているようで、2人とも傘をさしていなかったのか、上半身びしょ濡れだった。
「こんな夜中に、皆さん揃ってどこへ行っていたんですか?」
「み、見回りですよ。それもクリスチャンの勤めですし」
「傘もささずに?」
「……」
不穏な空気が流れていた。私は今日こそは事実を知るまで帰らない。そう心に決めていた。
しかしその直後、さらに目にしたのは、想像を絶するあり得ない光景だった。
「もう最悪よ、どうして始末するのに私を巻き込んだのよ。おかげで制服がめちゃくちゃじゃない」
「仕方ないだろう。あのタイミングではそうするしか……松永…いたのか…」
「結衣…」
遅れて桜田さんと瀬野さんも入ってくる。
私が目に移した光景は、尋常ではなかった。それは、桜田さんの身につけている制服である、彼女の制服は上半身が異常なほど赤黒く染まっていた。スカートにもところどころ飛び散ったような赤が広がっていた。
「さ、桜田さん!怪我してるのですか⁉︎す、すぐに手当てをしないとー」
私は慌てて桜田さんにかけよる。どうしよう…今まで怪我をして自分の血をみたことすらない私には目の当たりにしたこの光景にどうしたら良いのか頭がうまく働かない。
「…いいえ、これはただの返り血よ…私に怪我はないわ」
「え……」
……返り血!?私は耳を疑った。普通の人間が生きているうちに1度訪れるかどうかも疑わしいような単語だった。
まさか……?
私は脳裏によぎった嫌な考えを無理やり打ち消す。
「一体、どういうことですか?説明して下さい!………私、知ってるんです。皆さんが揃って夜中寮を抜け出していること、明け方まで帰ってきていないこと。夕食にも朝食にも揃わないで、ミサにも出席しない。私が知らないままだとでも思っていたのですか?」
「…あなたには…関係のないことですよ」
ユナン神父がそう冷たく言い放つ。
「そうだ、お前には荷が重すぎる。」
「またそれなの………私のこと、そんなに信用できないですか!?
私に仲間だって言ってくれたじゃないですか、
それも嘘だったんですか!?」
「そうではありません…ですが…」
詮索するな。お前はまだ正式にクリスチャンとして認められてもいない。まずは自分の責務を果たすんだな」
瀬野さんは単調にそう告げると部屋に戻って行ってしまった。
桜田さんは着替えに行ったのか、いつの間にかいなくなっていた。
斗真さんは何を考えているのかうつむいたまま何も発しない。その表情はここからでは読み取れなかった。
私の責務って何? 皆して口裏を合わせて、隠し事をされても何も文句を言わず、不満や疑問も抱かずに、何も考えずに、何も知ろうとせずに、ただ寮のルールに従う模範的な生徒?
.....そんなのは嫌だ。
「皆して、何も教えてはくれないんですね。」
その言葉に返す者はおらず、それを無言の肯定と見て私はこれまでの気持ちが一気に押し寄せた。
「私、出て行きます。」
「待って下さい!結衣!!」
扉を開けた瞬間、最後に聞こえたのは、斗真さんの悲痛な叫び声だった。
何も持たずに、飛び出していた。
無我夢中で走り続けた。立ち止まれば、涙が押し寄せてくる。
それほど急いでも、意味なんてないのに、ただ
余計なことを考えずにすんだ。
何も考えず当てもなく走り続けて、足を止めたのは、斗真さんの実家
……私、何で、ここに...
あれから、まだ4ヶ月も経っていないというのに、誰の手入れも施されていない庭園は、夏の暑さから、雑草が生い茂り始めていた。
私が最後にここに来たときは、新しい生活に不安もあったけれど希望もあった。だけど今は…。
こんなところにきて、何になるというの…?
初日に見つけた、あの意味のわからない不穏なメモは、まだ手元にある。
まだここには私の知らない記憶があるような気がする
だけどさすがに不法侵入になるため、庭に入るのを辞め、目の前の小さな公園のベンチに腰掛ける。
皆のことが分からない
皆は何かを隠している 私に関することも、そうでないことも
知ろうとすればするほど、遠いところへ行ってしまうような錯覚を覚える。
夢を見た。
私は四方を鉄の柵で覆われた薄暗い監獄に閉じ込められていて、その柵の向こうから、誰かがずっと私を呼んでいる。
ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。
次回からは、ようやく本編に入ります。