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「あ・・・」
彼の読んでいた本から1枚の紙がするりと滑り落ちて、まるで風に流されるようにツーーーーッと床を滑りながら遠ざかっていく。
弥生は思わず紙を目で追いながら、手を伸ばした。
今日はいつもの席でいつものブレンドを注文し、いつも通りに本を読むジロウさん。
コーヒーをサーブしたあと戻ろうとしたときにそれは起こった。
紙の終着点を確かめながら手を伸ばし、拾った紙をジロウさんに手渡す。
「どうぞ」
「どうもありがとう」
そう言ってジロウさんはいつもとは少し違った優しい笑顔で笑いかけてくれた。
「あの・・」
動揺した弥生は思わずジロウさんに話かけてしまった。
「ん?」
不思議そうな顔をしてジロウさんに見つめられる。
「あ、あの・・その本、何読んでらっしゃるんですか?」
思わず話しかけてしまった気まずさより、ジロウさんに見つめられたことに動揺して、早口に質問する。
「あ、これ?リノベーションの本。興味ある?」
「あ、いえ。いつも色んな本を読んでらっしゃるなって思ってて・・」
「ははは。よく見てるね」
墓穴を掘った弥生は顔が赤くなるのを感じながら、尻窄みになりながら言葉を続けた。
「いえ、見てるんじゃなくて、見えていたと言うか・・」
「いつもサーブしてくれてるもんね、弥生ちゃん?」
確認するように弥生の名前を発する。
「え?!名前・・」
「マスターたちが呼んでたから。間違ってなかったよね?」
極上の笑顔を添えてそう聞かれたら、はいと答えるしかない。
持っていたお盆を胸に抱えて俯きながら、小さく「はい」とだけ答えた。
「ははは。本当かわいいね。弥生ちゃんはどんな本が好きなの?」
「えっと・・、普通にミステリーとか恋愛小説とかが多いです。でも、私、大学で建築勉強していたので、リノベーションとかにも興味あります」
少し驚いたような表情でジロウさんは、
「へー、建築やってたんだ」と言った。
「あの、かじった程度ですけど」
ひけらかすような才能もない弥生は、強調するようにそう答えた。
「うんうん、でもリノベーションに興味あるんだ」
そういって少しだけいたずら顔を見せたジロウさん。
いつかマスターみたいに自分のお店を持つことが弥生の夢だ。
そのときは古民家をリノベーションしたカフェを作りたいと思っている。だからリノベーションに興味があるのは本当。
でもそんなことまで今日初めてしゃべった人に言っていいのか分からなくて、ジロウさんの質問には無言で頷くだけにした。
その後ジロウさんはいつものように静かに時間を過ごし、いつも通り帰っていった。
初めて話したジロウさんは、びっくりするほど表情が豊かで、
今日は知らなかったジロウさんの顔をたくさん見ることができた、と弥生の心はホクホクしながら1日の仕事を終えた。