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どうやらジロウさん、と言うらしい。彼の名前は。
今日、いつも通り店に入ってきた彼を、マスターのお父さまである大マスターが「ジロウくん」と呼んだとき、びっくりして大マスターの方をまじまじと見つめてしまった。
大マスターは、表向きは引退してマスターに店を譲っているのだが、時々、と言うか頻繁に店に顔を出し、珈琲を入れている。
店に立って珈琲を入れることが生きがいらしく、マスターもやってきた大マスターに特に口を挟むことはなく、好きにさせていると苦笑いしながら言っていた。
店にやってくるお客の中には大マスターのファンも多いから、昼に大マスターに会いにやってくる人も多い。
でも彼が夜に店に立つことはほとんどない。
逆に弥生のシフトは昼過ぎから夜にかけてが主だから、大マスターと一緒に仕事をすることも少ない。
ただ、弥生自身も大マスターの入れる珈琲の大ファンなので、昼に大マスターのコーヒーを飲みに店を訪れることはあった。
店に入ってきたジロウさんは、大マスターの顔を見るといつもの窓際ではなく、カウンターの席へとやってきた。
「こんばんは。今日は夜にいらっしゃったんですね」
弥生の見たことのない穏やかな笑顔を見せながら、いつもより少し高い声で大マスターに話かけた。
「あぁ、今日は息子に用事があってね、普段は夜には出ないんだけど」
「最近、夜によく寄らせてもらってるんですけど、夜にお会いするのは初めてですもんね」
頷きながらジロウさんが答える。
カウンターに座ったジロウさんは、「今日は、モカマタリにしようかな」と大マスターに向かって言った。
お水を出した弥生には、いつも通り「ありがとう」と一言添えた後で。
「はいよ」
と答えて、大マスターは手際よく珈琲を淹れていく。
ジロウさんは、いつもの様に本を開くことはなく、大マスターと主に珈琲の話をしながら出されたモカマタリを堪能し帰っていった。
ジロウさんはやはり博学で、珈琲についての知識もこの喫茶店でバイトを始めてもうすぐ3年になる弥生より明らかに詳しく、珈琲のことに関しては右に出る者がいない知識を持つ大マスターと何時間でも語り合えるくらいの知識を持っており、始終楽しそうに話をしていた。
いつもより少しだけ遅く店を後にしたジロウさんを見送ると、珍しくお客がゼロになった。
「弥生ちゃん」
大マスターはいつも弥生の名前をゆっくり丁寧に発音する。
「はい」
「今日はちょっと早いけど、もう終わりにしようか」そう言って、コーヒーカップを2つ温め始めた。
「はい。じゃぁ、クローズにしてきますね」
そう答えて弥生は看板を“closed”に変えるため外に出た。
看板を裏返した後、入り口付近を軽く掃除し店の中に戻ると、大マスターが入れてくれた珈琲がちょうどカップに注がれるところだった。
おいで、と手招きされてカウンターに腰かけると、淹れたての珈琲が目の前に置かれた。
出された珈琲を見て、にっこり笑い、素直に「ありがとうございます」と言う。
「弥生ちゃんは、うちに来てどのくらいになるかな?」
「働き始めてもうすぐ3年になります。その前に2年くらい通い詰めてたから、ここに来だしてから5年くらいですかね」
「そうかー、もうそんなになるんだね。初めて弥生ちゃんに会った時のことは、今でもしっかり覚えてるよ。わしの淹れた珈琲を一口飲んで“マスター、こんなに美味しい珈琲は今まで飲んだことがないです!”って目をキラキラさせながら言ってくれたんだよね」
「いや、だって、本当に大マスターの淹れた珈琲美味しかったんですもん!今だって大マスターの淹れた珈琲以上に美味しい珈琲を飲んだことないですから!!」
大マスターの淹れてくれた珈琲を一口飲んで、思いっきり反論する。ここだけは譲れない。
「はは。ありがとう。あの笑顔がね、本当にキラキラしていて。ここで働いてくれることになったとき、本当に嬉しかったんだ」
「こちらこそ。こんな素敵なお店で働けるなんて、私はとっても幸せです」
にこにこと笑う大マスターに、弥生は思い切ってマスターに聞いてみた。
「あの、さっきの方なんですけど、最近よく夜にいらっしゃるようになったんですけど、すごく珈琲についてお詳しいんですね」
「ん?ジロウくんかい?そうだね。彼はもう長いこと来てくれていてね、孫みたいなもんだと思ってたんだけど。
気付いたら弥生ちゃんみたいにうちの珈琲が上手い!って言ってくれるようになってね。最初は若造の減らず口だと思ってたんだけど、気づいたら焙煎とかブレンドとかにも興味を持っていて、よく豆の話だとか焙煎の話をして楽しませてもらってるよ。
いやー、今は珈琲も進化してるんだよね。奴のうんちくに勉強させられる日が来るなんて思ってもみなかったけど、おかげさまで楽しませてもらってるよ」
めずらしく饒舌な大マスターの話を聞きながら、頭の中でジロウさんについて整理していたら、
「そう言えば弥生ちゃんと似ているところもあるね。お似合いかもよ」
突然そう言ってにやりと笑った大マスターに、
弥生は「なっっっ」と真っ赤になって固まってしまった。
「ははは、弥生ちゃんには少し刺激が強かったかい」
ウインクしながらマスターはパントリーの片付けを始めた。