第1話 欠ける者とキノエ
ここ甲の国 寅京の北西に位置する黄貴城は、 南北3㎞、東西2.5㎞に及ぶ長方形の区域の皇城であった。
端門をくぐり抜けると甲紀に於ける六朝時代 世界最大の城門と謳われた橙富門が待ち受けていた。
甲の国 現皇帝 芳帝の住まいでもある黄貴城の正門だった。
黄貴城は南北1㎞、東西0.6㎞あり、その外側は大きな濠がめぐらされていた。
当然一般人は皇城内に入る事は禁止されていて、有事の際は上奏に行く宰相であっても、立ち入りはこの橙富門までと決められていた。
ここで分かるように、臣民とは格段の隔たりがその距離を象徴していた。
民はここを天と呼び、芳虎帝を憲帝とも敬われると同時に畏敬の念で崇めていた。
その数ある宮の中でも一際巨大であり、芳虎帝の寝殿に負けず劣らない豪華絢爛さで有名な蓮紫殿と名付けられた建物の中には、数多の隷属国から取り寄せられた貴重な調度品が数えきれない程、簡単無防備に配置されていた。
初見でも圧倒されるのは家屋の趣きだった。
淡い瑠璃色をふいた屋根に、白に映えた三層基壇#《さんそうきだん》の偉観に肝を奪われる。幾多の極彩色の宮殿は細部まで凝った彫刻の輪郭美を誇って立ち並んでいた。
中に入るとそこは異国の世界を再現したかのように極彩色豊かな場所であった。朱に塗られた太柱には天界を模した彫刻の絵巻が彫られ、海を越えた東の国からの陶磁器の花瓶や茶器一式。
備え付けられた黒檀の家具に机一式が否が応でも目に入り、それら全て鳳凰と蓮の花が螺鈿で模様が施されていた。
この優美で甘い芳しい匂い漂う中、唯我なる世界の住人が茶を一人で嗜んでいた。
この巨大な栄華極まる虚空の世界には、この者だけが存在していた。
淡青の絹の衣装に身を包み、お気に入りの椅子に腰掛け蓮が花開く茶を口に含みながら、物思いに耽る《ふけ》この時間が堪らないほどの甘美を感じていた。
まったりと茶を味わうこの時だけは、世俗の一切の憂いを忘れることが出来、自分の内心の直視や過去を過度に彩事が出来る唯一の時間だった。心にずっと秘めた想いや囚われた過去の確執。これから先の成すべき事を何度も繰り返しながら。多忙を極める毎日に疲れた時、必ずこの広い部屋の中で一人、儀式の如くこのお茶の時間を始めるのだった。
だがそれも束の間…。
「カタンッ!」
その者は左の方に己の気を投げた。
はぁと軽く息を吐くと音とは反対の方を向いて言った。
「そこに居るのはトヲイか?意外と遅かったな?」
少し後方にて膝を折り、深く頭を下げ平服する輩が一人姿を現した。彼はこの蓮紫殿の主の四人目の側付きで半陰陽の宦官だった。気配を殺すのを止め、近く寄っても良いとの指示をずっと待っていた。
主はチラリとトヲイに視線を送った。合図と同時に、トヲイは音もなく駆け寄ると結果を耳打ちした。
数度頷きながら報告を聞き、その内容を知るとまたしても深い溜息を吐くのだった。気だるそうに頭を抱え、単純に一笑すると口を開いたのだった。
「フッ、ツチノヱがそんな事を?本当に可哀想な子だ。水売りしながら結婚の為の多額の支度金を持参しても、やっと手に入った女は白髪の婆で騙されたとか?おのれ《おのれ》が過ぎる者と分かった途端、嫉妬に狂った後宮の馬鹿達に子も孕めなくされてしまった。もう好きにさせておけばいい。ツチノヱが相手している間は自分が帝の相手をする事もない。手出しはするな、その方がこちらとしても何かと都合がいい」
主がそう言い終わると同時に、トヲイは瞬時にこの場から煙のように消えた。
「下らない話で耳汚しとなった。折角の時間が台無しだ」
ぽつりと小言を呟くと、またこの宮の主は自分なりの儀式を始めた。この手順を延々と繰り返す事で、己の決意を再確認し、揺るぎないものへと向上させる為にだった。
1話 欠ける者とキノエ
甲暦28年5月下旬 戌の刻(20時頃)
「キノエは何故、帝と閨を共にせぬのだ?いつまでも駄々を言えば通ると思っていないか?」
「…」
甲の国 黄貴城にある一つの宮での事。
司馬の義弟 キノエの専用に用意された宮だ。
キノエは寝屋の端に腰掛け、義兄である司馬より小言を聞かされていた。
時を遡る事この六年間、週に一,二度は必ず司馬から聞かされる小言は最早恒例行事《もはや、こうれいぎょうじ》へと習慣化されていた。
文武両道にして容姿端麗寛容な性格の割には悪に屈しない堅固な意志を持ち合わせていると郷でも評判だった。今時では珍しい好青年と郷では皆から親しまれている。郷や一族を第一と考え、誰とでも仲良く出来、公平を唱える司馬の存在は、キノエ達が属する西方 閹都の宦官 閹刃一族の中でも人格者として希望と尊厳の象徴となっていた。郷で誰より尊敬されている彼と唯一対等であるのは、キノエのもう一人の義兄であり、司馬の竹馬の友で盃を交わした語堂のみと言われていた。
一族からの司馬への信頼度は底知れず。
キノエ自身それに多分に漏れずであったが、大好きな司馬であっても、この小言の時間の司馬だけは許せないでいた。
(向学で見目麗しい兄様達と平凡な自分は違うし、自分にはまだ早いよ。それに自分は…)
黙ったままのキノエに司馬からの痛い視線が突き刺さる。それはいつまでも抜けない視線の棘でもあった。
司馬が怒っているのは頭では理解していても、キノエの心が現実的についていかない。それが甘えである事も理解しているキノエだった。
足をブラブラさせて、口を尖らすキノエを司馬がより強い眼差しで逃げ場無い包囲を敷いていく。それに耐えられないキノエは渋々情けないいい訳を口走っていった。
「…もう帝に3人くらいお世継ぎがいるんでしょ?今更自分が産む必要はないと思う」
「そういう問題ではない。若いお前には私が言っている本質が分かっていないだけだ」
「…」
強い口調の司馬にハッするキノエはいつの間にか、バタつかせていた足の動きを大人しくさせていた。
「お前には我が一族の将来がかかっておるのだぞ?自覚しているのか?」
「それは司馬兄様の事でしょ?自分の事じゃない。一族はみな司馬兄様を誇りに思ってる」
「キノエ…」.
「司馬兄様はいつもそう言うけど、何の確信があって断言するの?自分がそんなに出来るとも思わないし、兄様達は何も教えてくれないじゃないか!どうしてここにいるかも教えてくれないのに、二言目にはやれやれってばかり…。そんなのずるッ!」
「⁈」
(あ…、言い過ぎたかも?)
キノエには司馬が瞬間にして、逆毛を立て、目を血走らせたかのように見えた。
司馬自身それを気づいているか?
それは定かではないが、ほんの一瞬だが不意に言葉にし難い憎悪や負の感情を燃え上がらせ、それをそのまま全身に纏う殺気のような仕草を取る事があった。
司馬のそれを初めて見たのは幼馴染の蓮の事故の時だった。
(あ、あの時と同じ感じがッ!)
キノエはそういう司馬の変貌の片鱗に気づくと、その場を取り繕うように、身体を縮こまらせ押し黙った。自分の意見を呑み込んでいくキノエ。今のキノエの表情には司馬の動向を逐一読み取り機嫌を伺い知ろうとする、少しオドオドし虚ろな艶のない顔色にも捉える事が司馬には出来た。
キノエから発せられるピリピリとした緊張感とも言えるものは、いつ見ても偲びないと感じる。司馬はキノエに近付くと膝を折り、微笑んでキノエの緊張を解そうとした。
それに付随して、口調も穏やかになり諭すように語り始めようとする。
キノエの頬に手を当て話す司馬は、が郷にいた頃の温和な司馬に戻っていった。
「それは違う。キノエ、よく聞きなさい」
「ひぁッ」
司馬は空いた左手をキノエの肩に置いた。その手は大きく力強くて暖かかった。
反発した自分を叱り叩くと予想したキノエは、意外優しい司馬の態度に驚き、反射的に体をビクつかせた。そして恐る恐る司馬の顔色を盗み見るのだった。
「我らは今までの宦官一族とは違う。媚び諂う《こびへつらう》だけの従来の宦官を脱し、司法行政その他諸々《もろもろ》にまで甲の国に根ざす。その為に力を付け、実行してきた今、その成果も確実に芽が出て来ている。これをより強固にし揺るぎないものとする為にも、お前が帝の子を産む事で、我ら一族の念願成就の近道となり存在の恒久化への第一歩となるんだ」
視線を外さない司馬の目に惹かれて、キノエの表情にもやっといつものような穏やかさが戻りつつあった。
だがその内容は、キノエにとって途轍もない標高の山脈でしかなかった。
「…分かってるけど、司馬兄様」
「お前は私の元で教養学識をみっちり学ばせ、今も更なる高みを目指している。お前がそこらの女や宦官達に負ける事のない容貌と知性がある。お前が臆する事などないのだぞ?」
「…」
温厚な中にも真摯な眼差しが光り、キノエの胸はまた痛み出した。無意識に目線をずらそうとするキノエの顎をクイと持ち、司馬は覗き込むようにして問い続けた。
「キノエはそんなに嫌なのか、帝の事が?」
「ち、違う。そうじゃなくて…」
見つめ合う二人の目の会話。
司馬はキノエの心理を読もうと…、キノエは読まれまいと必死に抵抗するも…。
暫しの時間、息するのも忘れる間合いが続いたが、その軍配は司馬に上がった。
手を離すと司馬は立ち上がり腕を組んで少し唸ると、キノエに背を向けて言った。
「またあの蓮とかいうヤツの事か?もう彼奴はあの大雨の日に足を滑らすという事故で死んだんだぞ?死んだ者は二度とは帰って来ぬ」
「それも分かってます。でも帝は怖い…です、正直なところ。あんな怖い目の人は故郷にはいなかった」
「よいか、キノエ。私達宦官は生涯《《欠者》》であり血を分けた子を持つ事が出来ぬ。だがお前は違う。お前は唯一無二だ、神仏が与えた我が一族の奇跡なんだ」
目の端でキノエを捉えると、項垂れて肩を落とすキノエに司馬は溜め息をついた。司馬の様子にキノエは苦虫を潰したような顔をした。
(司馬兄様が自分に愛想をついてる。どうして気の利いた事が言えないのか?兄様達を失望ばかりさせている)
溜め息の後に何が言いたいたいのか?
キノエにはその言葉も見えている。
司馬がいたからこそ、今の生活があるのも熟知している。司馬や語堂が自分を見つけて拾ってくれていなければ、赤子で捨てられていたままで絶命し、今もこうして此処にはいられなかった。
司馬や語堂は命の恩人で、一族や長老に兄弟に仲間の血を超えた結束を与えてくれたのも二人であり、彼らの言う事を全うする事が自分の幸せとなり一族の発展の為になる事も。
(こんな不甲斐ない自分に忙しくしている司馬兄様はすごく気や手を掛けてくれた。本当の兄弟みたいに…)
全部理解しているつもりだ。
今こそ恩返しが出来る機会を生かせず、胸が焼ける程苦しく勇気の出ない自分を呪るキノエ。
グッと胸元の衣を強く握り、自分の非力を呪っていた。だが、どんなに情けなくても出てくる言葉はいつもと同じだった。
こんなやり取りはここに来てからの7年間、ずっと繰り返して来たのに…。
「司馬兄様ありがとう。自分には司馬兄様だけが頼りだ…でももう少しだけ待って下さい。役目を果たし一族に貢献したいけど、まだ自分は13才だし…帝にはまともにお会いした事もないし…。これってそういうモノなの?」
「キノエ、13など遅い方だぞ?それも分かっているんだろうな?それに帝は天そのもの。天の全てを見る事など誰も出来んのだよ?」
顔を上げる事無く、項垂れて無言で首を縦に振り司馬の言葉に同意するキノエの膝元には、数滴程衣が濡れた感覚を察した司馬は肩の力を抜くとハッと息を吐いた。
(少々追い詰め過ぎたか…?)
司馬は再びキノエに近づいた。
キノエの頭を抱き締めながら言う。
「もうよい、自分をそう責めるな。悪かなったな、キノエ。私も言い過ぎた、キノエにそんな顔をされると私はこれ以上は言えぬ。だが世の中何があるかは誰も分からぬ。私が守ってやれる時間も限りがあるやもしれん。だから私がいる間に気持ちを固めてくれ」
「肝に銘じます。司馬兄様、ごめんなさい」
心の中で何度も兄に贖罪するキノエの目から涙がまた溢《あふ》れていく。
「お前は啓示を受けた我らの希望の光だ。我ら欠けた者としてもこの世に存在して良いと、その明るい未来の先を見せてくれ」
「…はい、司馬兄様。分かってる。本当にごめんなさい」
嗚咽を殺しながらもキノエは何度も司馬に謝っていた。キノエを優しく頭を撫でる司馬。だが頑なに顔を上げようとしないキノエだった。
司馬はその心の奥が何であるか?推測するのは容易過ぎるものであった。
(司馬兄様、ごめんなさい。迷惑かけてばかりだ、全然役に立ってない)
司馬はそれ以上言う事なく、キノエに別れを言うとそのまま宮を離れて行った。
涙に濡れた目で司馬を見送ると、緊張の取れた安堵感とも言えるか?自身の勇気の無さにか?はぁ〜と深い溜め息をキノエはついた。
閉まった扉に背を預け熟慮するキノエだった。
部屋を後にする司馬を見送ると、一人窓の外の向かった。天高い空には雲が蔓延していたが、暁光な月が零れ出していたが、キノエの憂いを払えるほどのものではなかった。グスンと鼻を啜りながら、キノエはまた懐かしい郷の事を思い返していた。
(郷にいる頃は本当に楽しかった。蓮やアガとずっと遊んで話をして…。もうやだ、郷に帰りたい、郷が恋しいよ…)
いつも溌剌で自分を振り回すばかりでも、一番仲の良かった蓮の容貌を、涙で濡れる眼の奥に思い返していく。
『…僕がこれから全部決めてあげるよ、だからずっと一緒にいよう』
(蓮…。本当に自分は君が良かったんだ。どうして死んじゃったの?一人じゃどうにも出来ないよ…)
漏れ出していた暁光も何時しか厚く重い雲に呑み込まれた。一向に晴れない空は、まるで自分の奥底の闇のよう。一層佗しさだけが胸に蔓延っていった。
(兄様達の言う事はちゃんと聞くよ、でもこの思いは絶対捨てたくないんだ)
呪いのようにこびりつく想いであっても、キノエは一切手放す気はなく、後生大事に保持し続ける事で、蓮が生きていると思えてならなかったのだった。
「またなのか…?司馬、いつまでキノエを甘やかすんだ?」
「…」.
キノエの宮から出て長い廊下の半分程度歩んでいると、目の前に一人の男が司馬を待ち構えるように立っていた。
その名は語堂。
キノエや司馬と同郷の者であった。
司馬より2歳下で特に武芸に長けており、175㎝程度の背丈は司馬より少しばかり低いが、司馬に負けす劣らずの智慧者でもあり、片腕として一族の中枢を担っていた。
上司でもある司馬の采配により、今はキノエの世話役として命を預かっている。ゆっくりと語堂の側をすれ違う際に司馬は唇を開く。
「語堂、そう言ってくれるな。まだキノエは若い。だがちゃんと分かってもいる」
(何回この件を繰り返せば気が済むんだ?こんな台詞を…)
いつものらりくらりとする司馬の態度は語堂にとっては面白くもなく、その態を見る度にギリッと歯軋りさせていた。ぎゅっと右の拳に力が自然と入っていく。司馬も側で態度を硬化させる語堂の変化に気づくと、柔和な表情がすっーと消えていった。
「司馬、おまえはいつもそうだ。キノエには甘すぎる。いつもなら目的の為なら手段選ばず実行するのに…解せぬ、何故だ?」
「悲願の為には時期も待たねばなるまい。焦っても無意味だろう」
このやり取りに答えがないのも、両者理解しての発言だった。
司馬の表情が険しくなる。
(語堂の言いたい事は私も同じだ。だがこればかりは失敗は許されないんだ)
表情が互いに一層厳しくなり、顔の彫りの暗さが増していく。
いつもならここで退散するのは語堂であり、事無きを得ていたが、今日の語堂は引かずに押してきた。
「分かっていないのは司馬、おまえの方だ、キノエはっ!」
「語堂!」
「ッ…」.
語堂は司馬の声に言葉を止め、その代わり口を一文字に結んだ。
(お前と私が言い争いして違いになるのは得策ではない、お前と私は一心でなければいけないのだから)
司馬は語堂の追従を許そうとはしなかった。語気を強める司馬が、怒りの矛先をずらそうとしている事を、語堂も察して言葉を飲んでいく。
「それ以上言うな。あの子は純粋だ。無理して一族に反旗を翻されても困るのはお前も承知のはずだが?」
「…」
「やっとここまで来たのだ。仕損じては元も子もないだろう。それよりもあの南海貿易はどうなった、語堂?」
(実に司馬らしい行動だ。今日も俺が折れておいてやるが、それをいつまで悠長にやれるか見ものだな…)
フンと鼻を鳴らし、語堂は重い空気を一掃した。
軽く笑う姿は、語堂がいつもの態度に戻ったと理解した司馬であったが、やはり心中穏やかではない。
またいつこの件で一触即発するかも分からない爆弾を、常に抱えているのも同じ事であったから。とりあえず平常に戻せた事に胸を撫で下ろす司馬は、気になっていた話を議論する方向へと移行させた。
語堂はフンとまた鼻で笑い、身振りを加えて司馬に答えていく。
「全く問題ない。あの国はもう少しで第二の閹都になる。我ら一族が間抜けな官吏共に負ける訳がない」
「当然の結果だな。何の為にこの私が好きでもない爺たちの足を舐めて来たと思っている?先人達のやり方だけでは、いつまで経っても我らは搾取され蔑ろにされるだけだ。腐ったモノは速やかに排除する、たとえそれが親子や我が子や一族の長であっても…」
「分かっている、だから俺はおまえに賛同し動いている。だがキノエについてはおまえは譲歩し過ぎでこっちが情けなくなる」
「キノエは特別だ。我らの不可能を可能にする唯一だ。それに私にすれば、我が儘を言うキノエも可愛い。案ずるな、最後にはちゃんと帳尻が合うようにしてみせるさ」
「そうしてくれ。だが…」
先ほどまで軽快なまでに動いていだ口元を戻し、また一文字を結ぶ語堂。じっと語堂は司馬を見据える。
「?」
意気揚々《いきようよう》とし少しばかりはしゃいぐのをやめ、雰囲気を変えた語堂を訝しげに司馬は見た。
指一本動かさず、語堂の思考を読み解こうとする司馬。
また両者の睨み合いが始まった。
(こういう時の語堂は指示待ちの時でもある。お前ならどうする?と言わんばかりの仕掛けだな)
語堂の望み通りに司馬も乗ってやる事にした。
「だが、なんだ?」
「そうだな、言わずもがなだが。希少価値あるモノを…と言われているがどうする?俺の考えとしては思うところはあるが、良い方法とは…」
長い袖を手繰り寄せ、語堂は司馬の横へと並びながら言った。語堂の言葉を聞いた途端、司馬は少し声を上げて笑った。静まり返った廊下で司馬の声だけが乾いて響いていく。そんな司馬の動向を語堂は瞬きせずに伺い知ろうとしている。
「やはりそう来たか。どいつもこいつも心地良いほど分かりやすい色ボケな奴ばかりだな、だからこそ力になる。くくっ…ッ⁈」
「ッ!、待て、司馬。誰だッそこにいるのはッ」
「え?」
「!」
「シュッ、ゴン!」
司馬の話を突然遮り、語堂は目で追えぬ早さで目と鼻の先にある、廊下の調度品の台座目掛けて刃物を投げつけて見せた。
投げられたのは語堂の小刀。
語堂は逸早く、調度品の台座の裏手に影に気づくと威嚇していく。
「こんな夜更けに…鼠か?蛇か?」
少し離れた先の物陰に語堂の小刀が刺さるのを目視する。相手を逃さぬよう語堂はその場へ走った。
その後を司馬が追う。
「また腕を上げたのか?語堂。私はお前より感知が遅れていたな」
「少し静かにしろ、おまえは軽口が過ぎるんだ。何処のどいつだ?逃がしはしない、顔を見せろ」
先行する語堂の元へとゆっくりと歩きながら向かう司馬。新たな刃物を手に携え、未知なる影の物体へと突進した語堂だったが、標的の腕を捕らえた途端、語堂は一瞬息を飲む。掴む力を緩めていった。
刃持つ手もゆるりと降ろしていく。
臨戦態勢を速やかに解く語堂に司馬は少し眉根を寄せるが、その理由を知ると司馬にはまた新たな一考が頭中に駆け巡っていた。
「どうした、語堂?おぉ、これはこれは」
「まさかこいつがな…。聞かれて不味い話ではないが、このままにしておくには少々問題がある。少し痛い目をッ」
「いや待て語堂。ちょうど良いではないか?金糸髪に碧眼は確かに希少だ」
司馬はニヤリと笑いながら独り言のように話す。その様子を見つめながら語堂は言葉を選んで言った。
「司馬、本当に良いのか?これは…その…、俺も本来なら同意見だがリスクが高すぎないか?」
「ふぅ…、これでまた私は恨まれる事が一つ増えるが致し方ない。全ては一族悲願の為だ。いずれその理由も理解する事を祈ろう。まぁ上手くやってくれ、彼奴には私が話をする」
「…分かった。その方向で全て進める事にするさ」
(あの語堂が即座の殺傷ではなく、相手に痛い目をか…。これは何とも感慨深い。敵前で躊躇とはな。なんだかんだと言っても、私の事は非難出来ないぞ、語堂)
「ククッ…」
「どうした?」
「いや、他意はない。許せ、語堂」
(此奴、全く気づいてないのか?)
いつものような速攻の態度とは違い、はっきりせずで躊躇する語堂は余りにも珍しく、その心中を伺い知る司馬は自然と笑みが溢れていく。
そんな司馬の一連の行動に語堂は怪訝悪そうに鑑みる。
自分を勘ぐろうとする語堂の態度も尻目に、司馬は両腕を天に向かって伸ばす。大きく伸びをすると、口に手を当て息をいっぱい吸い込む。
1日の疲れを取るかのように、肩のコリを解す仕草をする司馬は、手を肩に当てながら大きく息を吐きながら。
その様もまたじっと見つめる語堂であった。
「そうだ!語堂、言っておくが敬事房#へは行くなよ?お前が直接絡むと話がややこしくなる。キノエをこれ以上いじめるなら私はお前でも容赦はしないぞ?」
欠伸ついでに部屋に戻ろうとした時、ハッと思い出したか?
足を急に止めた司馬は少し強い口調で語堂に注意を促した。目を三角に尖らせヒョンな面相となっていきなりキャンと吠え出す司馬。
突如コミカルに急変した司馬の態度に面食らった語堂は一瞬言葉を失う。すると腹の底から漏れ出すような鈍い笑い声が勝手に出ていった。
語堂は笑いを抑えようと必死だった。
「ククククッ…ま、待て、司馬よ」
(何だ?こいつのこの態度の落差は…。全く、またしてもおまえは…、本当に甘いよ)
苦言とも言える言葉からはキノエへの愛情が見て取れる語堂だった。
笑いを何とか止めて吠える司馬の認識に反論する。
「14で宮仕え、齢24して一族の長で宦官長のおまえに本気で刃向う訳がないだろうが。俺はおまえのお手並み拝見するとしよう」
(今はな…)
またいつもの淡々とする語堂に戻る。だが語堂から放たれる気は、緩和ではなく底から冷たく暗いモノを自ら纏っているように司馬には感じられた。やれやれと言った表情を隠しもせず、司馬は何かと好戦的な語堂を窘めようと語った。
「そう殺気立つな、語堂。私はお前無しにこれからもやってはいけない。お前の考えも気持ちも良く理解しているつもりだ。だが焦るな。私とお前は一心同体であり運命共同体だ。それにキノエは私達の可愛い弟でもあるんだからな」
「…そうだ、その通りだ。俺たちは一心同体でなければいけない、思考も何もかも…」
この話をすると語堂は必ず目を虚ろで視点は宙を彷徨っているようだった。言葉にもいつもの力を感じない。どこか自信なさげに聞こえる司馬だった。
これは語堂の勢いを抑える司馬の論法の一つでもあるが、今は効き過ぎたようで早速火消しに回った。
「語堂はいつも堅苦しいな。まぁ久しぶりにお前の笑みが見れた事でこれはこれで良しとするよ。それに私はいつもお前に救われて感謝している。
おまえがいるから私は見失う事なく私でいられているんだ。では後は頼んだぞ。私は部屋に戻り少し仮眠を取るとするよ。明日も面倒臭事が目白押しだからな」
「…」
クスっと笑顔を語堂に振り撒こうとした司馬。周りを揶揄して語堂の笑みを誘ったつもりだったが、司馬の語堂への火消しは失敗に終わったようだ。語堂の表情は一段と硬くなっていった。
(軽口のつもりが図星を突き過ぎたか?済まん、語堂。今は大人しくしていてくれ)
返事もせず不動のままの語堂の肩をポンと叩くと、司馬は語堂をその場に残し、先へと歩みを始めた。
…甲の国…
圧倒的な武力と凄惨な焚書坑儒によって、広大な土地と莫大な金子に民を手に入れてきた北方民族によって治められた土地であり、支配するのは二代目甲の国 芳虎帝であった。
元来粗暴と揶揄される現皇帝ではあるが、逸脱した武を持つ芳虎帝は猛虎と近隣諸国から恐れられていた。数々の小国を征圧した芳虎帝は最大のライバルである南に位置する金毅国へ戦いを挑んでいった。
だが一進一退の攻防を極める二国間抗争に終わりは見えず、先帝より繰り返された争いによって互いの国民は戦に辟易していく一方だった。戦いに明け暮れる国の方針に、日の食う物も困っていた民の不満は爆発寸前でもあった。
当然、国力は著しく低下し荒れていくばかりであり、この事態を由々《ゆゆ》しき事態と慌てた両国の官吏達は、不満に塗れる民の反乱を一番に恐れるようになっていった。
この状態が続くと、まだ残る他の諸国がいつ軍事進行を始める懸念に陥った両国家は、早急な停戦合意を目指し談話をもって解決への道を進んでいくのだった。
両国の談話開始から半年後の夏の頃、南の近毅国との間で繰り広げられた9年もの長きに渡る戦闘を回避する停戦条約が結ばれる事と相成った。
また、北朝甲の国、南朝金毅国の二大勢力を筆頭に他の榲・珅・出井・津知四国よって権力を誇示し合ったこの時代を人々は六朝時代と呼んでいた。
キノエが産まれる一年前の出来事であった。
甲の国 先の蘇枋帝より繰り返された抗争に嫌悪を持つ民の反乱を恐れた朝廷は、停戦合意の実を世に知らしめる為、最大勢力の二国間で互いの皇子を使者として、甲暦14年9月より13年間派遣する事に合意した。
北朝は文化推進発展の為、南朝は過度な享楽追求を猛省し、文武両道を目指す為との理由であった。
しかし実質は合意遵守の為の保険人質交換でもあった。これにより六朝時代は一時の平和を両国は手にする事が出来た。
北朝は皇位継承権第2位 芳虎帝の異母弟を、北朝は霊武おうの嫡男を遣わせる事となった。
これにより一旦戦争が止まった。
それに安堵した国民は戦火の傷を残しながらも、生産や産業と富国への道を勤しみ、二国間の長の使命は侵略政策から五穀豊穣への祈願・内需拡大政策へと変化していった。
甲の国 甲暦14年 芳虎帝即位2年目の新春。
北朝皇帝 芳虎帝15歳 南朝王 霊武王22歳の年の出来事であった。
-甲暦28年 5月下旬の3日後の亥の刻 司馬の部屋にて(22時頃)-
「司馬兄様ッ!司馬兄様ッ!」
遠くから自分を呼ぶ変声期前の甲高《甲高い》い声が、長い廊下いっぱい思いっきり木霊していた。
やっと任務から解放され、司馬は読みかけの本に着手しようとした時の事だった。
司馬の部屋はキノエの処からは約1㎞離れていた。宦官達だけが住むこの館の一番奥が司馬の部屋だった。
巧みな話術と判断力は年長者からその才を買われ、早い出世である司馬は同僚の宦官達から余り良くは思われていなかった。
一番端のこの部屋まで来る者は宦官役職最高峰の竜君中常侍反対者か、語堂くらいなものだと司馬は認識していた。
だが、前者はあれ程華やかな声で走りながら廊下で叫んだりはしない。
思いつく該当者はたった一人。
(あの声はキノエ。まぁ、ここまで来る理由は今は一つしかない)
ドタドタと部屋に近づくけたたましい足音と、自分の名を大声で叫ぶキノエの必死な姿を頭に浮かべると、深い溜め息を吐かずにはいられなかった。読んでいた本から視線を扉の方へ向けた司馬。
いつもは自動ドアのように、宦官達が開けてくれる大きな扉。そこまで大きくはないが、キノエには重量のある扉を必死の思いで開けようとしたていた。中々上手くいかず力むキノエの声を聞くと、それだけキノエの思いはいと司馬は察するのだった。
「どうした、キノエ。眠れないのか?」
はぁはぁと荒い息のキノエは、扉を開けに手をかけ呼吸を整えた。それも満足にする事なく、キノエはバタン!と扉を閉めると、司馬に大声で畳み掛ける勢いで問い続けた。
「司馬兄様、教えて!どうして?」
「一体どうしたと言うのだ?何をそんなに慌てている?何でも言ってみろ?私達は兄弟ッ!」
「誤魔化さないで言ってよ!アガが帰って来ないんだ。姿を消してからもう3日も経ってる。アガは何処へ行ったの?こんなの初めてだ!怪我してるかもしれない…、なら助けに行きたい、アガは絶対自分を待ってる!」
「…」
「…に、兄様」
(思ったより早かったな。それにかなり感情も昂ぶってもいるようだ)
ふぅと息を吐きながら途中の本を閉じると、司馬はキノエを手招きし、自分の元へと招き寄せた。司馬はキノエを自分の膝に乗せた。大きくなったキノエの重さを実感すると、その重さが微笑ましくもあった。
しかしアガの安否が心配で、悲壮な自分の顔付きとは真逆の司馬の朗らかな表情に、何か釈然としないキノエだった。
(司馬兄様はどうして楽しそうな笑顔しているの?アガがいないっていうのに)
キノエは司馬から感じるほのぼのとした空気に負けじと、キッと司馬を睨み返す。だが司馬から出た言葉は、キノエには受け入れ難い不可思議なものでしかなかった。
「両手のひらで収まるほどだったのに、命とは儚くもあり偉大でもあるのだなぁ」
「はぁ?な、何を言ってるの?何の事だよ、司馬兄様。そんな事よりアガは何処に行ったの?もう何日も居ないよ?司馬兄様なら何か知ってるんでしょ?アガを迎えに行くのを手伝って、アガが心配なんだ!」
(この目は…、キノエは私を疑っている?いや困惑しているのか?どちらにしてもその気持ちは急進的であり、対応云々ではどちら側にでも振れてしまうという事か?)
司馬は表情からキノエの思いを読み取ると、自分の今後の発言次第では本当にキノエが自分に離反する可能性もあると見た。この場合は致し方なく、ある程度の真実と自分の本音少々を混ぜ合わせて、キノエに納得して貰うのが一番だと結論づけた。
真剣な面持ちで司馬はキノエを見た。
キノエも自分から視線を反らさない。
静かな口調で司馬は話す。
「アガは語堂の縁戚の元へ行ったのだよ」
「縁戚って…、急に?いきなりどうして?自分は何も聞いてないよ、アガは何もそんな事言ってなかった!」
余りに突飛な司馬の話にキノエの思考は追いついていない。頭の中は疑問符で埋め尽くそうとしていた。
司馬は自分を混乱させ誤魔化そうとしているのではないのか?
今のキノエにはそうとしか思えなかった。話の筋を必死に取り戻そうと、大きく見開いた漆黒の瞳は司馬の一挙手一投足を見逃さない!と食らいついて行く。
「司馬兄様が何を言ってるか?全く分からないよ。ちゃんと説明してよ。司馬兄様がアガをどうかしたの?」
まくし立てるキノエに対して、司馬は頭や頬、肩を順に撫ながら、キノエの気持ちを落ち着ける方向へ持っていこうとした。この間合いがキノエには嫌で堪らなかったのだが、自分を見る司馬の目がとても柔かくもあり、何時しか怒りよりも押し黙る司馬の動向が気になっていた。
「司馬兄様?どうしてずっと黙っているの?何か言ってよ。アガをどうしたの?何か理由があるの?教えてよ」
アガの失速に動揺していたキノエの言葉には少しずつ平常に戻っていくのを肌で感じると、司馬は諭ようにゆっくりとキノエに言って聞かせようした。
「あの子は我が一族と言えど碧眼で言葉も不自由であった。目の色も比較的に明るい語堂の系統にアガは近かった。お前が寂しいと思い、此処へも連れて来たがやはり不憫にも思えてならなかった。言葉で苦労するよりも慣れた言葉で暮らせる方が彼の幸せだと思ったんだよ」
「アガと自分と一緒に勉強してた。アガは一生懸命に学んでいたよ?覚えるのが面白いって言ってた。アガは卑屈じゃなかった。兄様達はずっとそういう目でアガを見てたんだね?酷い!アガは努力してたのに!」
「私がこの判断をしたんだ。アガは良くお前や一族に尽くしてくれた。感謝しているからこそ幸せを願うんだ。それに語堂の縁戚には子供が居なくてね、後継ぎ探しが急務だった。その方達はアガを一目見て気に入ってくれたんだ。家長が居なくなった血筋の未来がどうなるか?それくらいキノエも分かるな?」
「アガにそんな事があったなんて…。司馬兄様はどうして大事な事は教えてくれないの?自分はいつも後から知らされるしかないんだ。そんなの…酷いよ、アガも何にも言ってくれなかった、こんな展開望んでもない…」
(キノエもこれで一応納得したな。済まん、キノエ。これも一族の為だ。今にきっとお前も分かる時が来る)
今までとは180度転換する話の展開に、キノエは成す術もなかった。
それはまるで借りてきた猫のようで、逆立てて反抗心剥き出しの威勢は、話を聞いた瞬間に消失していった。
しょぼくれるキノエを流暢且つ饒舌に語りながらあやす中で、司馬はこの件を発端にキノエが自分に反抗はしないと判断した。これほど慎重になるのは司馬にとってこの件が、後の諸刃の剣に成り兼ねないくらい微妙で危く歪な問題を孕んでいたからだった。
一族の為とは言え、司馬はキノエへやアガへの贖罪無い訳でない。
だが司馬はもう走り出してしまっていた。
ここで足止め喰らう訳にはいかなかった。たとえ兄弟、親、我が子であっても、邪魔するならば…。
キノエが持つ全ての疑問を払拭させる事も今はまだ叶わぬ事。ならば司馬なりにアガへの思いを込め、キノエに少しばかりの己の本心を伝える事にした。
そうであると良いという願いを込めて。
「アガはお前が悲しむのを見たくなかったのだよ。ここからは遠い場所だがアガは我が一族の仲間だ。息災にしていたら必ず逢えるさ。アガが活発で勇敢なのはお前が一番理解しているだろ?あの子がへこたれる事はないはずだ。私はそう信じている」
「本当に本当?それはまたアガに逢えるって事だよねアガの行った処はそんなに遠いの?語堂兄様はそんな遠いところから郷まで来たの?」
希望的推測の言質であっても、今のキノエには司馬の言葉が世界が一変するような、神の言葉のように聞こえた。どんより曇った表情は一気に晴れやかとなり明るくなった。
キノエの大きく黒い瞳が希望で溢れていくのが、司馬の心を捉えて離さなかった。司馬は語堂へ言った事を果たせたと密かに胸を撫で下ろしたのだった。
「今度、色々語堂に聞いてご覧?きっと面白い話も聞けるだろう。それに私がお前に嘘を言った事があるか?でもこのままで良いとも思わない。罪滅ぼしとは言わないが、新しくキノエの側付きを置いてやる。少し待っていなさい」
「アガの代わりなんていないよ…、でも兄様はアガの為にしたんでしょ?アガとまた逢えるなら我慢する。語堂兄様の縁戚なら…きっと大丈夫だ。語堂兄様は強いし、アガは自分よりも強い!自分も司馬兄様みたくアガを信じるよ!でも語堂兄様は…」
明るさを取り戻したと思いきや口籠るキノエ。
司馬はキノエが毒舌に近い語堂に遠慮がちなことは分かっていた。それを察した司馬は優しい口調で尋ねる。
(語堂は私でさえあの口調だ。キノエには尚の事だと容易に推測出来る。それにしてもコロコロ変わり身の早い事だ。キノエの変化にはこの私でもついていくのがやっとだな、それでも本当に微笑ましく素直に育ってくれたものだ)
「どうした?何か悩み事か?」
「…語堂兄様は帝とは違った何か冷たいのものだがあるんだ。帝の事も殆ど知らないけど…、自分は語堂兄様が少し苦手なんだ」
「そうか?語堂はお前と違って感情を出すのが苦手なだけよ」
「それにここは人は沢山いるけど、みんな年上だし、自分と仲良くしてくれない。少し向こうの館には同い年の子がいっぱい居るのに自分だけは行けないんだ」
「それはお前が一番で別格だからだよ」
「そんな風に思えないよ。語堂兄様は自分が嫌いなんだ。それにここの人も自分を見る目が冷たいし、近寄って来るなと言わんばかりの雰囲気が語堂兄様と似てるんだ。それにもうアガのような友達は自分にはいない…。自分は一人なんだ…」
「彼らと語堂を同列で見るのは全く違うぞ?だけど私も帝に仕える身。しょっちゅうお前のところには行けない。お前には寂しい思いばかりさせて済まないと思っている」
(あ…自分は言い過ぎたんだ!また我が儘言って司馬兄様を困らしてる。それでなくても待ってもらってるのに…)
キノエの視界に入った司馬の様子は、先程自分がやった項垂れ悲観する態度そのものだった。
自分の不甲斐ない態度を猛省し、キノエはすぐさま司馬を擁護した。
「そ、そんな事ない!兄様達はいつも一族の為にいっぱい頑張ってる。語堂兄様は怒ってばっかりだけど、自分が出来てないから怒られてるのも分かってるつもりだよ?前よりも兄様達は会いに来てくれるから嬉しいよ。自分なんかよりずっと…頑張ってる。だけど、他の人達は何故か自分を刺すような眼差しに見えるんだ…」
「それでずっと宮から出てこず、中に篭っていたのか?」
司馬の膝から飛び降りると、両腕を広げて懸命に司馬達の業績を讃え始めたキノエだったが、本音を司馬に見透かされ、その息巻いた勢いも一瞬で影を落としていった。広げた両腕をダラんと下げて、言い訳がましい言葉を吐く自分が嫌でも本音を言わざる負えない状況となった。
どんなに威勢を払っても、司馬の前ではキノエは今も当時の赤子のままでもあったのだ。
「どうして知ってるの?あ、語堂兄様が告げ口したんだね?司馬兄様に心配かけるから内緒だって約束したのに…」
不貞腐れた態度を見せるキノエ。
チラリと見た司馬は真剣そのもの。
部が悪いキノエはボソリと呟く。
「そういう疑いの目で人を見てはいけないと司馬兄様から教わったけど、自分はどうしてもそう感じてしまって…。何年もここにいるけど馴染めない自分が悪いって思っているけど…」
(問題の本質はやはりそこか?。周りの嫉妬心は常だから仕方がない。キノエに対してなら尚更でもある。しかし所詮奴らは付和雷同奴らは絶対キノエは越せないのだから。これなら確実に…)
憶測点と点が線になって核なるものへと繋がった。司馬は笑みを抑えきれずにいた。
溢れる微笑にキノエが気づき、笑うところの場所を模索するみたく、司馬の顔をじっと見つめた。司馬もキノエの表情にすぐ気付き、キノエへすぐ釈明した。
「違う、違う。お前を軽んじて笑ったんじゃない。思い出していたのさ。なぁ、キノエ。覚えているか?この黄貴城に初めて来た時の事を」
「どうしたの?いきなり。うん、6年前の事だけどすごく覚えてるよ。兄様達が自分を迎えに来てくれたんだよね?」
-遡る事 7年前 甲暦21年3月中旬-
『今日からここがお前の家だ。キノエ』
『これがお家?何処がお部屋なの?広場しかないよ、ここ…』
キノエを抱き、端午門をくぐると数千の人が練り歩く広場が開かれていた。
東に神武門、西に仏虎という端門を見据え、正面には橙富門が天上高く聳えていた。
キノエとアガ6歳、司馬、語堂齢17の事だった。
司馬は頬が一目に紅く分かるほど、気分は最高に高揚していた。腕にキノエを抱き抱えて色々説明するが早口になり過ぎていて、司馬自身も舞い上がった感が拭えない。
そんな司馬を語堂はクスっと笑った。
『ここが寅京最大の街の黄貴城だ。ここから数㎞先にキノエ専用の宮がある』
『数㎞先?そんなに遠いの?宮って何なの?毎日何回も往復するのは大変だよ?郷でもそんなに往復しかったよ?』
『キノエはもうそんな事をなくてもいいんだ。宮お前だけの家の事だよ。階位もないお前に帝が特別に用意してくれたんだ。私が教えた通り帝にお礼を言うんだよ?』
今まで見た事のないような綺麗な装飾の服装の人達が行き交うのが物珍しく、幼少のキノエは目で追いかけるだけで必死だった。
郷にいたような重い物を持つ者が一人もおらず、整った身なりからは何かしらいい匂いもする。夢のような世界に足を踏み入れた実感もなく、挙動不審になるキノエに構わず、司馬はどんどん足を進めていった。
(司馬兄様の視界にはこんなに色々見えるんだなぁ)
司馬の腕に抱えられたキノエはチラリと背後を振り返る。
全く景色が変わらず、本当に前を進んでいるかも分からなかった。語堂が近くでアガの手を引いて後に続く。
アガが一番大騒ぎにはしゃぎ、そのはしゃぎっぷりはキノエには自然と理解出来た。自分も同様で不思議と高揚しているのが分かる。
目が合うと、アガはにっこりキノエに微笑んだ。不思議と怖さはなくなっていった。
帝に謁見するまでは…。
『ここまでしか官吏達は入ってこられる。彼らは外の住人であり、黄貴城の住人ではないのだ』
『どうして?こんなに広いのに』
『この巨大な橙富門以降の場所は上級官吏さえ立ち入る事が出来ない。許されるのは我らのみだ。もうここは下界じゃない。天の世界だ!』
(天の世界?どういう事だろ?)
司馬の言葉に不可視な力を感じた。
進めば進む程に今までの景色とは違う風景に出くわした。人が更に増え、故郷の閹都では見た事のない豪華な衣装に良い香りがキノエの横を通り過ぎていく。
それに誰も汚れていない。
その中を堂々と歩く兄達に遅れず歩くが精一杯で、何が待ち受けているか?思考をあまねく事も出来ず、ワクワクする気持ちが胸を埋めた。キノエは二人の兄の堂々とした態度に誇らしくて、改めて二人に尊敬の念を抱いた瞬間だった。
だがそれも束の間。
ある扉を開られると、キノエは呼吸が止まった気がした。招かれた部屋は巨大な体格の男が天高いところに座する処だった。
それよりも未だかって見た事もない巨大な扉の向こうには、天にも届くような天井の高さと、それを支える自分の2倍以上の太い柱の羅列。
一糸乱れぬ不動の姿の者達が列を成して立っていた。息をするのも忘れる程の圧巻さにキノエの腰が抜けそうに尻餅をつきそうになった。
『大丈夫か?』
そう声をかけてキノエの腕を支えたのは語堂だった。
『あっ!あ、ありが…と。語堂にぃ…さ…ま。アガは?アガはどこに行ったの?』
『アガは先に宮へ送った。それより前を見ろ!帝の御前だ。行儀良くしろ』
『う、うん…、語堂兄様、でも怖いよぉ…行きたくないよぉ』
『駄々《だだ》を捏ねるな。後で折檻は嫌だろ?』
『声を荒げるな、語堂』
『ご、ごめんなさい』
(やっぱり…、語堂兄様は自分とは目を合わせないようにしてる。自分のせいで兄様達まで…でも、でも…)
喧々諤々《けんけんがくがく》する二人によって、よりこの場がキノエにとって耐え難い《たえがたい》ものとなった。言葉に従ってキノエの声は小さくなっていく。
語堂に引き摺られるようにして、キノエは前へと無理矢理歩まされて。
(ここ何なの?空気がもの凄く冷たい)
『ここは謁見の間だよ。帝がキノエの為に会いにわざわざ時間を作って下さったんだ。お礼をちゃんと言いなさい』
『司馬兄様、帝って何?』
『ここまでの道中で教えただろ?この甲の国の最高権力者だ。お前はこの方の子供を産む。それが我が閹刃一族の悲願だ』
『こ、子供を自分が?そんなの知らないし、聞いてないよ!』
(この方って帝って人?あの高い所に座ってる人?顔なんて見えないよ?それにあの人は凄く怖い感じしかしない。まだ6才なのに子供産む?自分が?そんなの嫌だ!)
初めて聞いた話に驚きを隠せないキノエは年端もいかず、まして出産など尚更想像出来るはずもなかった。
そのせいか、言葉に出来ない恐怖心で間には入れず、その場でキノエは突如大声で泣き出してしまった。
『語堂!何を言い出すんだ?そんな事は後でもいい。いきなりここでキノエを追い詰めて何になる?』
『言わないおまえが悪い。この際はっきりさせた方がいい事だ。こいつには一族の存亡がかかっているんだからな』
『何をしておる、早くしろ!芳虎帝の御前なるぞ?帝に対して無礼千万なる態度、今ここで全員首を刎ねられたいか?』
侍従の一人の檄に司馬と語堂は、即座に床に額をつけるほどの平服した。キノエはそんな二人の態度も知らず、ただただ声を更に荒げて泣くだけだった。キノエの泣き声は一番奥に座する帝にも届く程の声量へと変わっていった。
『申し訳ございません。本日謁見賜りました、この者がキノエでございます。他意はございません。何分初めての場に圧倒され、まだ6才の童故思わず泣き出してしまった次第でございます』
キノエをあやしている司馬に代わり、語堂がその場を取り繕うとしていた。
『キノエ?確かあの西方の者か?これだけは何度聞いても慣れん。もう良い。五月蝿くてかなわん。他所へ連れて行け。我は戻るぞ』
言葉を重ねる語堂を尻目に、そう言い残した芳虎帝はその場を後にしていった。
この場の出来事が寸劇の茶番の如く、飽き飽きした様子をあからさまにして。
周りの数多の侍従が平伏す中、暫しの時間、司馬と語堂は辺りの冷ややかな視線に晒されるのだが、幸か不幸か?この珍事によって敬事房でもキノエの存在は長年省かれる。
『語堂、お前が今した事は一族の恥となった。二度とあんな台詞はキノエに言うな。お前はキノエの抑圧でしかない。ロクな事にならんからな』
『…』
司馬の眼光の言わんとする真意の指摘の的確さに語堂は言葉がなかった。いつもなら言えばすぐ泣き止むのに、今日に限ってはしつこい程泣き続けるキノエの動きは語堂の誤算でもあった。
ただ黙って目を伏せたのが、今出来る司馬や一族への最大の謝罪の意となった。
(私達は本当に受け入れられていないな。まぁ一筋縄で行くなんて思ってもいなかったが)
謁見の間での数多の官吏達が放つ空気を肌で感じた司馬は、己の置かれた状況が如何に困難で荊である事かを再確認した。泣きじゃくるキノエを抱き抱え、冷え冷えとする場に深く頭を下げてその場を去って行った。
-司馬の部屋-
(あの時は司馬兄様達が自分をかばってくれたけど…)
「流石にあの時以上に肝が冷えた事はなかったよ。私が忙しくしている時は、語堂がお前の様子を逐一知らせてくれていた。それは郷にお前がいる時も同じだった。私とやり方は違うだろうがお前や一族の事を一番に考えている。もう少し大きくなれば、キノエも語堂の事は理解出来るようになる」
(そうだったの?知らなかった…)
懐かしむように司馬は此処に来た時の事を語っていた。キノエには遠いところを見ている司馬の目には一体何が映っているのか?とても興味が湧いていた。
「本当は全然嫌いじゃないよ、語堂兄様は。でも全然自分と目を合わせてくれないし…。嫌われてるって思ってたし。それならそうと他の事も、アガの事も言ってくれてもいいはずなのに…」
「あいつなりにちゃんとキノエの事を見ているよ。語堂は少々根がひねてるからな。でもそれはお前が気にする事はない」
司馬は軽く笑い、再びキノエの頭撫でてやった。アガの事でグズっていたキノエの頬に、また紅みが差してきた。それを確認すると司馬も嬉しく思い、笑顔をキノエに見せてやった。
当てられた司馬の手に手を重ね、キノエは愛おしそうに頬擦りしてみせた。
やっと心から安堵した気分になった。
(やっぱり兄様の手は落ち着く…。自分が語堂兄様を誤解してただけだ。司馬兄様の言う通り、語堂兄様にも頑張って話し掛けて見よう)
「そっかぁ、なら良かった。今日は二つも問題が解決したから安心したよ。司馬兄様、自分はもう大丈夫だよ、寂しいけどアガも頑張ってるもんね。負けてられないよ」
「そう考えてくれるなら私達も安心だ。お前の事は必ず私と語堂が守る。安心していい」
司馬は目尻を下げニコっと微笑みかける。
その屈託ない笑顔と言葉をキノエの胸の内はズキンと鈍く響くのを感じた。
「…」
(キノエの様子が変わった。本当に忙しい子だな。いらぬ余計な事を考えているようだ)
浮かない表情のキノエの反応に司馬は少し驚くが、何を思っているか?司馬には手に取るように理解が出来た。すぐさまキノエの頬を撫でながら、しばはキノエに浮かない顔色の意味の答え合わせをした。
「どうしたのだ、キノエ?」
「ううん、何でもないよ。一族の為にも自分ももっと頑張らなくちゃね」
(やはりそこか?読んだ通り夜伽の事だな。まぁ私も煽ったのは確かだが、必要以上に焦る事はないんだ、キノエ)
固くなったキノエの表情を司馬は慈悲に満ちた輝く言葉で慰めて言った。
「何が言ってるんだ?それだけじゃないだろ?私達はお前の兄貴だ。身を挺して弟を守るのは当然だろ?」
その言葉を聞いた途端、キノエは咄嗟に司馬に抱きついていた。自分より大きな体をめい一杯力を入れて抱き締めた。
(嬉しい!兄様は本当に優しい。今までも危ない時は二人がいつでも助けてくれた、これからもだ!)
キノエの目頭が急に熱くなった。
司馬の衣をぎゅっと掴み、束の間であっても込み上げる過去の記憶と、深く浸った感動を何度も噛み締めていた。
「じゃあな」
「うん、ありがとう。司馬兄様、おやすみなさい」
抱き締められたまま、司馬はキノエを腕に乗せて扉まで送った。キノエは司馬に今出来る最高の笑顔を知らしめて見せた。降ろされると同時に司馬に回した腕を解く。
キノエは司馬に大きく手を振りながら元気に走って自分の宮へと戻って行った。陽気に満ちたキノエの姿が消えるまで、司馬は部屋の外でいつまでも見送っていた。
「語堂か?」
笑顔で見送る司馬の側に、何処からともなく語堂が降り立った。語堂は緩んだままの顔の司馬を呆れ顔で見ながら言った。
「また甘やかしていたみたいだな?いい加減溺愛は止めたらどうだ?これではいつまで経ってもあいつは手の掛かる駄々っ子だ。しっかりしないぞ?」
「私からすればお前も大概だと思うがね。寧ろ私はそれでもいいと思っている。一族云々の前にやっと私に懐いてくれた可愛い子だからな」
「まぁ、お前にとって都合も良く、それが一族の為になるなら俺自身は無問題だ。話は変わるが準備は完了だ。今度の園遊は問題ない」
「そうか、なら良かった。これはとても大事な事だからな。このチャンスは逃せない」
「それと…」.
「なんだ、語堂。何か問題でも?」
「今度のは口が聞けない半陰陽だ。アラビア辺りの貴族の愛玩物だったそうだ。まぁ希少で肌も異質らしい。早急に用意出来るのはそれくらいだ。どうする?もう少し様子を見るか?」
語堂の言葉を聞いて、司馬は少し考える素振りを見せる。一考すると再び口を開いた。
「どちらにしても宦官には違いない。口が聞けないならこちらとしても好都合。私も含めてだが、竿のある方が喜ぶ輩の方が多いからな。語堂、早めに頼む。またキノエがいつ不貞腐れるか分からんからな。キノエの暴発する導火線は管理不可能だからな」
「…分かった、明日至急で面通ししてくる」
(司馬?おまえ…)
語堂は司馬の答えに承諾すると、明日に向けてこの場を立ち去ろうとしたが、前に進む力に反動が加わり急に動きを止められた。司馬は語堂の腕を引いていた。より自分に近いところへと語堂を引き込んでいた。
(こうなるから早めに話を終止させ立ち去ろうと思っていたのに。話を聞いてないな?)
ニンマリ笑う司馬の表情で、語堂はその意味を悟った。
(こいつは本当に…)
「俺は明日早いんだ、さっき言わなかったか?あそこは遠いんだよ。やらなくていいならいいけどな」
「それはそれ、これはこれだ。私を満たせるのはお前だけだ」
真っ直ぐ揺らがない司馬の眼差しに反抗し、語堂は白々とした態度で反射的に視線で他所を見る。司馬の体温が上がり腕を握る手にも力がこもっていく。語堂は照れもあり自身の頬も紅潮するのが分かると、急に周知が出てぎゅっと目を瞑るのだった。
語堂の一挙手一投足が手に取るように見えると、こそばがゆくて堪らなくなる。クスッと笑うと司馬は部屋に語堂を招き入れ扉を閉めたのだった。
.-甲歴 28年 6月上旬 戌の刻 大雨の日 (23時頃)-
一人で寝る事に慣れないキノエは、寝所を軽く整えると縁に座り、くしゃくしゃになった紙をじっと見つめていた。慈愛と感謝の気持ちを込めて、涙と水で滲んで読めない紙を伸ばすを繰り返していた。灯りの側で再三解読を試みたが、既に《すみ》は水分で膨張し他の文字とくっ付いてしまっていた。
こうしてしまった自分の不甲斐なさにまた情けなく涙が頬を伝っていった。
「ちゃんと語堂兄様の言う事を早く聞いていたら、こんな事にはならなかったのに…、馬鹿だな…ホント」
(きっとアガは励ます内容と、元気でまた会おうって書いてくれたんだ!)
二度と読めない手紙をぎゅっと胸に抱き、アガの思いを身に染み込ませようとした。くしゃくしゃになれば、手の甲で紙を伸ばす。この数日一人になれば何度も繰り返してきた事だった。
「これ以上やったら紙が千切れてしまう。明日から額に入れて保管しようっと。それにしてもこんなに雨が降るなんて…。今日は朝から語堂兄様もいないし、司馬兄様は郷の急務で城にもいない。アガもいないし…」
一人手持ち無沙汰で気が滅入る。キノエは雨が激し過ぎて本にも集中出来ずにいた。
「今日まではこの紙を側に置いて一緒に寝よう。お前はアガそのものだ」
小さい布を布団代わりに、その上に紙を枕の側に置いた。するとキノエの目には隣に元気なアガが横たわる光景が映り込み、少しだけ寂しさを紛らわせる事が出来そうだったが…。
「バリバリッ!!」
「うわっ!雷がっ、せっかくアガが見えてたのに…、音と共にアガも消えてしまった」
雷が光り数秒後に大きな落雷の音が耳を襲った。何故か落ち着かないキノエは徐ろに窓辺に近づくと、外の様子を肌で感じようと窓を開けようとした。だが窓を開けるのも非力なキノエにはままならなかった。
思いの外、風の強さに押し負けてしまい、窓はほんの少しだけ開くのみだった。
これ以上は無理と判断すると、キノエはすぐに窓を閉め、掛かった雨水を軽く払った。窓の内側から司馬や語堂の安否を気遣い、懐かしむ想いに耽る事にした。
「やっぱり語堂兄様は嘘つきだ。今日は早く帰ると言っていたのに…。あの時は凄く嬉しかったのに。司馬兄様も郷に急務って、聞いたら教えてくれるかな?兎に角この雨は嫌だ、兄様達も郷も無事でありますように」
願掛けにも近い想いをこの雨風がみんなの処に運んでくれるよう願いながら、キノエは一人布団へと潜り込んだ。
(これがあるから雨なんて怖くない)
紙に向かって挨拶するようにニコっとした。だが気持ちを強く持とうとしても、雷を放ち鳴り響く轟音と窓に烈しく当たる雨風には勝てず、布団すっぽり被って耐え偲んでいた。
予想以上の大雨はまるで嵐のようだった。
音は更に太く低く響いて窓を打ち付けて、今にも割れそうな勢いまで発達していった。
(そ、そういえば郷のおじい様が言ってた話があったなぁ)
昔、故郷にいた時に長老が豪雨の時の対処を、教えてくれた事をキノエは思い出していた。
『豪雨は死者の魂の叫び声。だから絶対に開けたらいけないよ』
「少しだけ開けたけど、もう二度と開けない。おじい様の約束はこれからもちゃんと守るよ。みんな元気かな?会いたいなぁ」
何をしても懐かしい郷を思い出してしまう。
郷にはアガも司馬も語堂もいて、仲間と泥んこになって遊んだ日々を思い出しては、また涙で枕を濡らすキノエだった。
(これで寝れるはず、絶対立派になって郷に帰ろう!みんなに褒めてもらえるように)
「ガダンッ‼︎‼︎」
スヤスヤと眠りにつきそうな静寂の喧騒を、一気に打ち砕くような音が耳に劈いた。
「ガーガー.ビュービュー」
窓が突如全開し、部屋に雨と木の葉がしきりに入ってきていた。開けられた扉は、ギーギーと不協和音を不規則に立てて力なく揺れていた。
突然の激しい雷と窓の音に、驚いたキノエは布団から半身を起こして扉の方を着目した。
「な、何?」
雨音が強く風も吹雪いた突風で、部屋の明かりが全て消え、辺り一面暗闇へと変わっていく。
一体何が起きたのか?
状況把握が出来ず、キノエの胸には一抹の不安が恐怖へと変貌していった。
(あ、あれは…)
何度も不規則に光る雷によって、キノエにはあるものの輪郭が見え隠れする。
人影だった。
その者は窓の縁に座り、キノエを、部屋を伺っているようにも見て取れる。何も言わず、ただ座ってこちらを見る者にゾッした。
キノエに激甚が走り生唾をごくりと飲んだ。鼓動が早く胸を打ちつけ、得体の知れない者の白目だけが光って見えると、金縛りにあったかようにビクとも体が動かなくなった。
キノエの体には冷や汗が流れていき、震えが止まらなくなっていった。
「だ、誰かいるの?もしかして語堂兄様?」
極度の恐怖に背中を押されしまい、勢いあまって考えるより先に言葉が出てしまった。
「バリバリッ‼︎」
「ひぁっ!」
一段とデガい爆音が部屋を埋め尽くす。
頭を伏せ、耳を塞ぎ、半泣きでビクビクするキノエを見て、やっと男が口を開いた。
「お前…」
「え?」
「お前は誠の本物か?」
⇨ to be continue 第二話
三層基壇# 3つの層に分かれた塔。
石塔等に良くある形。ジッグラトとも言う。
敬事房# 皇帝と后妃達の夜の関係全般を処理する部門。皇帝でも簡単には口出し出来ない。
焚書坑儒# 書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)と言う意味。思想弾圧。