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ひとりぼっちの猫は、寄る辺を見つける

作者: 苧環しづ
掲載日:2026/11/05

受が不憫・不幸属性のためご注意ください。

「……暇だなあ」


 薫は最低限の家具しかないワンルームの畳に寝転び、すっかり癖になった独り言をこぼした。

 十歳の頃から、かれこれ八年ほど過ごした児童養護施設を卒園して早一ヶ月。世間はGWに突入したというのに、貯蓄が雀の涙の薫はどこかに遊びに出かける余裕はない。


(それでも、カレンダー通りに休みなだけマシなんだけど)


 猛勉強の末、就職した地方公務員の事務職は、今日から五連休だ。

 惰眠を貪るつもりが、いつも通り七時三十分には目が覚めてしまって、朝食と家事を終わらせた途端、やることがなくなってしまった。

 ちらりと時計を確かめると、まだ十時。

 こんな時テレビでもあれば良かったのかもしれないけれど、施設ではテレビを観られる時間が決まっていて、たいていチャンネル権は一番年上の子が占有していた。長じて自分が一番お兄さんになっても小さな子に譲っていたから、必要性を感じられずに購入しなかった。

 スマホも卒園時にやっと契約したくらいで、たまに高校時代の友達から連絡があれば良い程度。パソコンはそもそも持っていない。


(図書館……は、僕あんまり本を読まないし……。この機会にSwitchを買う……? でも、中古で買ってもソフトとセットで二万は痛いしなあ……)


 施設に入ってからは、とにかく生きることに必死だった。野良猫生活から、いきなり家猫になったようなものなのだ。

 寝起きの時間が決まった規則正しい生活に、栄養バランスの良い三食の食事とおやつ。そんな施設での暮らしにやっとこさ慣れ、栄養失調だった体が年相応に育つまでに、二年はかかった。

 それから、必死で勉強の遅れを取り戻して、将来のためにバイトに明け暮れ……趣味らしい趣味を作る余裕なんて微塵もなかった。


(施設に入る前は……どうやって生きてたんだっけ、僕)


 十歳まで、薫は狭いアパートの一室で母と二人で暮らしていた。といっても、母は数日帰ってこないなんてこともザラだったので、一人暮らし時々母といった方が正しいかもしれないけれど。


(あの頃はとにかく、食べることに必死だったっけ……。あ、でも……)


 人間は過度なストレスを感じると防衛反応が働くらしく、薫は十歳以前の記憶が曖昧だ。けれど、覚えている記憶のひとつに、自分が編み物を好んでいた記憶が残っている。


(懐かしいな……。時間の許す限り、ずっとマフラーを編んでたっけ)


 母は数日家を留守にしたかと思うと、脈絡なく帰宅した。しかも、たいていは男の人を連れて。そんな時、薫は家から追い出されて、夜まで近所をあてどこもなくふらついた。

 そんな薫を不憫に思ったのか、一時期近所に住むおばさんがよく自宅に招き入れてくれて、おやつをご馳走してくれたり、手慰みに編み物を教えてくれたものだ。

 存外、薫は器用だったらしく、編み棒をすぐにマスターして、当時は基本中の基本であるガーター編みでマフラーを作れるくらいの腕前になっていた。


(マフラー、地元のバザーでひとつ数百円で売れたんだよなあ……)


 作品を出品していたおばさんが一角を貸してくれて、薫の拙い作品も一緒に並ばせてもらったことがある。

 売り上げはたかが数百円だったけれど、されど数百円。マフラーを五本も編めば、子どものお小遣いとしては十分な額だ。

 何より母は家を空ける時に、お金を置いていってくれることはほとんどなかった。

 菓子パンやカップ麺といった食べ物を残してくれてはいたけれど、食べ盛りの子どもには到底足りない量だった。しかも、いつ帰ってくるかわからないから、次に母が帰ってくるまで、手元にある食料で上手くやりくりしなくてはいけない。

 朝は菓子パン、昼は給食、夜は我慢して我慢して……どうしても空腹を耐えられなかったら、マフラーを売って貯めておいたへそくりでできるだけ安くて食べでのあるパンをひとつ買う。

 そうやって、幼い薫は命を繋いでいた。


(編み物か……。いまでも、編めるかな?)


 おばさんに譲り受けた道具一式は、連れ去られるように児童相談所に入所することになった際、家に残してきてしまった。とっくの昔に、母に処分されていることだろう。

 でも、昔ならいざ知らず、今は百均でたいていの物は揃う時代だ。編み棒と毛糸だけなら、数百円もあれば事足りる。


(さすがに数ヶ月あればマフラーの一本くらい編める、かな? もし上手にできたら、売れるかも)


 薫は取らぬ狸の皮算用を企てると、いそいそと近所にある百均に出かけることにした。


 ***


 生まれつき色素の薄い髪とほぼ同じ茶色のマフラーは、五月が終わる頃には完成してしまった。

 編み方なんて忘れてしまっただろうと思っていたけれど、意外と体は覚えていたらしい。

 一番難しい初段の網目さえできてしまえば、あとは延々と同じ編み方の繰り返し。あっという間に、約百七十センチつまり身長とほぼ同じ長さまで編めてしまった。手が大きくなった分、昔とは比べ物にならないくらい爆速で編めるようになったまである。


「僕って、編み物の才能があるかも……」


 出来上がったふわもこマフラーを首に巻き、鏡を覗き込んだ薫はつい自画自賛してしまった。不服ながら、童顔の己によく似合う。

 今回は失敗を恐れて無難に編んでみたけれど、もう少し大人っぽい色の毛糸で、模様にも挑戦してみたらデキる男感を醸し出せるのではないだろうか。

 すっかり調子に乗った……もとい編み物にハマってしまった薫は、すぐさま二本目を編む決意を固めた。幸い、縄編みならおばさんに習って編んだことがある。

 そうして、二本目のマフラーを編むのと並行に、飽きを感じたら当時習った指編みやダンボール織りでちょっとしたコースターやランチョンマットを編んで、気分転換。

 そうして、どっぷり編み物充を謳歌しているうちに、気がつけば季節は秋になっていた。


「できたー……」


 最後のフリンジの処理を終え、ようやく完成したシックな黒の縄編みマフラーを薫は掲げた。

 高見えと言うのだろうか。原価は千円もしないのに、買えばその五倍くらいの値段はしそうな出来栄えだ。


「次はどうしようかな……。別の編み方に挑戦してみたいけれど、本だとよくわからないんだよなあ……」


 図書館で借りてきた編み物の本をぱらぱらとめくりながら、薫はつぶやく。

 薫がおばさんから習った編み方は、ガーター編みと縄編みの二種類だけだ。しかも、マフラーのみ。途中で毛糸を変えてストライプや格子状にアレンジもできるけれど、もっと複雑な模様で、セーターやカーディガンを編んでみたい気持ちがある。

 動画ならと思ってスマホでぽちぽち検索してみるけれど、検索の仕方が悪いのか出てくるのはかぎ編みばかり。やっと棒編みの動画を見つけたと思っても、心惹かれる模様ではなかったり、尺の都合上進行が早かったりでちんぷんかんぷんだった。


「うーん……。マンツーマンで教えてくれる教室みたいなところ、あるかな……?」


 悲しくなるほど薄給の身の上で高い月謝は払えないけれど、月に一万までならなんとか捻出できる。それに、一度覚えてしまえば一生物なのだから、安いものだ。

 薫はなるべく近所で月謝が安い教室に条件を絞って、探してみる。と、該当する教室が数件見つかった。


「月二回四時間。材料込みで月謝七千円……。ああ、でも平日しかやってない……」


 いかにもAIで作られた囮広告っぽい教室も除外だ。結局、土日に通えそうな教室は一件に絞られた。しかも、格安で体験教室もやっているらしい。

 薫は教室の雰囲気や作品のレベルがどんなものなのかと、写真を次へ次へと確認していく。

 そうして、自宅兼教室で生徒さんたちと一緒に撮影された先生の写真に目を止めると、あれ? と首を傾げた。


「どこかで見た覚えが……」


 先生は五十代くらいの女性だ。ショートカットに、チェーン付きの眼鏡をかけた目元は笑い皺が寄っている。


「あっ……。おばさんだ……!」


 もしかしたら名前を教えてもらったことがあったのかもしれないけれど、ずっと『おばさん』と呼んでいたせいか記憶にない。

 かろうじて都内に住んでいたという記憶しかない薫は、ホームページに記載されている教室の住所が当時住んでいた場所の近くなのかどうかも、ピンと来なかった。

 意外と近場だったんだな、くらいの感想しかない。


「おばさん、元気そう……。良かった……」


 ガリガリで薄汚くて、近所でも学校でも厄介者だった薫に唯一優しくしてくれた人だ。

 思いもよらないところで恩人の安否を知ることができた薫は、ほっと安堵の笑みを漏らす。

 連絡先もなにも知らなかったから諦めていたけれど、もし機会があったら感謝を伝えたいと思っていた。

 逸る気持ちのまま、個人情報を入力して、体験教室に申し込む……直前で、薫はふと我に帰った。


「どうしよう……。あれから八年も経ってるんだから、きっと僕のことなんて忘れてるよね……」


 却って迷惑になったり、不審に思われたりしないだろうか。

 おばさんは実の母よりも母らしくて、子供だった薫は『本当のお母さんになってくれないかな……』とひそかに思っていた。けれど、おばさんにとってしてみれば、あくまでも近所の子でしかない。薫ほど、思い入れはないだろう。


「でも……」


 忘れていたら、忘れていたで良い。顔をみて、心の中で『ありがとう』という分には誰にも迷惑はかからない。

 一世一代、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、薫は「申し込む」ボタンをクリックした。


 ***


 一人暮らしを送る町から、約三十分。時間にすればそれほど離れてはいないけれど、バスから乗り換えて普段使わない路線を利用したせいか、倍の体感時間だった。


(こんな駅だったっけ……?)


 体験教室は午後からだというのに、今の時刻は午前。どことなく寂れた印象の駅舎に降り立った薫は、小首を傾げた。

 まあいいかと、スマホの地図アプリを頼りに目的へと向かって歩を進めるうちに、まるで霧が晴れていくかのようにだんだんと当時の記憶が蘇ってくる。

 畑だったはずの場所には軒並み住宅地が立ち並び、よく夕方まで時間を潰した小さな公園だけがポツンと取り残されていた。それだけでなく、いつか大人になったら買い占めてやろうと心に誓った駄菓子屋さんは居酒屋に、へそくりで何度も買い物をしたスーパーは喫茶店へと変わっていた。

 けれど、変わらないものもある。


「ここ……。僕が暮らしていたアパートだ……」


 薫は見覚えのある木造二階建てのアポートを呆然と見上げる。当時ですら、オンボロだったのだ。とっくに取り壊されているかと思っていた。

 何度か深呼吸をして、意を決して集合ポストの表札を確認する。

 薫が当時住んでいた部屋は二階端っこの、二〇五号室。名前からして、現在は別の誰かが住んでいるようだ。


「そう……だよね……。あの人が、今もここに住んでるわけ、ないよね……」


 わかっていたはずなのに、渇いた笑みが溢れる。

 あれは、十歳の夏のことだった。何日も十何日も待っても母は家に帰って来なくて、そうこうしているうちに電気が止まり、水も出なくなって、食料も尽きて……。ここで死ぬのかなと子供心に思った薫を、運よく様子を見にきた大家さんが発見してくれた。

 それから、児相に保護されて施設に入ることになったけれど、今まで一度も母が面会に現れることはなかった。

 担当の児童福祉司さんも施設の先生も『お母さんと連絡が取れない』って言っていたけれど、薫は本当はわかっていたのだ。自分は、母に捨てられたのだと。

 そんな母と会いたかったのか会いたくなかったのか、会えなくて良かったのかもわからないまま、薫はふらりと重い足を動かす。

 そして、一分もかからずに、地図アプリは目的地に到着したことを示した。


「ここが、おばさんの編み物教室……」


『木田』という表札と一緒に、『生徒募集中』と書かれた教室の看板が目を引くくらいで、何の変哲のない民家だ。

 緊張に手に汗を握りながら、薫はそうっと門扉の外から敷地内の様子を伺う。

 だいぶ早い時間に着いてしまったせいか、外から偵察する分には静かなものだ。


「おい。お前、他人ん家の前で何してる」


 と、急に後ろから声をかけられて、薫はびくーっと肩を震わせた。サーッと顔から血の気が引いていくのがわかる。


(や、やばい。どうしよう……! 傍から見たら、僕不審者だ……)


 通報でもされたら、せっかく苦労して就職した公務員という仕事を失いかねない。慌てて振り向くと、薫は勢いよく頭を下げた。


「あ、あのっ……僕、佐々木薫と言います……! 今日、体験教室を予約してて……っ」

「…………佐々木薫って、あの薫か?」

「え?」


 後頭部に訝しげな視線を感じるなと思ったら、しばしの沈黙の後、戸惑うような声が降ってきた。薫は恐る恐る顔をあげると、青年を見上げる。

 随分と目線が高い。おそらく身長は百八十センチ近くあるだろう。黒髪短髪に鋭い目つき。何かスポーツか武道でもやっているのか、筋肉質なガッチリした体格をしていて、ヒョロガリの薫が殴りかかられたらひとたまりもない。

 びびって腰が引けていた薫は、どことなく見覚えのあるムスッとした表情に、ふと懐かしさが込み上げた。


「宗近、くん……?」


 呼ぶつもりのなかった名前がポロリと溢れて、薫は慌てて口を塞ぐ。そんな薫に、青年──宗近は眉間に皺を寄せた。


「お前……」

「あら、誰かいるの?」


 何かを言いかけた宗近の言葉を、誰かが遮る。薫と宗近が声の方に顔を向けると、編み物教室の玄関から、エプロン姿の女性が現れた。八年ぶりに対面するおばさんだ。


「宗近、帰ってたのね。あら、あなたは……」


 おばさんの視線が向けられて、薫は反射的に俯く。

『はじめまして』と挨拶するべきか、『お久しぶりです』を声をかけるべきか、わからない。喉に何かがつっかえたようで、言葉が出なかった。

 そんな薫に構うことなくおばさんは手を叩き、はしゃいだ声を上げる。


「カオルくん? カオルくん、じゃない? やだ、何年ぶりかしら。元気にしていたの? 体験予約の名前を見て、もしかしてって思っていたのよー! ……って。こんな玄関先じゃ、ご近所迷惑ね。ささ、二人とも、早く中に入ってちょうだい」

「おばさん……」


 こわばっていた薫の体から、力がふっと抜ける。

 八年という歳月は、街並みも、暮らしも、人も変える。けれど、おばさんの優しさは、あの頃となんら変わりがない。

 八年間育った施設という狭い世界の外で、薫の存在を覚えてくれている人がいた。それがどれほど救われることか、薫の胸は詰まるようだった。


 ***


 <Side 宗近>


「──近年、放置子をめぐり、トラブルになるケースが増えています。放置子とは、無関心な親に放ったらかしにされた子どものことを指します。その背景には、虐待や育児放棄の恐れが潜んでおり……」


 母一人子一人の食卓。BGM代わりにつけていたテレビのニュースに、宗近はピタリと箸を止めた。


(放置子……)


 鋭い後悔が、宗近の胸を突き刺す。

 定義としてははじめて聞いた言葉だったけれど、ニュースに報道される特徴によく似た子に一人だけ宗近は覚えがあった。

 カオル。苗字も名前の漢字も知らない。青白く痩せこけた頬に、ギョロリと大きな瞳ばかりが目立つ少年がこの家に出入りしていたのは、三年前のこと。宗近は中学二年だった。

 娘と趣味の編み物を楽しむのが夢だったというお袋は、当然のように息子の宗近に代わりを期待していたけれど、ちまちまとした作業が苦手な宗近は断固拒否。どこで拾ってきたのか、気がついたらカオルを家に招いてせっせと世話を焼き、楽しそうに編み物を教え込んでいた。カオルもカオルで、お袋に懐いているように見えた。


「……ねえ、あんたはカオルくん、覚えてる?」

「……ああ」


 いつもなら『テレビに夢中になっていないで、さっさと食べちゃいなさい』と小言ばかりのお袋も、茶碗を置いてすっかりテレビに釘付けだ。化粧っ気のない顔には、一言では表現できない複雑な感情が浮かんでいるような気がした。


「今どこで何してるのかしらね。……お母さんね、今でも時々思うのよ。あの時、もっとカオルくんのために何かできたんじゃないか、って」

「……」

「あの頃はどこに相談すれば良いかもわからなかったし、警察に通報するのも大袈裟かなって……。うちで引き取るにしたって、猫の仔をもらってきて育てるのとは訳が違うでしょ」


 親父は年がら年中単身赴任で家を留守にして、宗近も思春期真っ只中の生意気盛りで、きっとお袋は寂しかったのだろうと今ならわかる。

 いつの頃からか、お袋はカオルを巻き込んで三人で家族ごっこをし始めた。

 でも、三年前の宗近はクソみたいな精神年齢のガキで、お袋に促されておずおずと宗近のことを「お兄ちゃん」、お袋のことを「お母さん」と呼んだあいつに……。


(なんで俺はあの時、「お前なんか弟じゃねえ」って言っちまったんだろうな)


 胃のずっと奥に、重たい石が居座っているような気がする。

 多分きっと、実の子である宗近よりカオルを可愛がるお袋が面白くなかったとか、たまたま腹の虫の居所が悪かったとか、そんなくだらない理由だと思う。

 言ってから『しまった』と思っても、後の祭り。口から飛び出した言葉は消せない。カオルは大きな瞳いっぱいの涙を浮かべ、しゃくりを上げながら『ごめんなさい』と何度も謝っていた。宗近が悪いのに。ビクビクと怯えるカオルに何故かイライラして、結局宗近は最後まで素直に謝ることなんてできなかった。

 そんで……その日から、カオルはうちに顔を出さなくなった。


「……結局、どこにいっちゃったんだろうね、カオルくん」


 もちろん、目に入れても痛くないほどカオルを可愛がっていたお袋は鬼婆と化して、目ん玉が飛び出るほど痛いゲンコツをしこたまお見舞いされた。今でも頭を触ると、ぽこっとたんこぶが残っている。

 カオルの様子から家庭環境をなんとなく察していたお袋は慌てて行方を探して、カオルが都内の児童相談所に保護されたらしい……というところまでは突き止めた。けれど、親戚でもなんでもないお袋が問い合わせても、『個人情報だから』とはっきりとしたことは教えてくれなくて、それきり。

 ……だったというのに、そのカオルが大人になって、今、目の前で笑っている。相変わらず痩せ気味だけど、あの頃とは比べ物にならないほど、血色の良い顔で。


(本当に生きてたんだな)


 実家の前をうろちょろしていた不審な男がカオル──薫だとわかって、まずはじめに宗近が思ったことは、そんな身も蓋もない感想だった。

 当時、子供だった宗近はわからなかったけれど、大人になった今は違う。骨が浮き出るほど細い体を、いつ洗濯したかもわからないヨレヨレかつブカブカな服で誤魔化していた意味を、正しく理解していた。

 ましてや、宗近はカオルのことをきっかけに大学で児童福祉を学び、この春から児童相談所に勤めはじめた身だ。最悪のケースに至ってしまった例をいくつも知っているだけに、腹の底から武者震いみたいな安堵が込み上げてくる。


「……本当に、元気そうで良かったわ」

「僕、児相に数ヶ月お世話になったあと施設に入って、この春卒園したんです。今は二十三区で地方公務員をしてて……」

「あら、宗近と同じなのね」

「わあ、そうなんだ。じゃあ、どこかで一緒にお仕事する機会があるかもしれないね」


 ニコニコと屈託なく笑う薫に、宗近は黙って頷く。

 正確にいうと宗近は福祉局、東京都の職員だ。分類でいうと国家公務員になる。一見すると接点はないように思えるが、場合によっては家庭・市区町村・学校・児童養護施設などと広く連携する必要がある。

 だから、連絡先を聞いても不自然ではないはずだ。


「スマホ、出せ」

「え?」

「これ、俺のLINE。お前のは?」

「あら、いいわね。私とも交換しましょう」


 目を白黒させる薫と、やや強引に連絡先を交わす。『木田家』というグループを新しく作って、お袋と薫を招待する。


「今度、飯でも行こうぜ。奢る」

「あら、だめよ。それだと、私だけ仲間外れになるじゃない。うちでご飯でも食べていきなさい。薫くんは何が好き? おばさん、張り切って腕を振るうわよ」

「……うぜえ」


 あの日のことを、改めて謝りたい。とはいえ、お袋の前で頭を下げた日には、百パーセント茶化される。だから二人きりになりたいというのに、お袋は子供みたいに駄々をこねた。

 そんな俺たち親子に薫は目をぱちくりさせると、花が咲いたように笑う。その笑顔が可愛くて、俺は思わず目を細めた。


 ***


「すまなかった」

「……? あの……僕、なんで宗近くんに謝られてるの?」


 おばさんに誘われるがままにお昼をいただいて、午後は体験教室。終わったらあれよあれよといううちにお夕飯にまで誘われてしまった。

 そして、食後の一服でも……とタイミングで、おもむろにおばさんが「あんたは薫くんに謝ることがあるでしょ!」と宗近の後頭部を平手で叩いたのだ。

 小気味良いスイングと心当たりのない謝罪に、薫は目を瞬かせる。


「昔……俺が『お前なんか弟じゃねえ』って言ったことがあっただろう。あれからお前がうちに来なくなって、どこかで垂れ死んでるじゃないかって心配した。し……後悔もした」

「ああ。そういえば、そんなことあったね……」


 ふと、観客である現在の自分が、半透明のベール越しに過去の自分の記憶を除いているような感覚に襲われる。

 確かに当時は泣くほど悲しかったような気がするけれど、「言われても仕方ないな」と冷静に思う。

 それくらい、当時の僕はこの家に入り浸っていた。この家の本当の子供である宗近にとっては、きっと面白くない状況だっただろう。


「もう気にしてないよ」


 薫がそう言うと、宗近はどこか納得していないような表情を浮かべた。

 いつもムッとした表情の宗近には嫌われていると思っていたから、気にかけてくれていたことも、律儀に謝ってくれたことも嬉しかった。


「まあ、お前がそう言うなら……」


 仲直りの証、だろう。宗近が薫の頭へと手を伸ばす。一瞬、身構えてしまって、薫の肩が揺れた。宗近も、薫の警戒を感じ取ったのだろう。手がほんの少し止まった……と思った次の瞬間、大きな手のひらで乱暴に髪をかき混ぜられた。


「ま、おいおい慣れてきゃ良いだろ」


 その言葉の通り、コワモテな見た目から想像がつかないほど、宗近はスキンシップが多めだった。

 今もせっせと編み物に精を出す薫の肩に頭を預けて、難しそうなビジネス書を読んでいる。時折、宗近の毛先が頬をくすぐって、こそばゆい。それに気づいた宗近は片手で薫の頬をさすると、声を出さずにうっすらと口の端を上げた。


「マフラー、できたのか」

「う、ううん……。あともうちょっと……」

「そうか」


 眼光が鋭い見た目のせいで損をしている宗近は、実は一度懐に入れた者には驚くほど優しい。

 はじめは百八十度違う態度におっかなびっくりな薫だったけれど、近頃は宗近の笑みを目にするたびに、なんだか胸がギュッと鷲掴みにされるかのような、恥ずかしてくたまらない気持ちになるのだ。


(耳、熱い……)


 薫はこっそり耳に手を当てて、熱を覚ます。

 早いもので再会から約四ヶ月が経った。体験教室から正式に入会して、月二回のはずがおばさんに押し切られる形で月四回、つまり毎週の恒例に。あまりにも申し訳なくて月謝だけはちゃんと支払っているけれど、秋が過ぎて冬になり、新年を迎える頃には、教室が終わった後に三人で夕飯を食べて、二十一時ごろにお暇する……というのがすっかり当たり前になってしまった。

 近頃では、おばさんからも宗近からも『部屋は余っているから、いつでも引越してきて良い』なんて言われるようになってしまった。

 お世辞を間に受けて、図々しく他所様のご家庭に入り込んじゃいけない。そう自分を戒めて固辞しているけれど、与えられるぬくもりがあまりにも温かくて、週一回の団欒の時間だけはずるずると続けてしまっている。


(だって、帰っても一人だから……)


 なんだかんだ言って、施設のみんなは他人の寄せ集めでも、少なくとも常に誰かがいた。けれど、卒園してからは、「ただいま」と言っても誰も「おかえり」とは返してくれない。眠りが浅くてちょっとしたことで起きてしまう薫は、夜泣きで叩き起こされることがなくなった反面、寂しくて闇に飲まれそうな夜に、子供の体温でホッとすることもできなくなってしまった。

 だから、木田家から一人暮らしの部屋に帰る時間は、いつも気が重い。


「うー……。寒い」


 今年の冬は大寒波らしく、雪こそ降らないものの体の芯まで冷える。

『泊まっていったら?』という好意を何とか断って家路についたものの、良くいえば閑静な、悪く言えば人っこひとり見当たらない暗い夜道に、『やっぱり泊まっていくべきだったかな……』と薫はほんの少し後悔した。


(でも、僕、男だし……)


 女性ならいざ知らず、男の自分がそうそう危ない目に遭うことはないだろう。そう高を括っていたのに、カツンと背後から響いた足音に口から心臓が飛び出そうになった。

 きっとたまたま通る道が同じなだけ……と思いつつ、わざと角を一回、二回曲がってみても、背後の気配はついてくる。薫はスマホの時計を確認するふりをして、画面の反射に目を凝らした。薄暗くてわかりづらいけれど、ぼんやりと全身黒い服の男の姿が映る。


(ど、ど、ど、どうしよう……!)


 恐ろしさのあまり手が震える。交番は遠く、110番通報すれば男に気づかれる距離だ。だからと言って家に駆け込むのが最悪手だということは、さすがの薫でもわかる。


(そうだ……コンビニッ)


 この道を少し歩くと、地元民しか知らないような超穴場のコンビニがあるのだ。早足になりそうな気持ちを抑えながら、あくまでもはじめから目的地だったかのようにコンビニに足を踏み入れる。

 店内を物色するふりをしながら、薫はしばらく時間を潰した。薫の後に客はなく、店員が暇そうにレジに突っ立っているだけだ。


(……気のせい?)


 心臓の鼓動が落ち着いてくると、フーッと知らず知らずのうちに詰めていた息を吐いた。センチメンタルな気分から、少し神経過敏になっていたのだろう。

 そう結論づけつつも、周囲を警戒しながら薫は足早に家へと帰る。

 しっかり鍵とチェーンをかけたところで、薫はもう大丈夫だと安心してしまった。すっかり遅くなってしまったのでさっとシャワーを浴びて、布団に潜り込む。うとうとしはじめた夜更けすぎ、薫はトントントン……と誰かが階段をのぼる音で目が覚めた。

 薫が住むワンルーム一間のアパートは、二階建てで各階に部屋が二戸しかない。一年近く住んでいるから、下の階や隣の部屋の住人とは、親しくはないけれど何度か顔を合わせたことがある。極力家賃を抑えた都合上、若い薫をのぞいていずれも定年過ぎの老人ばかりだ。こんな夜中に帰宅したことなんて、覚えている限り一度もない。


(まさか……)


 物音を立てないように、最新の注意を払って薫は体を起こす。暗闇の中、じっと玄関を睨みつける。すると、静かにドアノブが回った。軽く引いて、しっかり鍵が閉まっていることがわかったのだろう。かすかに『チッ』と舌打ちが聞こえた気がした。

 一部始終を目撃した薫は、悲鳴をあげそうな口を必死で押さえつけた。けれど、抑えきれない恐怖が、ガタガタと唇を震わせる。


(な、なんで……。誰? さっき、僕の後をついてきていた男……? 鍵をかけてなかったら、僕は今頃……)


 怖い。暗闇が恐ろしくて堪らない。今にも誰かが扉や窓を突き破って入ってくるのではないかと、妄想が現実味を帯びて襲ってくる。


「誰か、助けて……」


 薫は枕元に置いていたスマホを、手繰り寄せる。画面をつけると、『無事に帰れたか』と宗近からメッセージが届いていた。そのメッセージを目にした途端、堪えていた涙が堰を切ったかのように溢れ出した。

『深夜だから迷惑になるかも』なんて理性も吹き飛んで、薫は衝動のまま宗近に電話をかける。

 三〜四コールして、いつもより眠たそうな低音が耳に響いた。


「薫? どうした?」

「ヒック……ヒック……宗、近く……」


 何か応えなきゃとは思うのに、うまく言葉にならない。尋常ではない薫の様子に気づいたのか、宗近のひどく慌てた様子が電話越しから伝わってきた。


「何かあったのか? ……いや、無理に話そうとしなくて良い。とにかく、すぐ迎えに行く」

「うん……うん……」


 布団に丸まって、宗近の声だけを感じながら、恐怖をやり過ごす。どれくらい時間が経っただろうか。一時間もしなかったはずなのに、随分と長く待ったような気がする。


「着いたぞ」


 ずっと繋がっていた電話越しと同じ声が、玄関の外から聞こえた。転げるように玄関の覗き穴を確認して、扉を開ける。

 寝癖のついた髪に、見慣れないメガネをかけたスウェット姿の宗近に、薫は矢も盾もたまらずに抱きついた。


「う、うわあ〜ん。怖かったよぅ……!」

「よしよし。もう大丈夫だ」


 宗近は本当に急いで駆けつけてくれたのだろう。筋肉質な胸板は冬なのに服越しでもわかるほどの熱を発していて、うっすらと汗ばんでいた。

 頼り甲斐のある広い胸にしっかりと抱かれて、薫は幼い子供に返ったかのように大声で泣いた。


 ***


 辛抱強く薫から話を聞き出した宗近が警察に通報してくれて、深夜だからと玄関先で簡単な事情聴取を受ける。現段階では明らかな被害がないから、しばらく近隣のパトロールを強化するくらいしかない、と申し訳なさそうに告げた警官に、宗近が剣呑な雰囲気を醸し出したのがわかった。


「……薫。とりあえず、二〜三日分の着替えと貴重品だけ持って、うちに行くぞ」

「で、でも……」

「でもじゃねえ。こんなセキュリティペラッペラの家に、お前一人を残して帰れるか」


 宗近は普段の倍以上、ムスッとした表情で吐き捨てるかのように言うと、手早く薫の荷物をまとめて、薫ごと車に乗せた。

 そうして、まだ更新まで一年あるというのに、気がつけば薫はアパートを解約して、木田家に身を寄せることが決定していたのだ。


「いいのかなぁ……」


 なし崩し的に木田家での同居生活がはじまって、早一ヶ月。

 転居届を出して、やっと慌ただしさが落ち着いてきた薫は、まだ見慣れない天井を見上げながらぽつりと独り言を呟いた。

 宗近は『金を貯めて、セキュリティの良い部屋を借りる目処がつくまで、うちにいたら良い』なんて言葉とは裏腹に、特に帰りが遅くなりそうな夜は自分も忙しいはずなのに迎えに来てくれたり、家でも傍から離れようとしない。まるで年頃の娘を持つ父親みたいに過保護だ。

 おばさんも反対するどころか、『息子が一人増えたみたいだわ! ずっといてくれて良いのよ?』と両手をあげて歓迎してくれている。

 しっかり自分に言い聞かせないと、本当に居着いてしまいそうだ。


「なんで二人とも、こんなに良くしてくれるんだろう……」


 おばさんや宗近からしてみれば、薫は赤の他人だ。身寄りもお金もない薫を助けたって一銭の得にもならないのに、当たり前のように手を差し伸べてくれる。


「やだなあ……」


 こんな無償の優しさを、温かさを知ってしまったら、どうしたって一人に戻りたくなんかないと思ってしまう。

 家族とか友達とか恋人だとか。母に捨てられて施設で育った自分が、手に入れられるわけがない。それなら遠く離れた場所から、眺めているだけで良かった。

 誰かの都合で気まぐれに与えられて、気まぐれに取り上げられるくらいなら、いっそ知らないままでいたかった。

 寝返りを打ち、目頭を押さえつけた枕がじんわりと湿り気を帯びる。

 明日も仕事がある。以前の住まいと比べると通勤時間がかかるから、少し早めに起きなけれどばいけない。頭ではわかってはいるのに、一向に眠気は訪れてくれなかった。


「……薫」


 静かな声が降り注ぐ。「ちょっと壁際に詰めろ」と言われるがままに端に寄ると、宗近が布団の中へと入ってきた。

「ほら」

 腕を広げた宗近の胸元に、薫は条件反射ですり寄る。一度この腕の中の圧倒的な安心感を知ってしまったら、抗えない。パブロフの犬みたいだ。


「なんで……?」

「お前が泣いている気がしてな」


 筋肉量が多いと、体温が高いという話は嘘じゃない。暑いほどの肉布団に包まれて、少し早い心臓の音を聞いていると、だんだんと荒れ狂う嵐みたいな気持ちが凪いでくる。

 とろとろとした眠りに身を委ねる直前、柔らかな感触がおでこ、まぶた、頬と順に触れるのを感じた。


(気持ち良い……)


 ふふと思わず笑うと、唇にも柔らかな感触が触れる。


「お休み」


 お休み、とちゃんと返せただろうか。薫は幸せな気分のまま、睡魔に逆らうことなく夢の中へと落ちていった。


 ***


 <Side 宗近>


 むにゃ……と赤ちゃんみたいにすやすや眠る薫の寝顔を眺めた後、宗近はもう一度唇を落とした。


(安心しきった顔で眠ってくれやがって)


 性的嗜好はストレートだと思っていただけに、女みたいに華奢とはいえれっきとした野郎を抱きしめている自分に驚く。

 この気持ちに名前をつけるとしたら何が一番正解かなんて、宗近本人にもわからない。庇護欲や家族愛だけなら良かったのに、厄介なことに独占欲や性愛も入り混じっている。

 はじめは、罪滅ぼしの割合が大きかった。これでも、児童福祉司の端くれなのだ。施設を卒園したからと言って、卒園生の未来が明るいかと問われれば、決してそうではないことを知っている。

 施設の職員というストッパーがいなくなったことで生活や金遣いが荒れ、せっかく就いた仕事を辞めてしまった結果、水商売に身をやつしたり、借金を背負ったりする者がいることは隠しようのない現実だ。なかには精神を病んで、生活保護や病院のお世話になったり、最悪自らの手で命を終わらせたり……ということもある。

 薫は想像以上にしっかりとしているけれど、身寄りがない分、いざというときに助けを求められる先が限られてくる。

 だから、その時は率先して手助けをしてやろう、くらいの気持ちだった……はずなのに、何がどうしてこうなったのか。


(クソッ。可愛いな……)


 大切に懐にしまいこんで慈しみたい気持ちと、今すぐ肌を暴いて滅茶苦茶にしたい気持ちがせめぎ合う。

 愛情を十分に受けられずに育った子供の特徴として、誰かを愛したり愛されたりすることを拒絶するタイプと、反対に過剰に求めるタイプ、その両方の特徴を併せ持ったタイプの三種類に分かれると言われている。いわゆる『愛着障害』というやつだ。

 薫は他人を信じられず、うちにうちにこもってしまう傾向がある。

 卒園してから知らず知らずのうちに募らせていた寂しさが、俺たちとの出会いや不審者事件の影響で一気に爆発したのだろう。

 自分が傷つくことを恐れて、俺たちを信じたいのに信じられず、そんな自分にさらに傷つくという負のループに入りかけている。


(馬鹿だよなあ……)


 宗近はとっくに薫がどんなに否定しても愛して、手放してなんてやらないと覚悟を決めているのに。

 そんなところも可愛いと思ってしまう宗近は、手の施しようがないほど重症だろう。

 とはいえ、薫はまだ十九歳。法律上は成人していて結婚もできるとはいえ、良い大人としては二十歳まで待ってやるのがけじめだ。


「まずは一年かけて、ゆっくりじっくりわからせるか……」


 宗近はそれはそれで楽しみだと、口角を上げる。

 そして、モゾモゾと据わりの良い位置に薫を抱え直すと、ゆっくりと瞳を閉じた。

投稿と同内容+二人の初夜?(初出)を収録した同人誌を、2026年11月8日(日)開催の文学フリマ東京で頒布します。(南1-2ホール | K-84 (小説|BL)/A5/500円)

※身内バレ回避のため、BLは別名義で投稿しています。

よろしければお手に取っていただけると嬉しいです。

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