16
───何事でしょう。
胸に手を当てて、大きく息をする。さっきまで、『15年の人生史上で一番』と表現してもいいぐらい高鳴っていた心臓はすっかり大人しくなってしまった。気持ちが落ち着くと、だんだん周りの情報が見えてくる。
ケルネさんが転びそうになった所を、この男性が支えてあげたようだ。
───何故離れないんですかね。
口をぱくぱくさせたケルネさんは、一向に体勢を整える様子をみせないし、男性の表情は見えないけれどとにかく二人とも動かない。
「あの、どちら様でしょう。」
とりあえず、相手を探ってみることにする。やっと、私の方に注意を向けたその人は黒い短髪で私よりも幾分年上だとは思うけど若い男の人。人好きの良さそうな笑顔を浮かべてこちらに会釈する。
「ディリア国王直属伝令部隊の者です。」
ディリア国王直属伝令部隊・・・。読んで字のごとくディリア国王に直属する、伝令の部隊である。王城から出されるあらゆる司令から、パーティーのお知らせ、時には王族からの求婚の手紙まで国王陛下からのありとあらゆる書状を直接ディリア中の貴族達のもとへ届ける文官かつ武官な者達である。その多くは騎士のうちから引き抜かれていて、剣の腕もあるし体も丈夫なハイスペックな配達員といったところなのだ。つまり。
「届け先をお間違いですわ。領主様のお屋敷をお探しだったんでしょう?」
目を細めた笑顔がふっとなくなって、急に真面目な顔になる。
「いいえ。私はハース子爵家に書状をお届けするようにと仰せつかっております。さっそく、伝令部隊員としての役目を果たしたいところなのですが。」
言いながら、ゆっくりとその視線は自分の腕の中へ。
「このご婦人は、腰が抜けてしまわれたようなのです。」
「ケルネさん!?」
彼の腕の中のケルネさんはぐったりして、苦しげな声をもらしていた。
「失礼します。もうすこしの間そのままでお願いします。」
我が家には、家事を手伝う女性が3名と、庭の手入れ担当のケルネさんの旦那さんに、二頭の馬の世話をする少年コリス君がほぼ毎日昼前から夕方まで通って働いている。彼らはこの街の住人で、貴族とその使用人のように畏まった関係ではなくて、とにかく気のいい人たち。多分この辺のレストランで働くよりすくない給金だけど、彼らにとってはたいしてやることはないし自由に休みを取れるこの家での仕事はいい『小遣い稼ぎ』なんだとか。これはコリス君の言葉である。
休憩室として開放している一階の角の部屋を覗くとケルネさんの旦那さんを発見。
「こんにちは、リナリア嬢。」
小柄で優しげな、白髪混じりのおじさまが手にしたティーカップを軽く掲げる。いつもならここで、しばらく一緒にお話するんだけど。
「こんにちは、オルコットさん。ケルネさんがぐったりしてるの。玄関に行ってください。」
「なんてこった。」
それから、厨房に向かって、夕飯の支度をしていた女性たちを発見。
「あら、リナリアちゃんじゃないの。」
「カネリさん、ヤミナさん。お客様なの。お茶の用意をして、お父様を呼んできて欲しいです。」
二十代の人妻二人は顔を見合わせてふふっと笑った後、「まかせなさい」とか言いながら出ていった。
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リビングの向かいの一室。そこそこの広さの我が家でリビングの次に広くて、唯一貴族相手でも対応ができる気品のある家具をならべた応接室である。その他の部屋は一般的な家庭・・・よりも少々お母様の趣味が強くでて、可愛らしい配色かつ細工を施した仕様になっていて、とてもじゃないけどお客様をお通しするような気にはなれない。
低いテーブルを囲むように、二人がけのソファーがふたつと、一人がけがふたつ。お父様とお母様が並んで座って、対面する黒髪軍服の男性。その間の一人がけのソファーに収まる私。
こうして奇妙な対談の場が出来上がった。