16
その日、弥生はめずらしく待ち合わせに少し遅れて到着した。
人ごみの中で遠目から治朗さんを見つけたとき、珍しく電話を耳に当てていたので、もしかしたら遅れてきた弥生を心配してくれていたのかもしれない。
少し離れた場所から弥生に気づいた治朗さんは弥生に向かって手をあげて電話を耳から離してポケットにしまった。弥生は自然と笑顔になり、早足が駆け足になりながら治朗さんのそばに駆け寄った。
「遅くなっちゃって、ごめんなさい。」
近づきながら、あがった息を整えながら弥生は言う。
「いや、僕も今来たところ。」そう言った治朗さんは少しだけ物悲しそうな表情をしているように見えた。
「疲れてます?お仕事忙しい?」
弥生は心配になって、治朗の顔を覗き込むように尋ねた。
「ん?大丈夫。仕事は、いつも通りだよ。」
答えながら治朗さんは弥生をふわりと包み込むように抱きしめた。
情熱的なハグではなく、優しく包むようなハグ。弥生は驚いてどう反応して良いのか分からず、固まってしまった。
治朗さんが人前でこんなことをする人だったなんて、不覚だった。幸いにも治朗さんに包まれて人には見えない状態の弥生の顔は、誰がどう見ても真っ赤になっていたと思う。
「じ、治朗さん?どうしちゃったんですか?」
動揺を隠せないまま、上ずる声を抑えながら心配げに治朗さんに声をかける。
「ん?弥生ちゃんの顔見たら、なんか抱きしめたくなっちゃった。」
少しだけおどけたみたいに治朗さんは答える。
「何ですかそれは。私は治朗さんの抱き枕ではありません。」冗談めかして反論する。
「うん。分かってるよ。弥生ちゃんは、僕の好きな人。だから愛しくて抱きしめたくなることもあるでしょ?」
突然の告白に、弥生はまた固まってしまった。体だけでなく思考も固まってしまって、弥生は口をパクパクするだけで何も答えられない。
ひと息ついて、「・・・治朗さんって、私のこと、好きだったんだ。」
ボソリと弥生が呟く。
「うん。好きだよ。好きじゃない人にこんなことはしない。弥生ちゃんは?僕のこと好き?」
頭の上から優しげに降ってきた言葉は、少しだけ震えているようにも感じられた。
人が多い場所で待ち合わせしたはずなのに、行きかう人や車の音がにぎやかに響いているはずなのに、まるでこの世界に二人だけのような静寂に包まれているように感じた。治朗さんと弥生しか存在しない、そんな世界ありえないのに。
いつもだったら恥ずかしくて人前でこんなこと出来ないけれど、この時の弥生には周りの目なんて一切感じなく、気にする必要なんて全く感じなかった。ただまっすぐに治朗さんの目を見つめながら治朗さんの頬を両手で包んで、
「こんなに治朗さんのことが好きだって、伝わらないんですか?」
震えた声で、丁寧にゆっくりと言葉を紡いだ。
大胆な告白をしたけれど、治朗さんからの答えを聞くのが怖くなって、治朗さんの背中にそっと手を伸ばして、治朗さんの胸に顔をうずめた。
心が震えている気がした。こんなにも溢れ出る気持ちはきっと、言葉にも態度にも雰囲気にも全部ダダ漏れで、治朗さんに伝わっているものだと思っていたのに。
「こんなにも弥生ちゃんのことが好きだって、伝わってないみたいだけど?」
弥生の背中に回された治朗さんの腕の力が、すこしだけ強くなった。おどけたように答えた治朗さんの言葉に、バッと勢いよく顔をあげる。
「え?」
びっくりしすぎて、治朗さんの顔を直視して聞き返す。
まっすぐに見つめあいながら、治朗さんが教えてくれる。
「一緒だよ、きっと。弥生ちゃんが僕を好きでいてくれると信じていても、言葉でないものに自信は持てない。僕も弥生ちゃんがとても好きだけど、言葉にしなかったから弥生ちゃんは確信が持てなかった。違う?」
治朗さんの言葉は誠実で溢れていた。
「違わない」
首をブンブンと横に振って答える。
そう、本当はその言葉が聞きたかった。でも聞けなくて、聞き出せなくて。
違う。
否定されるのが怖かったんだ。もし、本当は弥生のことなんか好きじゃないって言われたら、もう治朗さんで溢れかえっている弥生の気持ちは行き場を無くして、苦しくて辛くて立ち直れなくなるかもしれないから、本当は、切実に聞きたかったけれど、聞くことができなかったのだ。
だけど、自分からこの言葉を伝えたこともなかった。
だから治朗さんも同じ気持ちだったのかもしれない。
今まで信じてはいたけれど、曖昧でフワフワしていた物が突如、目の前に明確に現れて弥生の意識を支配している。
それはあまりにも鮮明で、弥生の頭の中をビビットなカラーで占領するかのように、強い刺激で襲いかかてきてコントロール不可能だ。
治朗さんは私のことが好き
改めて言葉にすると、ものすごく恥ずかしい気持ちになって、弥生はまた俯いたまま顔を真っ赤にした。
「行こうか」
ゆっくりと手を緩めて、今度は弥生の前に片方だけ手を差し出す。
その手に弥生の手を重ねながら、弥生は頷いた。