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カランカランと入り口の扉の鐘が鳴る。



午後9時15分。


弥生は店の奥の壁にかけられた、木製の掛け時計をちらりと見て時間を確認した後、扉にむかって「いらっしゃいませ」と声をかけた。


予想通りのお客の顔を確認し、彼がいつもの席に向かって歩きだすのを確認してから、お水をトレイに乗せて、彼の後ろをついていく。


彼が席に着くのを待ってお水を彼のテーブルに置く。

彼はちらりと弥生の顔を見たあと、「ブレンドコーヒーを」と一言言って、黒いバックパックから1冊の文庫本を取り出した。


「かしこまりました」と返事し軽くお辞儀して席を離れる。


カウンターに戻り、マスターに「ブレンド1つお願いします」と声を掛ける。



弥生の働く喫茶店『六花』は、観光地の繁華街から少しだけ逸れた場所に位置する。

カフェではなく喫茶店という言葉がぴったりなこの店はマスターのお父さまがはじめたらしく、開店から一度も改装していない店内は、昭和の喫茶店そのものである。


マスターの入れる珈琲は格別美味しく、地元の固定ファンが多いため、観光地にも関わらず来客の9割は地元の人たちである。

喫茶店なのに禁煙というところが、珈琲好きだが煙草の苦手な弥生にはぴったりで、弥生は学生時代からこの店でアルバイトをしている。



1月ほど前から突然この店の常連客になったこの男性は、平日の夜、週に4回ほどこの店にやってくるようになった。

必ず一番奥の窓際の席に座りブレンドコーヒーを頼んで、本を読みながら1時間ほど店に滞在し、帰っていく。



彼について弥生が知っていることは、ほとんどない。

見た目は地味だが、綺麗に整えられた髪や清潔な服装を見ると、ちゃんとした仕事をしている人間に見えた。

最近ここに現れるようになったということは、転勤か何かで最近この周辺に引っ越してきたのではないかと勝手に思っている。



店で交わされる会話は、いつもの決まりきった注文のやり取りと、弥生がコーヒーをサーブするときに、決まって彼は「ありがとう」と言って弥生に微笑んでくれる。

たったそれだけ。何も特別なことはなく、ただの店員と客に過ぎない。

その証拠に、弥生は彼の名前さえ知らないのだから。



なのに弥生は彼のことが気になって仕方がない。



最初は、最近よく来る人だな、と思うようになった。

それから、彼の持っている本に興味を持つようになった。

なんでも電子化された社会の今、紙の本を持ち歩く人は少なくなった。

それに加えて、彼の持っている本は最近のベストセラー小説から自己啓発、弥生には理解できない専門書まで毎回違った部類のもので、彼がよほどの博学なのか、飽き性なのかは予想できなかったが、

とにかく「今日はどんな本を読んでいるんだろう」と興味を持つようになった。


さらに言うなら、彼がこの店で電子機器を開いている姿を見たことがなかったのも、弥生の気を引く要因の1つとなった。

誰もが携帯電話を手放せないこの時代に、紙の本にしか興味を示さない彼に、スマホもタブレットも苦手な弥生は親近感を覚えたのだ。



それでもこの1ヵ月、交わされた会話はほとんどなく、弥生が一方的に、密かに興味を示しているだけである。

高校に入ったばかりの頃、バスケ部のキャプテンだった先輩にあこがれて遠くから眺めていた、あの頃の自分と全く変わってないと密かに自分を揶揄しみたけれど、現状は何も変わらない。


こっそりと確認した左手の薬指に指輪はなかったが、弥生より明らかに年上の彼に彼女がいない方が不思議かもしれない。

今のところ、この気持ちは誰にもバレていないと思っているが、恋愛経験の乏しい弥生には、この先どうやって彼に近づけばいいのか、全く分からなかった。




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