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第一幕 歌姫(ディーバ)と孤独な音楽家 (1)

 音楽大学の広い講義室で、稲本は自分の請け負った和声学(わせいがく)の講義をまるで太古から伝承された大事な言い伝えであるかの様に訥々とした口調で語り続けていた。彼は痩せていて端正な顔立ちだったが、強い度の入った黒縁の眼鏡を掛けていて四十才前だというのに五十過ぎに思えるほど老けて見えた。一見して人付き合いが苦手な孤独で神経質そうな性格がうかがえた。それ以上に何か人に言われぬ負い目を背負ったような雰囲気を漂わせていた。

 本当は大勢の人の前で話をすることなど苦手の様だったが、それを振り払うように彼の口調は淀みがなく機械のように正確無比だった。彼はどこか甘い性格で決して聴講生を不合格にしない、いわゆる「通し」だった。いちいち出席をとるような野暮なこともしなかった。そのせいで春の開講時には満員だったのが、夏休みも近づいた今ではがらがらの状態だった。稲本はただ機械の様に職務を果たすことだけに忠実だったかと言えばそうでもない、自分の話を聴いてくれる学生に常に敏感だった。

 その中でもいつも前列に座って熱心にノートを取りつづける美しい女子学生の事がずっと気にかかっていた。彼は今となっては彼女の為だけに授業を続けていたとしても言い過ぎではなかった。そして彼女を何度も見つめようとして、どこか恥かしい気分になって目をそらすのだった。稲本は彼女の事を知っていた。声楽科の三年生で異様に美しい顔をしていた。才能も学生としてはずば抜けていて、性格も屈託がなく明るく学内でも有名でアイドル的な存在だった。

 夏とは言え室内は十分冷房が効いていたが、稲本は額に汗を浮かべながら講義を終えた。

やれやれという気分だった。大学での講義は充実感はあるものの作曲家であると自認する稲本には所詮、生計を建てる手段のひとつに過ぎなかった。


「あのぉ・・・」そそくさと講義室を立ち去ろうとした稲本に例の女子学生が声を掛けた。

「ちょっと、わからないところがあって・・・お急ぎでなければ質問していいですか?」

めったに笑わない稲本の口元がほころんだ。質問はたわいも無いものだったが彼はよろこんで答えた。

彼女は「ありがとうございます。先生の講義とてもわかりやすくて面白くて勉強になります!」と明るく言った。稲本は頬がゆるむのを抑えることができなかった。

 

 それ以来講義後にその女子学生は毎回稲本に質問するようになった。その姿を一緒に講義を受けている彼女の友人が不思議そうに見ているのを稲本は見逃さなかった。

 ある日彼女はいつも通り稲本の前に寄ってきて言った。

「あのぉ・・・もしよかったらいろいろと個人的に伺いたいことがあって、お時間がありましたら喫茶店ででもお話しできましたらうれしいんですけど」

 稲本は嬉しさを抑えきれなかったが、冷静な口調で言った。

「うーん、今日は特にこれといった要件もないです。かまいませんが」

 

 二人は大学の最寄駅の前にある古びた喫茶店に入った。音大の前だからと言うのか店主の趣味なのか、いつもBGMにクラシックの室内楽(しつないがく)が掛かっていた。周りにたむろする学生達が「アイドル」と地味な非常勤講師の取り合わせを好奇の目で見ているのが敏感な神経を持つ稲本には刺さってくる様に感じられた。

「私、名前を言ってなかったですね。田辺ゆかりと言います」

「ゆかりさんですか。いや、あなたは学内の有名人だから私も存じ上げていました」

「そんな・・・光栄過ぎです!」

「しかし、あなた随分と熱心だったけど私の講義聴いててそんなに面白かった?」

「いえ、そのう・・・立派な講義だったと思います」

「ハハハ、和声学の講義なんて誰がやっても面白くなるわけがない」

「実は私、現代音楽マニアの知り合いがいまして、その人に連れられて先生が自作自演された演奏会に行ったんですよ・・・」

「そうだったの。あれかな仲間とやった演奏会、私が自分で弾いた『見出された時のためのソナタ』」

「そうそう、それです!難しい曲でしたけど、どこか親しみやすくて綺麗な曲で、先生のピアノの腕前にも惚れ惚れしました。それで先生がこの大学で講義してると知って受講したんです」

「そういうことだったの。まったくありがたい話だよ。ところであなたどういういきさつで声楽家を目指すようになったの?」

「私は静岡の浜松市の出身なんです」

「ほう、あのピアノで有名な」

「あの街は音楽が盛んで、私も中学と高校では合唱部にいました。ほんとに歌うのが好きなだけで将来音大に入るなんてまったく考えてなかったんです。ごく普通の家庭でしたし。きっかけは高校のときたまたまドイツのソプラノ歌手の演奏会に行ったことです。人間って一人でもこんな声が出せるんだって感激したんです。それで部活の顧問の先生に相談したら、あなたはいい声をしてるから音大に入ってもやっていけるかもって後押ししてくれたんです。それからピアノや楽典やソルフェージュを猛勉強して、この大学に受かったときは夢でもみているような気分でした。でもこんな有名な音大に行くことになって私はそんなに高度な音楽教育を受けてきたわけでもないし、周りの人からバカにされないかとか凄く不安でびびってました。でも能天気な性格なのかな?中に入ってしまえばなんとかなるもんですね」

「そうだったの。君はフレデリカ・フォン・シュターデというソプラノを知ってる?昔は凄い人気があったんだが」

「知ってます!もちろんですとも。オペラの録音もたくさん持ってます。私のあこがれる歌手のひとりです」

「そのフォン・シュターデはなんの音楽教育も受けてない、可愛い普通の娘だった。大学に入るまで楽譜も読めなかった。あまりにも歌が上手いから友人の勧めで音楽大学の入学試験を受けた。彼女は試験官の前で軽いポップスの一節を歌っただけだったが、すぐに合格になった。彼女が私は楽譜が読めないのと言うと、試験官達はそれはこっちの仕事だからまかせておいてと言って笑いあった。どうも伝説めいた話だけれども・・・」

「へえー、そんなエピソードがあったんですね。そういえばあの三大テノールで有名だったパバロッティも楽譜が読めなかって聞いたことあります」

「それはほんとうらしいね。むしろあれだけ長大な主役のテノールの曲を楽譜なしで歌えたのは凄い才能だよ。僕なんかとは違う選ばれた人なんだろうね」

「先生も凄いですよ。いかにも孤独で真摯な作曲家って感じで・・・」

「ハハ、孤独ですか。確かにその通りだ」

「すみません!失礼なこと言ってしまって。私いつも余計なことばかり言ってしまうんですよ」

「フフ、素直でよろしいですよ。演奏家には素直で明るい人が向いている」

 ゆかりはそう言われて透き通るような笑みを浮かべた。稲本は久々に浮き立った気分を味わっていた。

「それにしても楽譜の読めない歌手はいても、楽譜の読めない作曲家っているんですかね?いたら面白いですけど。いるわけないですよね!アハハ」

ゆかりは何の意味もなく無邪気な事を言ったのだったが、稲本の脳裏に「あの男」が浮かんだ。

「まさかね、いやしくもクラシックの作曲家にはそんな人いるわけないよね。まったく笑える話だよ、フフフ」

そう言いながら稲本は眉をしかめて考え込むような表情になった。ゆかりは何か悪いことを言ってしまったような気がした。ゆかりがすっかりためらう程の間を置いて稲本は言った。

「君は四条(しじょう)河原(がわら)(あきら)と言う作曲家についてどう思う?」


(つづく)



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