プロローグ ハジマリの時間
世界がオレンジ色に染まる。黄色と赤色が入り混じり、見ていられない。手を差し伸べてくる彼女に対して、私は何もできない。もう手遅れだ。
「ごめんなさい」
私はひたすら誤り続ける。謝ったって無駄なことは分かっている。そんなことをどれだけ続ければいいのだろう?私は彼女をそっと眠りに就かせる。私の手や顔がオレンジ色に染まる。胸の後がズキズキして痛い。未だにこれは慣れない。いや、慣れてはいけないのだ。
私は眠りに就いた彼女を見届けると、走り出す。もう一度、新たな物語を探し出す。あの丘の、あの人のところに向かって。周りはあれで溢れかえっている。道路一帯がオレンジ色になる。息を切らしながらも走る。止まってはいけない。この人たちはどうせ、助かりなどしないのだから…。
「あの子生意気じゃない?」
声が聞こえた。誰が…いや…私がそう言われている。私の悪口を言う相手は、いわゆるギャルって感じの人達だ。雫が垂れるように切ない気分になる。何だろうこれ…?私は考えた。こんな記憶、私の中には存在しなかったからである。
ちょうど私は…。あれ?何していたのだろう?
「やめなよ!そんなことするの!」
一人の少女が私をかばう。この人はどうして私なんかをかばうのだろう?私なんかをかばえば、巻き込まれることは目に見えているというのに。私は客観的にそう感じた。しかし、彼女の目つきからは本気さが伝わる。彼女は額から汗を流している。本当は怖いと感じているのである。
「あんた!こっちいくよ!」
私の手を引っ張ると、彼女はいじめ子集団に向かって睨みつけてから教室を後にした。私は彼女に引っ張られて前に進む。どこに向かっているのか分からないが、教室から離れようとしていることだけは分かった。
いつのまにか彼女に連れられて、私は南棟の一階のトイレまえまで来て止まった。
「大丈夫?」
彼女は私にそう言った。だが、私は彼女の質問には答えず逆に質問を返した。
「どうして?どうして私を助けるの?」
「助けちゃ、ダメだった?」
彼女は少し困った顔をして、私のかすかな声に答える。私は、彼女の返答に対して意外性を感じた。こんな人を今まで見たことなど無かったからだ。
「どうしてよ!」
私は叫んだ。彼女は一瞬驚いたようであったが、構わず続ける。
「わたしなんかを助けたら、あなたまで巻き込まれるじゃないの!」
彼女はやっと意味を理解したらしく言葉をはさもうとする。
「そんなこと、関係…」
「関係なくなんかない!」
私はバカだ。助けてもらっておいて、手を差し伸ばしてもらっておいて…。本当に大馬鹿者だ…。
「こんなみじめで、ガリ勉で、かわいくもなくて、クラスからも省かれて、友達もろくにいなくて、他人を大事にできなくて、こんな最悪な私を助けたところで…!!」
“バシン!!”
廊下中にその音が鳴り響く。エコーのように音がはねかえってきた。
いたい…。
頬がジンジンする。私は一瞬、なにが起きたのか理解できなかった。ただ赤く染まった頬を両手で抑えた。痛みが感じたことで、私は正気に戻った。
「もっと自分を大切にしなよ!」
私を叩いたのは彼女だった。彼女は叫んだ。さっきまで自分をけなしていた事に対する怒りがあらわれたのだろう。
「そうじゃないと…そうじゃないと…」
私は呆然と彼女の言葉が胸に突き刺さる。彼女は私の前で崩れ落ち泣き出した。私は呆然と立っていた。ただ呆然と…。
私は目の前がその時まで灰色に見えた。色が白黒していた。でも…。
この瞬間、私の目の前の色が変化した。廊下の白色。夕日の赤色。すべての色が鮮明に見えた。何かが変わった気がする。世界が変わった。いや…。正確には私自身が変わったのかもしれない。
私は記憶にないはずの想い出に涙した。
なぜだろう?涙が出てきた。
”ガンっ!“
いた!
強い衝撃が脳裏に走る。痛さが身に染みて私の目から涙がこぼれてくる。いたいなぁ…
「って、……え?」
目を開けると、視線の先に白衣姿の女性が飛び込んできた。すごくあたふたしている。
えっと…、なにをしていたのだろう?
「だっ…だいじょうぶ?」
白衣の女性はそう慌てながら私を気にかけてくれている。何が頭に当たったのかというと、その女性の名簿や教科書のようなものだった。どうやら、私がいることに気が付かず置いたようだ。
机を見ると、そこには大きな水たまりができていた。
「わっ!」
私は動揺しながらもハンカチを出して急いで拭いた。白衣の女性はその後も私を気にかけてくれた。
今日も太陽の光が差し込む。その日差しに対して思うことは、ただ暑いという一言だった。暑すぎて何も他に言葉が出ない。私は手を太陽にかざす。それでも指と指の隙間から日が差し込み眩しい。
九月下旬の日。私潮風渚は今、高校二年生だ。だと言っても私には少しながら諸事情がある。でも、高校二年生であることは変わらない。
変わらないのである…。
世界は色で満ちている。赤、青、黄色。他にもいろいろな色で満ちている。空に海に山にこの大地に、色は、満ちている。どんな物にだって色がある。もちろん人のこころにも…。
しかし、私にはそんな色が欠けていた。理由はなんとなく理解できる。でも、その色が一体どんな色なのかは知らないのだ。人は迷うと色が欠ける、とはよく聞くフレーズだ。世界中のみんなは常に迷ってばかりで、迷いがない人なんてこの世に一人いるかわからないかの程度だというのに。私はそんな人になりたかった。だけど、どうしたらなれるのか分からない。そうして自分が迷っているのかすら分からない。理由が分かるのに解決策がない。
私はこうして生きていく。今までも…これからも…。多分。
「いったぁ~い…」
私は頭を抑えながら、呟く。さっきの衝撃は相当のダメージだ。
「ご…ごめんなさいね」
女性は私が大丈夫だと言ってもまだ気にかけてくれる。白衣を着て、眼鏡をかぶっているその女性は、私に対して申し訳なさそうにしている。
「どうしてあんなところでねていたの?」
彼女が質問してきたので、一瞬考えて思い出した。
「あっ…そういえばうづ先生を待っていたのに来なかったから、そのまま寝てしまったのですよ。私は時間通りに来ましたが…」
私があとに付け足した言葉が、うづ先生には相当ショックだったらしい。
「そ…それは…悪かったけど…。でも寝ていちゃだめでしょ!」
彼女は一瞬あたふためいたが、すぐに切り替えてニヤリと笑ってこう言った。
「寝るならベッドを使ってね?渚さん」
そういう問題なのだろうか?今更かもしれないが、私の名前は潮風渚と言う。どうもこうも、私の性分に合わない名前はそうそうない。だから私は、この名前はあんまり好きになれない。
対して目の前の女性の名前は河瀬宇月。愛称はうづ先生。保健室の教員だ。学校でのその人気は絶大なものなのだが…。
私はそんな先生に思う節がいくつかあった。例えば、天然ボケが甚だしいのだが本人は全く気づいていないという所だとか。それに…。
「うづ先生」
「何?」
「潮風の方で呼んでください。渚とは呼ばないでください」
私はそっぽを向きながらそう言った。少しながら小さい声であったが、うづ先生は聞き取ったらしく私の言葉に答える。
「いいじゃないですか。私なんて、宇月なんて名前なのですよ!それに比べたら渚さんは可愛い名前じゃないですか。それに――」
うづ先生は椅子を立つとジャスチャーをしまくり熱演しそうになったので止める事にした。このままほっといたら夕方まで続きそうだからである。
「落ち着いてください、うづ先生」
私は冷静な声で注意を促す。
「え…えっと…」
うづ先生の話し口調が行き詰っている。この先生はわざとやっているんじゃないの?とおもうことがあるほどの天然ぶりだ。うづ先生は毎回のように遅刻するし、言葉のあやふやが異常に多くて、一時に待ち合わせした生徒の話によると、夜中の一時に来る人だから相当の天然ぶりである。こんな人でも教師になっている現代社会に疑問を持ちたいところだ。
それよりも…。
「検査、始めないのですか?」
「あっ…。そうだわ、そうそう!」
うづ先生は思い出したらしく、荷物が入った籠を取り出し、中から書類の束とペンを取り出した。顔をこちらに向け口を開く。
「それでは、検査を始めますね」
そう言うと、笑みをこちらに見せ、いつも通りにうづ先生が質問してきた。私もいつも通りに質問に答えていく。
検査はだいたい十五分ほどで終わる。いつも変わらないことしているとさすがに慣れてくる。いつまでこんなことをしていればいいのだろう。そんなことは分からない。だからこうして今も検査している。
今回の検査はいつもより短く、十分ぐらいで終わった。途中、うづ先生が書くときに間違えてしまったらしく、修正液を使えばいいのに慌てていたことは見なかったことにしよう。そのせいで、最後の三分間はうづ先生が戸惑って全く質問が進まなかったことも。逆にこちらが心配するほどである。顔を赤くして何かを言っていることは分かるが、あれは日本語なのかどうか質問したいほどだ。
「ご…ごめ…ごみんなさい」
最後の最後に噛んでしまったらしく余計にはずかしい。これでも、うづ先生は人気があるのだから、本当によく分からないところである。
「先生。失礼しました」
私は慌てている先生を放置して、保健室を後にした。私には行くところがある。自分の気持ちをさっぱり流してくれるところ。廊下を早足で歩く。夕日が差す校舎を私は進む。まだ下校していない生徒や部活動をしている生徒の声がする。
私は階段を駆け上がる。みんなの居る場所へ…。