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かそけき悪癖ジュブナイル

 世の中は気になる何かで溢れている。

 それは同時に、俺の人生が地獄クソゲーであることを表している。

 気になる何かは、例えばアシンメトリーなバランス。

 例えば、不揃いなリンゴ。

 例えば、納得の出来ない不条理。

 例えば、日常に紛れ込んだ小さな謎。

 そして小さな謎は、不条理は。

 解明しなければ、いつまで経っても気になって仕方がない。

 死ぬほど、気になる。

 至極、当然のことだ。


     ●


 高校生活最後の夏休みがすぐそこまで迫っていた。朝っぱらからギラギラと照りつける太陽にやかれて汗が噴き出しながらも、俺の身体は抜けきらない眠気の浮遊感に欠伸を漏らす。アパートを出たのは六時頃か。一人暮らしながらよくもまぁ毎日寝坊もせずに起きられるものだ。今日も睡眠不足である。自分を褒めてやりたい。


 まだまだ惚けている頭を必死に覚醒させながら、俺は緊張感たっぷりに本日何度目かの通学路を征く。家から学校までは徒歩三十分いくかいかないかぐらい。しかし、すでに玄関を出てから二時間ほど経過していた。


 現在時刻、朝八時丁度。遅刻ギリギリだ。


 どうしてこんなに通学に時間がかかっているのか。それは、同じ制服を着て同じ高校に向かう生徒を横目に、俺は今日も人知れず通り行く先々で戦いを繰り広げているからだ。


 そう、戦い。


 俺、又川峰次またがわみねつぐの人生とは、常に世界と戦ってきた——そんな壮大な物語に等しかった。



 階段は常に右足で最後の一歩を踏む。右手で触れた物は必ず左手でも触れる(逆もまた然り)。横断歩道は白いところだけ歩く。信号は点滅する前に渡り切る。校門に着くまで一歩も立ち止まらない。でも決して走らない。そしてそのどれか一つだけでも失敗してしまったら、玄関に戻って始めからやり直し。ふりだしにもどる、という奴だ。


 こんな無意味だとわかりきっている戦いを、しかし俺はやらずにはいられない。どうしてもこれをこなさなければ、一日を安らかに過ごせない気がしていたから。


 まあ、端的に言ってしまえばほとんどビョーキみたいなものだ。



 そしてそんな魂の救済を求める俺はもうすでに三回、ふりだしに戻った。すべて青に変わってから点滅するまでの間隔が嫌に短い信号のせいだ。こいつがいなければ今までの高校生活二年ちょい、もう少し気楽に登校出来ていたことだろう。


 おかげで毎朝五時起きだ。神様——あるいは信号の設置を決めた行政機関は残酷である。


 ……っ、っ、…………っ、おっ、……ははっ。


 ギリギリセーフ。根性なしの信号機野郎は俺が歩道に踏みいると同時に点滅し始めた。

 ここを超えればあとはもう楽勝だ。どうやら今日も無事、遅刻せずに教室へたどり着けそうだった。


     ●


 ホームルームを告げる予鈴まであと五分といったところか。俺と同じく遅刻寸前の生徒達が慌ただしく校門へと吸い込まれていった。校門の前ではジャージを着た体育教師が腕時計と睨めっこしながら、通り抜ける生徒達とまばらに言葉を交わしていた。ご多分に漏れず、俺もまた教師に向かって挨拶する。


 おはようございます。


「…………」


 はぁ。学校の敷居をまたぎながら、軽く溜息をつく。声が小さかったのか、思いっきり無視されてしまった。まぁ、元から影が薄いキャラクターで小学校からやってきた俺にとっては日常茶飯事である。もう慣れっこになった教師の態度にこちらも愛想を尽かしつつ、だらだらと下駄箱へと向かった。


 ……ああ。

 そしてその道すがら、今日も目にしてしまう。

 困難にまみれた通学路をクリアしてきた俺の達成感を邪魔する物を見つめてしまう。

 もはや目にしなければ落ち着かないレベルにまで日常に刷り込まれてしまった光景——俺にとっての世界の歪み。それは校舎の左側にそびえ立つ、煤けた薄茶色の旧校舎。


 そのてっぺんに位置する大時計の針は、今日も十時を指していた。

 誰か直せよ、くそったれ。



 現在は立ち入り禁止になっている旧校舎。

 丁度一年前にこの新校舎が完成したのだが、取り壊しの予定は立っていないようだ。なんでも鉄筋コンクリート製の旧校舎はまだまだ使う余地があるだとかで、電気も水道もまだ通っている状態。理事長は緊急時の避難場所か、児童施設として他団体に提供する考えを示していた。結局まだ引き取り手は見つからずに今日に至るわけだが。

 その考えは大いに結構、世の中に貢献する素晴らしいアイディアだと思う。

 しかしあの時計はいただけない。数ヶ月前からだが、それまで順調に時を刻んでいた大時計が突然二時間ずれてしまったのだ。あのサイズともなるとその「ズレ」は目立って仕方がない。ゆえに何度か時計を調整する動きはあったのだが、翌日には元鞘に収まってしまうため、いつしか自然と放置されるようになってしまった。

 維持費用がかかっているから修理費用を出すのが難しいだとかで、結局あの時計は今日も律儀に二時間先を指し続けている。


 ぐだぐだか。


 完璧な日々を追い求める俺にとって、あの旧校舎は目の上のたんこぶだ。毎日毎日、安らぎを手に入れた俺を見下ろしやがって。そりゃ気分も憂鬱になる。影だってますます薄くなるし、体育教師に無視されるのも全部あいつのせいだとすら思える。

 鬱屈した錨を胸に下ろしながら、淡々と二階にある三年生教室を目指した。


     ●


「おはよっ」

「……ああ、おはよ」


 開けっ放しになった教室後方の引き戸をくぐると、一番右後ろの席に座る生徒がいつも通り快活な笑顔で声をかけてくる。うん、清々しい。


 香乃岸かのぎしゆかり——俺と同じくしてあまり目立たない系の女子生徒だ。長いストレートの黒髪がさわやかに揺れていた。

 今日も見目麗しい。そのぱっちりと開いた大きな瞳にはじまる整った顔立ちは美少女と言って差し支えないだろう。彼女だけがこの最低な朝を爽快にしてくれる唯一の女神だった。そして俺の唯一の友人でもある。影が薄い同士で気が合ったというか、まぁそんな感じだ。又川峰次の冴えない人生における数少ない潤いがここにある。


「ねぇねぇ」


 隣の席に腰を下ろすと、香乃岸は声を潜めながらこちらに「ずい」と身体を寄せた。

 良い匂いがする。


「今日もズレてるね」

「……ズレてるな」

「気になっちゃう?」

「そりゃ、もちろん」

「だよね、だよね」


 そしてルーチンと化した会話を交わして、二人で笑う。ズレているというのはもちろん、件の旧校舎の大時計についてだ。どうやら彼女も少なからず俺と同じ悪癖を抱えているらしく、二人してズレた時計に悪態をつくのが恒例となっていた。


「あたしはもう慣れてきちゃったけどねっ」

「なんでだよ、慣れてたまるかよ。あんなもん俺にとっちゃ公害みたいなもんだ、悪だ悪」

「あはは、相変わらずっすなーホージは」


 ホージというのは言うまでもないが俺のあだ名だ。峰次を音読みしただけのシンプルな呼び方で、響き的に「法事」を思い出すからあんまり気に入ってはいない。だが香乃岸が気に入っている様子なので別に止める気もなかった。

 俺をあだ名で呼んでくれる奴なんて彼女ぐらいだからな。べ、別に美少女にあだ名呼ばれたくらいでニヤけてねえし。勝ち組とか思ってないし。


「いやーしかし、今日も眠そうだねキミは。どする? 寝ちゃう?」

「あー……ううむ」


 確かに眠い。健康な男子高校生には朝五時起きというのはどうしても無理があるといえる。いくら太陽の日差しに身を焼かれようと、この眠気に勝つのは至難の業だ。


「寝るんだったら、あたしノートとっとくけど」


 だから、香乃岸の提案は本当に有り難かった。多少の罪悪感に後ろ髪を引かれる思いで、俺は頭を下げる。


「すまん、今日もいいか」

「おっけー! まっかせときなさいっ」


 彼女は控えめな胸を控えめに叩きながら任されてくれた。誇らしげな香乃岸の顔にこちらまで笑顔になる。

 ほんと、彼女がいなかったら俺の学校生活はあらゆる意味で成り立っていない。どうしてここまでしてくれるんだろう、と疑問に思わなくもない。だが、なんとなくそんな疑問を口にするのは野暮なことのように思えた。


 香乃岸ゆかりの優しさに感謝しながら、俺は眠りにつく。

 教室に飾られた花瓶。そこにささった名前も知らない花が、ひらりと揺れた。


     ●


「やっぱり、どうしても我慢できない」


 その放課後。夕暮れで赤く染まった校門の前で、俺は意を決して香乃岸に言う。それを聞いた彼女は不思議そうに首を傾げて眉根をひそめた。俺の言葉を吟味しているようだった。


「気になるって、なにが?」

「俺が気になるって言えば決まってるだろ。旧校舎だよ」


 やはり、どうしてもこの問題は捨て置けない。


「ええ? ホージってば気にしすぎだよ。だってもうすぐ夏休みだよ? そしたら旧校舎なんて見なくて済むんだから、もう少しの辛抱だと思うけどなー。それにもしかしたら休みの間に時計、直ってるかも知れないよ」


 確かにもうすぐ夏休みに入ることだし、しばらくあのズレた時計と会わなくて済むというのはそれだけでも価値のあることだ。しかし、だからといってその一時の安堵に身を任せて放置していい問題だとは思えなかった。


「夏休みが明ければどうせまた気になるんだ。それに今まで放置されていた問題がたかだか一ヶ月やそこらで解決されると思うか?」


 答えは否だ。

 あの旧校舎の引き取り手が見つかれば、腰が重たい理事長も本格的に時計の修理へと踏み出すかも知れない。しかし、一年以上も施設再利用の目処が立っていないとなれば、夏休み中に時計が元通りになるという望みは限りなく薄い線のように思えた。宝くじの一等に当選するよりも可能性が低いように思える。


 ……それはつまりほとんどゼロってことだ。


「だとすれば、俺達で解決してやろうぜ。時計がズレている理由——そして修理しても直らない——その謎をさ」


 どうして一般生徒がここまで旧校舎にこだわるのか、普通だったら疑問に思うことだろう。だけど、俺にとっては一大事。日常が地獄であるか、平穏であるか……あのズレた時計は、その境界を左右しうる俺の人生をクソゲーにする最悪のバグだ。

 バグは直さなきゃならない。

 だからこそ、藁にも縋る川流れの河童のような思いで、俺は彼女に提案している。


 香乃岸だけが、俺の理解者だった。自分でさえおかしいと思う、不条理への偏執に彼女だけが理解をしめしてくれた。だから、彼女が一緒にいれば、すんなり時計の謎だって解決してしまうかも知れない。彼女と一緒なら、なんでもできる。そんな気がして、俺の中にある期待感が膨らみ続けていた。


「だから頼む。香乃岸、俺の心の平穏のために……っ」


 いまから言おうとしていることがあまりにも子供っぽくて、そしてエゴの塊であることを隠そうともしていなくて、思わず俺は言葉を喉に詰まらせた。

 香乃岸は黙ってそんな俺の言葉の続きを待っている。まっすぐに、俺を見つめていた。


「……い、一緒に戦ってくれないか」


 夕暮れというシチュエーションも手伝ってか、女の子を目の前に吐き出した言葉はまるで愛の告白のようで、思わず俺は香乃岸から視線を逸らした。

 返事を聞く前に逃げ出したい。本当は時計のズレなんてどうでもよくて、俺はただ彼女と一緒にいるきっかけを作りたいだけなのかも知れない。それは言い過ぎか。ズレた時計などこの世から須く消滅させなければならないと常々思っている。

 ——なんにせよ、だ。

 俺は、香乃岸ゆかりという人間の可能性をもっと近くで感じてみたかった。


「ど、どう、でしょうか」

「んー……ふっふっふ」


 変に改まってしまった俺に、香乃岸はなぜだか勝ち誇ったように微笑んだ。

 そしてローファーを履いた踵を中心にくるりとこちらに背を向けて、言う。


「乗り気じゃないなあ」

「……うおー」


 がっくりと肩を落として、隠そうともせず落胆してしまった。まぁそりゃそうだ。香乃岸ならこの話に乗ってくれると思っていたが、そもそも彼女自身「時計のズレに慣れてきた」と今朝聞いたばかりじゃないか。


「でも、そこまでホージが言ってくれるなら……」


 香乃岸が踵を返してゆっくりと振り向いた。彼女の身体の動きに合わせて、少し長めのスカートがふわりと膨らむ。


「……いいよ」


 そして少しだけ頬を紅潮させて、香乃岸ゆかりは開きかけた花のようにはにかんだ。

 俺の顔は、きっと真っ赤だった。



「もう下校時刻だぞ、帰れ帰れ」


 笑い合う二人の間に無粋にも物理的に割って入ってくるのは、校門前に立っていた教師だ。朝もそこで腕時計と睨めっこしていた、あの体育教師だった。


「はーい、すみませーん」


 思いっきり顔に不満を浮かべる俺とは違って、香乃岸は気分を害された様子もなくその体育教師に返事した。

 この状況でよくもまぁ明るく対応できるものだ。器がデカいというか肝が据わっているというか、とにかく世渡り上手な奴だ。こういうところが、コミュ障の俺と根本的に人間が違うと改めて思い知る。


「不審者が出るかも知れないから、これからは友達と帰るんだぞ」


 ちょっと、失礼じゃないですか。

 どうやら俺はこの教師に嫌われているらしい。俺は友達に見えねえってか。友達同士の会話に割って入るアンタこそよっぽど不審者だよ。


「生徒が事件に巻き込まれて行方不明とか、まずいからな」

「はぁい」


 言葉を重ねる教師に向かって香乃岸は行儀良く一礼した。そして「行こ」と俺に囁いて、歩き出す。

 ああ、行こう。

 これから俺達は旧校舎の大時計修理に向けて動き出さねばならん。こんな失礼極まりない悪質教師に構っている暇などどこにもなかった。


     ●


 翌日の夜、午前零時過ぎ。難なく家を抜け出せた俺は母校の門の前でぼやいていた。

 旧校舎の時計の謎を解明するとこの校門前で決めた俺達は、次の日に旧校舎の侵入を実行に移した。気になることはさっさと済ませた方が良いと言い出したのは香乃岸の方で、そういう「気になることへのこだわり」は俺以上に病的だと思う。

 思い立ったが吉日か。


「もー! ホージったら遅いよっ。またやってたのいつものアレ!?」

「……んーあーすまん、ホントにスマン。またやってた」


 待ち合わせに遅れるとは男児の恥である。何を隠すこともない、俺はここに来るまでにいつも通りの自分ルールを適用させただけだ。走らない。横断歩道は白いとこだけ。信号は点滅前に渡りきる。出来なかったら、やりなおし。そういうこと。

 まったく弁明の余地もないが、これだけはやり通しておかないと落ち着くことが出来ずに探索どころじゃないだろう。


「——そのボストンバッグ、なんだよ。大げさだな」


 とりあえず遅刻から話題を逸らすために適当な話を振る。彼乃岸は方から大きな白いボストンバッグを提げていた。野球部とかがもってそうな奴。


「ええー? そりゃまぁ、必要になると思って色々持ってきたんだよ」

「そうかそうか……それは頼もしいこった」


 たかが旧校舎の探索にそんなに必要になる物があるとも思えないけどな。もしかしたら彼女は旧校舎を出たあと山にでもいくつもりなのかもしれない。


「……それで、なんで夜なんだ」

「なんでって言われても」


 彼乃岸はなんでそんなことを聞くのか分からない、と肩を竦めながら続ける。


「忍び込むなら人がいない時間帯と相場は決まってるでしょ?」

「…………まったくもってその通りなんだが……」


 周囲を見渡す。塀を隔てた向こう側に旧校舎が見える。鉄筋コンクリート製で見た目にはまだボロさを感じないとはいっても、どうしても夜間の校舎というのは不気味な物だ。旧校舎どころか、俺達が普段使っている新校舎の方ですら妙な威圧感を覚えた。

 オーラというかなんというか。

 堅牢な建物のはずなのに、紙切れを貼り合わせて作られた頼りない箱のような。それでいて、その中でなにかよからぬものが蠢いているような。

 十日間放置したゴキブリホイホイを覗くような本能的恐怖感がある。


「なぁ知ってるだろ、俺はこういうの苦手なんだよ……なんだ、幽霊でも出そうというかな」


 ちなみにゴキブリを始めとして虫類全般も大の苦手だ。


「……へえ? ホージがホラーNGなんて知らなかったなー。かっこわりー」

「なにを白々しく! さんざっぱら話しただろうがっ」

「いやーでも実際にホラーと直面したキミを見るのは初めてだよっ。ひひひ」


 ホージなんて名前なのにね。香乃岸はけらけらと鈴を転がしたように笑う。なにがおかしいのか俺にはさっぱり理解出来ない。おおかた「法事なのに」という意味で使った言葉なのだろうが、そもそもこのあだ名で呼ぶ人間は彼女しかいないし、俺の名前はミネツグだ。


「んで、なんでキミは制服なわけ?」

「え、だってほら、学校に来るなら制服だろ」


 それが世の中のルールだ。他の人間ならいざしらず、俺が学校に来るときに私服着用を義務づけられてしまったら俺はどうなる? 旧校舎の時計以上に俺の人生を狂わす致命的なバグとなるに違いない。ああ、考えるだけで恐ろしいぞ。


「あはは、ホージらしいね!」


 そういった彼女は、律儀に制服を着た俺と違って私服姿だった。シンプルな白いワンピースが月明かりを受けて、なんだか彼女の身体が淡く発光しているように錯視する。それこそ幽霊みたいだなと、そう思った。あれ? そもそも幽霊って光るのか?


「でもこれ、デートだとしたら相当だっさいなーぁ。制服デートなんていまどき流行らないんだよ? どん引きだよっ」

「で、でーっ!?」


 で、でーっ!?


「デートだったのかこれ!?」


 やばい、そんなこと言われたらもう止められない。意識し始めたらこの状況がとてつもなくデート的アトモスフィアに充ち満ちているような気がしてきた。目の前にあるのは無機質な校舎だけでムードもへったくれもないのだけれど。

 泳ぎすぎる視界がぐらぐらと揺れていた。


「あはは、声おっきいよっ。デートだとしたらって言ったでしょ! もーホージってば」


 香乃岸は茶化すように俺の肩を軽く叩いた。そのあと彼女はそっと俯いて、聞き取るのがやっとの音量でささやかに呟く。


「でも、別にデートで、いいんだけどね」

「……」

「ちょ、ちょっとやめてよキミ顔真っ赤じゃない、こっちまで恥ずかしくなるって……」

「……す、すまん」

「いえいえ、こちらこそ……」


 妙な空気だ。又川峰次の人生において、女性と夜に二人きりなんてシチュエーションは皆無だった。初めて味わう経験の蜜の甘ったるさに身体が硬くなる。

 そんな俺の緊張を察したのか、香乃岸は腰に手を当てて一息つくと、


「ま、デートだと思えば今回の『探検』も少しは怖くなくなるんじゃない?」


 そんな風にこの空気を締めくくった。うん、有り難い。


「ほら、お化け屋敷に入ると思ってさ!」

「だからそのお化け屋敷が苦手なんだって……」

「ふっふっふ、男を見せてもらうぜよ」


 何キャラなんだよ、それは。


「それととりあえず、今度デートに制服着てくるそのセンスは直してあげる。一緒にお着替えちまちょうねえ?」

「だから何キャラなんだよ、それは!」


 妙に腹が立つからやめてくれ。


     ●


 しかしこの計画は早くも暗礁に乗りかかっていた。

 当然といえば当然なのだが、立ち入り禁止の旧校舎には鍵がかかっている。こんな時間だ、旧校舎どころか新校舎——ひいては世にある学校という学校はこんな時間鍵がかかっていて当たり前だというのに、どうしてこの可能性に思い至れなかったのだろうか。


「どうすっかね」

「うーん、どうしよっか——」


 これも当たり前だが、至極一般的な高校生の俺がピッキングなどという高等技術を身につけているはずもなく、頑なに来客を拒む旧校舎の扉の前に為す術も無かった。

 まるっきり立ち往生じゃないか。ただでさえ高校生男女二人がこんな時間こんな場所に立っていること自体不自然きわまりない。早々に目の前の扉とは別のルートを導き出すか、そうでなければ諦めることを強いられていた。このままでは俺も香乃岸も仲良く補導まったなしである。むしろこんな状況で捕まらなければおかしい。警察機関の無能さを感じてしまうくらいならば補導して欲しい。

 警察は警察の仕事をしてもらわないとモヤモヤは溜まる一方だ。法治国家日本の治安を証明するための礎になれるのなら、俺は喜んで補導されようじゃないか。


 まぁ、捕まらずに旧校舎に侵入出来るのが一番というのは変わらないのだが。自分でもいまいち二律背反なこの感情が理解出来ずにいる。捕まりたくないが捕まりたい。ああ、俺は一体どうしたいというのだ。


「——なんちゃって」


 頭を抱えて悶絶していると、香乃岸は悪戯っぽく微笑んでチロリと舌を出した。がちゃり。

 解錠を告げる金属の悲鳴が静かに響いたのは、その後すぐだった。


「開いた? どうして?」


 突如として目の前で行われた奇術に理解が追いつかなかった。あまりにもあっけなく、そして鮮やかに香乃岸は旧校舎の玄関をゆっくりと開け放つ。


「い、一体どんなマジックを使ったんだよ。種も仕掛けもわからなかったぞ」

「へへ。種も仕掛けもございませんよーだ。ほら」


 自慢気に彼女が右手に持っている物を晒してきた。


「かっ……ぎ……って! 香乃岸、それどこから!」


 確かに種も仕掛けもない。彼女が持っているのは紛うとなき鍵だ。


「ふっふっふ。こんなこともあろうかと事前に職員室からかっぱらって合い鍵を作っておいたのです。やるでしょ?」

「やるでしょって……そりゃお前」


 普通に犯罪じゃねーか! しかしそれを言うなら、そもそも旧校舎に忍び込むこと自体立派な不法侵入だ。ゲーム感覚で捉えるならダンジョンに至るためのキーアイテムを確保するのは当然のことで、そう考えれば香乃岸の合い鍵作戦は理に適っているというか。

 むしろこの状況ではファインプレイの部類に入る。ここは素直に彼女の勇気に感謝して受け入れるとしよう。もってくれ、俺の良心。


「しかしいつの間に……ぬかりも抜け目も油断も隙もないな」

「せやろっ」


 彼女のどや顔が眩しい。頼もしすぎて男である俺の立つ瀬がなかった。



 香乃岸がいなかったら詰んでいたなぁ、としみじみ感慨に浸っていると、彼女は躊躇うことなく下駄箱が並ぶ玄関内へと踏み込んだ。慌てた俺も追って中へと入る。もちろん、開けた扉は彼乃岸が静かに閉めている。

 入った瞬間、室内の匂いがつんと鼻をくすぐった。


「なんか、懐かしいな」

「……うん、そうだね」


 新入生の時はまだこの校舎は現役だった。新校舎の建設はすでに始まっていたけれど、それでも一年弱過ごした学舎に変わりはない。不思議な安心感に包まれて、不法侵入に対する罪の意識など吹っ飛んでしまった。目が、耳が、鼻が、この場所を「懐かしい」と言っている。ようやく還るべき場所に戻ってこれたような気分だった。


「いやでも」


 だがしかし。いくら罪悪感が失せたとはいえ夜の学校だ。安心感をものともしない恐怖が背筋を駆けずり回るのはどうしても止められない。


「……あのね、ホージ」

「な、なんだよ改まって」


 夜の学校に情けなくも怯えている、その時だった。下駄箱で立ち止まる俺に向かって、香乃岸が真面目な顔で切り出した。


「ずっと内緒にしてたんだけど」

「あ、ああ」


 彼女は自分の肩を抱くように身をよじらせて続ける。


「あたし、実は霊感があるんだよね……さっきから浮かばれない幽霊の存在が……」

「ば……っ、馬鹿やめろよこんな時に!」


 ただでさえめちゃめちゃ怖いのに、そんなこと言われたら俺はどうすりゃいいんだ。額に汗が浮かぶのが解った。やばい、今すぐ逃げ出したい。


「————ぷっ」


 わずかに震える俺の肩をばしばしと叩いて、こらえきれなくなった彼女が別の意味で肩を震わせながら笑っていた。


「あははは! 効果テキメンっ」


 ……は?


「ジョーダンだって! ホージってばホントにダメなんだね、可愛い!」

「…………いやほんと、冗談じゃねえよ……」


 こんな状況で可愛がられてもなにも嬉しくない。いや、冗談だって解ってたけどね。


「ひー、お腹痛いよーっ」

「く、くそ! いいから行くぞ、こんなとこで立ち止まってると外から丸見えだ!」


 我慢できずに俺は下駄箱に靴を入れて、靴下のままずかずかと廊下に出る。


「ああごめんごめんって、もうふざけないからさ! こんなとこで一人にしないでって!」


 すぐに後ろから香乃岸が追いかけてきた。正直な話、一人にしないでというのはこっちの台詞だ。夜の学校を一人で探索するなど我が人生においてあってはならぬ。ならぬのだ。



 二人で旧校舎の廊下を征く。一階は職員室や保健室、音楽室といった特別な部屋が並んでいた。人の出入りがないとは言え、どの部屋も扉は開けっ放しになっている。点検のためなのだろうか? そんなことを考えながら、肩を並べてゆっくり歩いていた。

 二人とも靴を履いていないから、冷たく硬い床の感触が音もなく足の裏に返ってくる。


「その、ありがとな」


 床の感触をここちよく楽しみながら、俺は香乃岸にぽつりと漏らした。


「へ? どしたの急に」

「——一人だったら間違いなく引き返してた。あと、香乃岸の冗談のおかげで少し気が楽になったよ」


 彼女が笑い飛ばしてくれたおかげで、校内に入ったときよりも数段、心も体もほぐれたような気がした。


「ああ、そんなことならいいんだよ。あたしも怖かったしね。でもあれで決心着いたから」

「……香乃岸が? 意外だな」


 怯える俺を馬鹿にしていた彼女が、幽霊を怖がっているとは思わなかった。

 むしろ香乃岸なら怖がるどころか喜々としてお化け屋敷に入っていくイメージがある。


「そりゃそうだよ、女の子には怖い物たっくさんあるんだから」

「ふうん、そんなもんか」

「うん。だからお互い様っ! あたしもホージがいなかったらこんな体験しようと思わなかっただろうし、あたしもキミに感謝してるのだ」

「……おう」


 にひひ、と彼女は笑う。香乃岸が初めて見せる弱気な笑顔は、どこか刹那的で。

 放っておいたら、笑顔だけじゃなくて彼女自身が消えてしまいそうだった。



「さて」


 廊下の突き当たり。二階に上がる階段まで来てそう言ったのは香乃岸だ。


「どうしようか?」

「え? 時計のズレを直しに行くんだろ?」

「うん、それはいいんだけどさ。ホージは、どこで時計をいじるかなんて知らないよね?」

「…………あー」


 言われてみればその通りだ。なんとなく歯車うごめく大げさな隠し部屋があるような漠然としたイメージを持っていたけれど、そりゃ想像過多というか、夢の見過ぎだ。どこかの部屋に設置された操作盤で調整するというのが妥当な線だろう。

 まさかあんな巨大な時計が壁掛け時計になっているということもあるまい、どこかに必ず時刻を合わせるための機械的な——あるいは電子的な——制御装置があると考えるべきだ。


「盲点だった」

「はぁ、先が思いやられるねぇ」

「香乃岸こそ、なんか手がかり知らないのかよ」

「うーん……」


 情けないことに、またしても俺は彼女に頼りっきりの姿勢を見せてしまう。職員室から鍵をくすねた行動力を見せられた俺は、どうしても彼女に期待してしまうのだ。謎を解明するためにためらいなく行動を起こす彼女ならば、なにか有効な手がかりを見つけられるのではないかと。


「もう、しょうがいないなぁキミは」


 その期待感たっぷりの視線に気付いた彼女が、口元をとがらせながらそう言った。


「はは。面目ない」

「どこかで汚名返上しなきゃだよー。もー……」


 呆れた声を出しながらも、香乃岸は腕を組んで考えを巡らしてくれているようだった。俺も一緒に考える。

 時計。外。調整。針。校内。操作。考え得る単語を頭の中に並べて立てて、可能性を探っていく。

 そして、おぼろげながらヒントみたいなものが思考の渦の中心から顔を出した。


 まるで自信がないが、思いついたなら意見は共有すべきだ。呟くように俺は言う。


「例えば……だけど」

「お! ホージがなにか閃いた!」


 嬉しそうに彼女が跳ねる。しかし閃いたと言うほどのことでもない。

 これがゲームだったら、『トラップ(時計)』から遠くない距離にそれを解除する仕掛けが置いてあるはずだ。


「やっぱり、電子制御にせよ機械制御にせよ、そんなに離れた場所には設置しないと思う。あんな大きな時計で、更に中からは見えないんだ。調整する以上、連絡の取りやすい場所が有力なんじゃないか」


 まぁ現実はゲームではないし、そんな簡単にいくようなことでもないのだろうが、言葉に出しながら「あながち的外れでもないな」という感想を自分で抱いていた。

 調べてみる価値はある。


「おお、なるほど!」

「だから、時計近くの校内から調べてみよう」

「やりゃ出来るじゃない! かっこいいね! 汚名返上だねっ」

「……いや、それほどでも」


 香乃岸に——というより、他人に褒められるなんていつ以来だろうか。彼女の言葉が俺の髪を撫でるように聞こえてくる。それが妙に照れくさくて、にやけたアホ面を隠す余裕なんてどこにもなかった。


「ホージは平成のシャーロック・ホームズだね!」

「いや、それは褒めすぎ」


 ホームズというか、探偵という称号は俺には似合わない。どちらかというと、手段を問わずに操作に踏み出す彼女の方がよっぽど探偵的だ。俺は精々彼女という探偵の推理のキーになる発言をする脇役が関の山だ。……少々、香乃岸に期待しすぎなのだろうか。

 むしろ俺はワトソンでいたい。探偵の頼れる相棒で、探偵の活躍を記す語り部でいたかった。


「と、とにかく行こうぜ。まずは四階だ」


 なにを恥ずかしいことを考えているのだ、俺は。香乃岸は探偵なんかじゃないし、俺もまた俺の人生の脇役なんかではない。子供じみた考えは口にせず、それを誤魔化すように俺は彼女に先を促す。


「でーも、満点じゃあないんだなぁこれが」


 しかし、先を急ごうと踏み出した俺を彼女は呼び止めた。虚を突かれて動きを止めた俺を無視して、香乃岸はもったいぶった顔で続ける。



「ホージは親子時計、って知ってる?」


 親子時計。聞いたことあるような、ないような。つまりは知らない。

 だから俺は何も言い返せずに、ただ彼女の言葉の続きを待つことしか出来なかった。それを見た香乃岸はますます機嫌が良くなったのか、腕を組みながら肩を竦めて首を横に振る。

 洋画に出てくる俳優のような仕草だった。


「そうでしょそうでしょ、知らないでしょー」

「だ、だからなんなんだよ。親子がどうしたんだ」

「ふふーん。ま、見た方がホージには早いかもね。頭は悪くないんだから」

「思いっきり馬鹿にしてるよな今……」

「のんのんそんなことないよーん。とりあえずはそこの職員室——あ、元・職員室か——に入ればキミなら説明せずに解るって。ほらほらっ」


 香乃岸は俺の背後に回ってぐいぐいと肩を押してくる。いまいち話が掴めない俺はその後押しに従うしかなかった。一体職員室になにがあるってんだ。


     ●


 開けっ放しになった元・職員室の扉をくぐる。

 廊下を通っているときは真っ直ぐ進むことだけに集中していたから気が付かなかったが、開け放たれた扉から見えたすべての部屋には物が置いてなかった。この元職員室にも何も置いていない。教師用のデスクなどの家具はあらかた新校舎に引き継がれたのだろう。


「違和感がやばい」


 思わず口にする。置いてあるはずのものがないというのは、それだけで俺の脳髄を刺激する。生活感ゼロの簡素な部屋は、不気味さを通り越して不快感すら覚えた。

 以前の光景を知っているから尚更だ。


「ね、ね。なにか気付くことない?」

「ああ? と言われてもなぁ。こんな何もないところで気付くったって……」


 否。一つだけ残っている物があった。窓辺から射す月明かりを反射する小さな丸い鏡だ。いや、正確にはそれは鏡ではない。近付いて見ると、それは時計だった。

 銀色の縁にはめられたガラス。その奥に、1から12までの黒い数字が等間隔で並べられており、中心からは長針と短針、そして秒針が伸びていた。


「どうして時計だけ残ってるんだ?」


 他の物は軒並み片付けられているにも関わらず、だ。まるで置いてけぼりをくらったかのような寂寥感が時計から滲み出ている。


「あ、いや待て!」


 しかしその一抹の寂しさみたいなものを通り越して飛び込んできた更なる違和感に俺は気が付いた。不法侵入しているという事実も忘れて声を張り上げてしまう。


「香乃岸、いま何時かわかるか!?」

「ふっふーん。んーとね、〇時二十分ぐらいかな」


 彼女はスマートフォンで時刻を確認して「ほれ」とこちらにその画面を向けてくる。暗がりの中いきなり見せられたスマホのバックライトが目に痛かったが、時間は確認できた。

 たしかに香乃岸の言ったとおり、現在の時刻は〇時二十一分。しかしどうだろうか、この職員室に設置された時計が指している時刻は、


「二時、二十一分……!」


 ぴったり二時間ずれている。そのまま職員室から繋がった校長室へと入る。そこにも時計があって、やはりそれも二時二十一分を示していた。


「間違いない、大時計と同じようにみんなズレてるんだ……!」

「やっぱり、ホージは気付いたね」


 遅れて入ってきた彼女が言う。


「そうなの。学校の時計ってね、実はぜーんぶ同じ時間を指すように出来てるんだよ」


 これが親子時計。香乃岸は得意満面の笑顔ですらすらと親子時計についての説明を始めた。


「ここもそうだけど、教室の時計って壁掛け式に見えるでしょ。でもあれって壁に配線が埋め込まれてるのがほとんどなんだよね。つまり壁掛け式じゃなくて埋め込み式。ねぇ、何でだと思う?」

「……電源供給と、時刻合わせのため、ってことか?」

「いぐざくとりいっ。勘が冴え渡るねホージくん! 全部が独立して稼働していたら、どんどんズレてどの部屋の時計が正しい時間なのかわからなくなっちゃう。だから、学校みたいな大きな施設の時計はすべて同じ時間を指すように調整されてるんだなぁ。だから、この部屋の時計を含めて、学校にあるほとんどの壁掛け時計は全部『子時計』と呼ばれる分類なんだね」


 もちろん、外にある大時計も同じだよ。


「じゃあじゃあ、ホージにもう一個聞くよ。全ての時計が同じ時間を指すように出来ているってあたしは教えたけれど、その『時刻』の基準はどこに合わせられている、のかな?」


 ここまで教えられて答えがわからないほど俺は馬鹿じゃない。香乃岸の話を総合して考えれば、正解はすぐに出た。ほとんどの時計が子時計に分類される。


 ほとんど。子時計。


「なるほどな。親子時計って言うからには子時計の基準になる親時計があるんだろ」

「ひゅー! かっこいいー! 大正解だよっ」

「いやいや、お前の方がかっこいいよ……なんだってこんなこと知ってるんだ」


 確かに言われてみれば、他の教室に移動して時計がズレているなんて光景は見たことがなかった。だからとはいえ、それを気にした事なんて一度もない。


「ふふん、意外と物知りでしょー」

「本当、頼りになる奴だよお前は」

「ふふーふー。褒められちゃった」


 調べてみればすぐにわかることなのだろうが、それでもこれを知っている香乃岸の知識欲には感服するばかりだった。


「それじゃあ、俺達は親時計を探せばいいんだよな」

「うん。大体は職員室に置いてあったりするらしいけど……普通の教室においてあることは間違いないから、特別教室が集まってる一階の部屋を見て回れば探し出せるかもね」

「それじゃあまずはさっきの部屋から……つっても、それらしきもんはなかったよな」

「じゃあ、他の場所見て回ってみよっか!」

「オーキードーキー」


 うんうん、中々順調だぞ。あとは親時計さえ見つければ万事解決だ。

 意気揚々と、俺達二人は職員室から退出する。



 他の部屋を調べるのも苦ではなかった。

 廊下から見える部屋は全て中が見えるように開け放たれていたし、教室自体そこまで複雑な構造をしていないから外から見てそれらしきものがなければ次の部屋へ行けば良い。

 時折奥に別の部屋が続いていたりして中に入る必要があったが、それもそう大変なことじゃなかった。


「美術室って不気味だよなぁ……」

「ホージ、それ音楽室でも言ってた」

「仕方ないだろ、夜の学校にはホラーが満載なんだぞ……ほら見てみろよ、あの石膏像なんてこっち睨んでるぞ」

「気のせい気のせい。いやほんと、ビビりすぎだよキミ」

「うるせーって……あ、工作室。なつかしいなー」

「工作室は怖くないんだ?」

「むしろ男のロマンだ。工作室は楽しい場所。決まってる」

「ふーん……変なの」

「まぁ授業の課題が完成した試しはないけどな。寸法から一ミリでもズレるとやめたくなる」

「…………相変わらずだねぇ」


 そんな他愛ない会話を楽しみながら、順調に一つずつ部屋を見て回っている最中だった。


「う、うおあ!」


 唐突に情けない悲鳴を上げたのはもちろん俺。

 とある部屋の奥に、見てはいけない物があったのだ。


「どうしてこんなとこに骨、が……」


 人骨が無造作にブルーシートの上に横たわっていた。髑髏の虚ろな眼孔と目が合ってしまって、俺は香乃岸の背中に隠れるように飛び退く。


「————んー? どれどれ」


 どうしてこんなところにどくろが。どくろが。人骨が。一体ここは何の部屋だったっけ。


「なーんだ、ただの骨格標本じゃない」


 思い出す前に、香乃岸が呆れた声で答えを示した。ああそうか、ここはかつての理科室だ。あの人体模型とか並んでる、いかにもな部屋。トイレと並ぶ学校のホラースポットじゃないか。ホラーNGの自分としては避けて通りたい部屋の一つだった。


「な、なあ。理科室に親時計って置いてあると思うか?」

「…………ううーん……どうだろね? 生徒が頻繁に出入りする場所に、全部の時計がいじれる魔法の道具が置いてあるとは思えないけど。いたずらでもされたら大変だし」

「だよな、だよな」


 正直に言ってこの部屋に入りたくない俺は、香乃岸の言葉を聞いて胸を撫で下ろす。

 見る必要がないのなら安易に踏み込まなくて良い。


「あ」


 そこで、香乃岸の言葉がもう一つのヒントを生み出していることに俺は気が付いた。


「生徒が頻繁に出入りする部屋には置かないって、いま言ったよな」

「うん、言ったけど?」

「じゃあ、逆に考えよう。生徒じゃなくて大人が常にいるような部屋を探せばいいんだよ」

「おお……?」

「だって、いたずらされたら困るんだろ。じゃあ、見張っている人間が常にいるような場所に行けば良い」

「お、おお! なるほど! まじで冴えてるねホージ! じゃあじゃあ、職員室にはなかったんだから、大人が常駐している部屋といえば……」

「——用務員室、かな」


 大人が監視しているといえば保健室あたりも含まれるだろうが、保険医の先生が職員会議などで外していることもしばしばある。だとすれば教員以外の大人がいる場所としては——生徒が特に立ち入らない部屋としては、用務員室あたりが妥当に思えた。


「急ごう」


 ワクワクしてきた。いままで知らなかった親子時計の存在を知ったり、その場所を推理することで、いままさに自分達は冒険をしているような感覚が湧いてくる。まさか大時計のズレがこんな形で楽しみを提供してくれるとは思わなかった。


     ●


「あ、あった……!」


 そしてあっけなく『親時計』は見つかった。畳がしかれた和室になっている用務員室、その奥に鉄製の箱がある。不用心にも蓋が開かれているその箱の中央に、小さな時計が鎮座していた。手前にはその時計に配線されたツマミが置かれている。これで時計を操作するのだろう。その真上には、他の教室と同じく設置型の子時計まである。どちらも現在時刻から二時間ずれていた。


「こ、これをずらせば良いんだよな。でもこれ、まじで動かして良いのかよ……?」


 もしこれが本当に親時計だとして、ツマミをいじったことによって何か故障したりしないだろうか。ここまで来てびびってしまう俺だったが、これが原因で時計を故障させてしまったらどうなる。俺の人生の平穏は高校卒業までおあずけになることは間違いない。おいそれと簡単に触れて良い物ではないと、俺の手が震えていた。


「——えいっ!」

「うおおおおっ!?」


 そんな俺を押しのけて、香乃岸がずいと前に出た。思い切りツマミを捻る。


「ば、ばかお前……!」


 恐怖に負けて思わず目を瞑る。なんてことをしてくれたんだ!


「ふっふん、びびりすぎだよホージくん。見てみんしゃい」


 言われて、おそるおそる瞼を少しだけ持ち上げる。そこには、三十分だけ前に戻った親時計。そして、


「……!」


 それを追従するように、ゆっくりと上にある子時計の針が戻っていくのが解った。


「お、おお……」

「なにも驚くことないじゃない。これが親子時計の仕組みなんだからさ。さーて、びびりちゃんのキミの代わりにあたしがずらしてあげようねっ」


 ぐいぐいと香乃岸がツマミを連続して回していく。みるみるうちに親時計、そして子時計が調整されていくのがわかった。一時間。一時間十分。二十分三十分……。くるくると、めまぐるしく子時計の針が動いている。一つの時計が他の全ての時計に影響を与える様を、こうして目にすることが出来るなんて。その不可思議な仕組みから、俺は目を離すことが出来なかった。


「んで、これで二時間ぴったり……だね!」

「すげえ……すげえよ、香乃岸」主にその度胸がすげえ。

「へへへ。外の時計はあんだけ大きいから普通の子時計と違って調整に時間がかかるかもだけど、これにて一件落着って奴よ!」

「確かに一件落着だ。いやぁ、珍しいもん見れた……」


 しかし、ここまで簡単に時計が直せるのならどうしてもっと早く理事長は修理してしまわなかったのだろうか。

 意外にもあっけない幕引きに、多少のがっかり感が伴ったのは秘密である。


「ふぅ。それじゃホージ、ぼちぼち帰ろっか?」


 互いに一息つくと、ゆるみきった表情で香乃岸が提案してくる。俺はその提案に対して、


「いや、まだだ」


 こう即答した。それが意外だったのか、彼女は目を丸くしてこちらを見つめている。


「……え? でも一件落着したじゃない。他に用事なんて……」

「確かに一件落着かもな——」


 時計のズレは修正された。これで俺の人生には再び安堵の日々が訪れるであろう。


「——でも、二件目は落着してない」


 しかしそうも行きそうになかった。なぜなら見つけてしまったからだ。

 それはこの世の歪み。世界のバグ。捨て置けない謎。人にとってはどうでもいいことかもしれなくても、俺にとっては安寧を破壊しうる不条理を、見つけてしまったのだ。


「行くぞ香乃岸」


 この謎を解明するまで——あるいはそれに準ずる手がかりを得るまで、俺は帰るわけにはいかない。


「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってよ! どこ行くのっ!?」


 焦りの混じった声を張り上げる彼女を無視して、俺は用務員室を出る。畳以外に何も置いてない、簡素極まった部屋からおさらばして、真っ直ぐに目的地を目指して歩き始めた。


「理科室だ」


 そう。


 何も置いていない用務員室。職員室。他の教室からも、物らしい物はあらかた新校舎へ移されたはずだ。その証拠に俺は旧校舎内で何もない空間を見る度に違和感に襲われ、鳥肌が立ちっぱなしだった。


 ならば。


 ならばどうして、あそこには『まだ』骨格標本が置いてあったんだ? 横たわる骨格標本の眼孔のほの暗さを思い出して、ぞくぞくと背筋が凍てついた。


 壊れたから放置されたのか。ああして横たわっていたなら充分ありえる可能性だ。ではどうしてその壊れた標本を廃棄せずにいる?

 そこには必ず理由があるはずだ。その理由を、俺は知らなければならない。


     ●


 意を決して、理科室へと踏み込んだ。


     ●


「ね、ねぇホージ! 置いてかないでってば……!」


 遅れて来た香乃岸が、肩を上下させて抗議する。しかし俺はそんな彼女に構っている余裕などどこにもなかった。


「……」


 やっぱりだ。遠目から見たということと、暗幕で光が遮られた暗がりのせいで正しく認識できなかったが、


「これ、標本なんかじゃない」

「……っ」


 全身が綺麗に揃った『骨』は、ところどころ赤黒い何かがこびり付き、クリーム色に変色した表面を汚していた。


「香乃岸もこっちに来て見てみろよ。これがマジに骨格標本なら、間接の部分に骨を繋げるための針金かなんかがあるはずだろ」


 でも、これにはそんなもの見当たらない。あまりに綺麗にブルーシートの上に並べられているせいでぱっと見判断がつかないが、この骨達は明らかに繋がっていなかった。


 バラバラだった。ただただ綺麗に、並べられているだけだ。


「——やばいの見つけちまったかもな」


 素直な感想を口にする。こんなもん、こんな場所にあっていい物じゃない。明らかに白骨化した死体じゃないか。そもそも、どうして理科室にブルーシートなんて敷いてあるんだよ。


「……」


 よほどショックだったのか——当たり前だ——香乃岸は口元を押さえて俯いている。俺は俺で初めて見る本物の人骨に、ホラー的な恐怖を通り越して犯罪に巻き込まれる危機感に肩が震えだした。早いところ警察に連絡しないと……。


「——ん」


 そこで気が付く。理科室の床に固定されたテーブルの上に、見慣れた物が置いてあった。

 ブルーシートを踏まないように慎重に跨いでテーブルへと近付く。


 瞬間、鼓動が跳ね上がった。


 置かれているのは、俺が今着ているものと全く同じ学校指定の男子制服。綺麗にたたまれてはいるが、胸の部分がどす黒く変色している。これは、血だろうか。だとすれば、この制服の持ち主は間違いなくその白骨ということになる。

 そしてその上に置かれている小さな手帳に、自然と目が行った。


「……なんだよ、これ」


 それはこれ見よがしに中身が確認出来るように開かれた、生徒手帳。



 俺の顔写真が印刷された、俺の生徒手帳が、そこにあった。



「なんなんだよ、これ!」


 脳味噌がガンガン痛み出して、大声をぶちまけた。本能がはやく立ち去れと警告している。なぜならそこにあるのは間違えようもない、自分の顔だ。顔写真だ。俺の持っているはずの生徒手帳だ。

 じゃあ、そこの骨は誰なんだ?

 死体は、一体誰なんだ。



「へへへ、見つかっちゃった」



 混乱する思考が追いつく暇もなく、後ろにいた香乃岸が言った。振り向く。

 彼女が口元に添えた手を下ろす。


「……香乃、岸?」


 香乃岸ゆかりは笑っていた。照れくさそうに、恥じらうように、はにかんで、白い歯を見せて、にっこりと、笑っていた。


     ●


「いやぁ、やっぱりホージはすごいよっ。あたしの期待通り!」


 待て。


「見つかっちゃったなー。いや、見つけてくれたなー。うんうん、満点だねっ」


 待て。待て待て。


「あれ? どうしたのホージ、変な顔して」


 へ、変な顔してるのは香乃岸だろ? どうしてこんな状況で笑ってんだよ、お前……。


「え? だって言ったじゃない。決心がついたって」


 決心って……あれは一緒に学校に侵入する……。


「あ、違う違う! 決心ていうのは、あたしが告白する決意を表すためのですね」


 ……告白?


「そう、告白。えー、おっほん」



 あたしは肩からかけたボストンバッグを理科室のテーブルに置く。落ちてしまわないように、そっと静かに。



「又川くん、大好きです。あたしと付き合ってください」


 ……? …………? 待て、今なんて?


「今なんて、なんて言われてもなー。ちょっとキミ、女子が一大決心して愛の告白してるのに、すっとぼけるのやめてよもー」


 いや、そうじゃない。お前、どうしてこの状況で。そんな顔で。そんな告白を。


「にぶちんだなーホージくん。キミならキミを見つけた瞬間に全部理解してくれると思ったんだけど」


 キミなら、キミを。

 それってつまり、この骨は……。


「うん、そうだよ。あたし香乃岸ゆかりが保証してあげるっ。正真正銘、そこの白骨は又川峰次くんだよ!」


 どうしてお前がそんなこと証明できるんだよ。


「どうしてもなにも。あたしがキミを殺したからだよ?」


 ……。


「あれ? まだパニックマン?」


 当たり前だ! じゃあ俺は——ここでこうしてお前と喋ってる俺は、一体——、


「だーかーらー。それも言ったじゃない」


 言ったって、なにを。


「あたし、霊感があるんだよねーって。浮かばれない幽霊がーって」

「言ったよね? あたし」


 言った。ああ、言ったさ。でもあれは冗談だって……。


「本当のことを言うのって結構勇気がいるもんですよ」


 じ、じゃあ、俺は……。


「うん、幽霊だよ」


 どうして。


「どうしてって、いやいや。いい加減わかってよ。好きだからだよ」

「好きだから殺したの」「あたしね、昔っから幽霊が見える質でさぁ」「時々、見えちゃいけないもんとお話ししちゃったりして」


 やめろ。そんなこと、俺は聞いてない。


「そのせいで、クラスからはどんどん浮いちゃうわけさ」「もう毎日うんざり。人とまともに会話が出来ない世の中ツマンネってなってたの」「幽霊とはまともに会話できるのにね」


「でもでも」「あたしと同じように、変な癖? のせいでクラスに溶け込めない人を見つけちゃったんだよね」「そう、ホージのことだよ」「試しに話しかけてみたらさ、めちゃめちゃ面白かったんだよね」


「だって信じられる? 自分ルールが守れなかったら家に帰って通学しなおす人がこの世の中にいるんだよ?」「幽霊が見えるよりもずっとずっと変だよ」「面白いよ」「それに比べたら霊感なんてありきたりすぎるよ」「それでね」「気が付いたらキミのことばかり考えてた」


「……好きに、なってた」


「だから告白したんだよ、いまこうして」


 ……殺したことへの説明がされてない。


「いやいや」「充分に説明しましたー」「ちゃんと教えましたー」


 だっておかしいだろ。なんで好きなのに殺したんだよ。

 どうしてここに死体が放置されてるんだよ。


「はー」「ちょっとがっかりだよ」「ホージぐらい頭が回るならちゃんと理解してくれるはずだったんだけど」「まぁいいや」

「あのね」「あたしには霊感があるの」「幽霊が見えるの」「それじゃあ、幽霊と恋する方がよっぽど可能性あると思わない?」「だって他にライバルいないんだよ」「確かにキミはクラスで浮いてたけど」「孤立していたけれど」「でも、キミが好きな女の子が他にいないって、断言できる?」「できないよね」

「だって、言葉にしなきゃ伝わらないんだから」「想いなんて、伝えられない」

「これでどうしてあたしがキミを殺したか、解るよね」


 …………理解出来ない。


「えー?」「だってもう、キミにはあたししかいないんだよ?」「忘れたの? キミってば物に触れないもんだから」「あたしが代わりにノート取ってあげたり」「扉を開けといてあげたり」「時計のツマミを捻ってあげたりしたんじゃない」


 扉を開けた? じゃあ、いままで教室の扉が開けっ放しになっていたのって。

 この旧校舎の扉が全て開けられていたのって。


「あたしがやったんだよ?」「もう」「大変だったんだからねっ」「学校のドアだけじゃないんだよ」「毎日毎日」「キミが学校に行くときと、帰ってくるとき」「あたしがキミの家に行ってたの」「玄関を開けてたの」「気が付かなかったでしょ?」


 ……そんなことまで。


「うん」「そんなこと、っていう程辛いことじゃないけどね」「キミのためなら」「ね」


 じゃあ、本当に。


「うん」「殺した」「半年前に殺した」「だから骨はそこにある」「昨日私が持ってきた」「キミがキミを見つけられるように」「そしてキミがキミを見つけたら」

「告白しようと思ってたの」

「先生達から隠すのも大変だったんだよ」「行方不明者としてキミが捜索されてて、この旧校舎にも来たし」「ほんと、大変だった」


 どうして。


「どうしては聞き飽きたよー」「だってさ、だってさ」「キミってば成仏しちゃいそうなんだもん」「幸いにしてその癖が」「気になることが放っておけないっていう」「その癖があったからさ」「なに?」「未練って言うの?」「それがキミにはたくさんあったから、まだ安心出来てたけどさ」

「やっぱりダメだね。放っておくとすぐに逝っちゃいそう」

「だから、ずーっと」「ずーーーーーーっと」「そりゃもうずーーーーーっと!」

「ここの時計、あたしがいじってたんだ」

「ずらし続けてたんだ」「誰かが修理しようと」「正確な時間に戻そうと」「ずーっと、ね」

「だから、この後もあたしはまた時計を二時間、ずらしちゃうと思うけど」「っていうかずらすけど」「キミを逝かせないためだから、我慢してね」

「ね、だからいいでしょ?」

「付き合ってよ。恋人になろうよ」「キミにはもう、あたししかいないんだよ」

「ほら、さっきも言ったけどさ」



 ボストンバッグに仕舞った洋服の数々を引っ張り出した。

 男物と、女物。

 やっぱりおめかしするなら、恋人同士一緒じゃないとね。


「キミのそのだっさいセンス、あたしが直してあげる」


 あたしはワンピースを脱ぐ。下には何も着けていない。すっぽんぽん。


「えへへ」


 いやぁ、恋人といえど初めて異性に生まれたままの姿を見せるのは抵抗がありますなぁ。



「ね。一緒にお着替えしよ?」



≪BAD HABITS JUVENILE is VERY LOVELY HAPPY END.≫


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