21
高い塀の中、その縁からするりと立ち上がる煙のような黒い影。ずっと離れた所の光景ではあるけれど、今いる場所から隔てるものの何一つないその飛翔は、緩やかで、優雅で、かつ力強いと感じさせる。
───竜。
王族居住棟への廊下を引き返して、貸し与えられている部屋のある棟の二階の角へと出て、その空間は広がっていた。
廊下からそのまま繋がった先の北向きの壁一面が、透けているのだ。否、これは──
「ガラス?」
「そうなの!」
悠々と空へ登る小さな影は、ふつりと雲に紛れて見えなくなる。晴れた青い空に、白い雲、ほとんど黒に見える濃い緑の竜はひどく目立って、それはそれは映えていた。
───綺麗。
竜の姿に気を取られ、無意識のうちに透明の壁に触れていることに気づいて、すぐに手をひっこめる。私の隣で同じように手をついていたリュカが、ガラスについた指のあとをみて誤魔化すように笑い、声を上げる。
「リナリアは、運がいいわね!ちょうど竜が飛んでくところにでくわすなんて。」
「そうなの?あんまり見られないの?」
この場には、フレザさんしかついてこなかったから、口調を和らげておくことにする。なにやら満足げにリュカがうなづいた。
「毎日飛んではいるけどね、決まった時間じゃないの。」
「そう。ありがとう、庭も素敵だけど、竜をこんな風に見られるなんて・・・。」
再びガラスへと目を向ける。ディリアにおけるガラスというのは、何かしら色が混じっていて分厚く、加工品と言えば大きめのゴブレットぐらいなもの。透明な、向こう側を鮮明に透かし見ることのできるガラスは近年大陸を回り込んできた船との交易で得られる高価なものしかない。それもディリアではあまり出回っていなくて、使われているのは王都のいくつかの人気の店の店内展示だそうな。
そんな、ガラスを惜しげもなく足元から私の頭の少し上──私は女性のうちでも少しばかり背の高いほうである──まで、10歩ほどにわたり張られている。姿見の鏡のように縦に長い一枚の間に細い継ぎ目の枠があってそれが、十数枚続いているのだ。
───竜にばかり気を取られていたけど、この空間だってとても貴重なものだわ。
「こんなにたくさんのガラス初めて見たわ。」
「ウルネラっていう国知ってる?」
「いいえ。船が行き来する国のひとつ?」
「うん。大きな国でね、一番いい船を持っていて、ガラスが有名なんですって。」
「大きな国、ってよくわからないわね。」
ディリアが小さいと言われていることぐらいは、国民のおおよそが知ることである。
国土の多くを険しい山脈に囲いこまれ、また、海に面して、自国の中で全てが完結してきたディリアにおいて、淑女教育の中で教える『歴史』は全て、現在とそれからほんの2、3代前までの貴族たちの名前と婚姻関係をさらうという簡単なもの。
ディリアではない国があるというのは、言葉では知っていても、腑に落ちないというか、しっくりこないのが現状だ。
「でね、そのウルネラの人が来て、ガラス職人を連れてて、腕前を見せてくれるって言って、こうなったの。」
「こんな大きなガラスをつくれるのね。」
「ディリアには、できないもんねぇ。」
相変わらず私はガラスの壁を見上げていて、リュカは外を眺めていたけれど、妙に落ち込んだ様な物言いに、私より低いところにあるリュカの顔をのぞき込む。
「リュカ?」
ふいっと目を逸らしたリュカは、傍にあったソファにすとんと腰をおとして、また何か誤魔化すように笑顔を浮かべた。
それは、やっぱり可愛らしくて、でも無邪気というには気品のある、完成された形で、この人は確かにエリュカミラ殿下なのだと私に印象づけた。