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聞かなかった人たち

一度、言われました。みっともないと思いました

作者: 紬 律
掲載日:2026/08/27

「お姉様。わたし、ラインハルト様と結婚いたします」


 夕食の席でそう言ったとき、お姉様はスプーンを置いた。


「そう」


 それだけだった。


「……怒らないの?」


「怒る理由がないもの」


 わたしは少し拍子抜けした。もっと何か言われると思っていた。泣かれるかもしれないと思って、そのときの言葉まで用意していた。


 お姉様は強い方だ。


 三年も婚約していた方を妹に取られて、それでもお顔色ひとつ変えない。わたしにはとても真似できない。


 わたしは少しだけ、お姉様を尊敬した。


 お母様が身を乗り出した。


「まあ、エミーリア。本当なの」


「本当よ、お母様。ラインハルト様が、わたしにって」


「伯爵家よ。あなたが伯爵家の奥様になるのよ」


 お母様の声が震えていた。


 お父様は何もおっしゃらなかった。一度だけお姉様のほうをご覧になった。


「テレーゼ。お前は」


「わたくしは構いません」


 それで話は終わった。


 お父様はお姉様に確かめられた。お姉様が構わないとおっしゃったので、それで決まった。


 お姉様が譲ってくださったのだ。


 わたしは十六。ラインハルト様は二十二。伯爵家のご令息で、三年前からお姉様の婚約者だった。


 奪ったつもりはない。


 ラインハルト様がわたしを選んだのだ。わたしは選ばれただけだ。選ばれたほうが悪いということはない。


 それにお姉様には、救貧院がある。


 お姉様はあの場所がお好きなのだ。十四のときからずっと通っていらっしゃる。伯爵家に嫁いだら、あんなふうには通えない。


 だからこれは、お姉様のためでもある。


 その夜は、それでよく眠れた。


 翌朝、部屋で新しい髪飾りを合わせていた。そこへお姉様が来る。


 扉が三つ鳴った。お姉様はいつも三つ叩く。


「入ってもいいかしら」


「どうぞ」


 お姉様は扉のところに立ったまま、こうおっしゃった。


「エミーリア。三つ、伝えておきたいことがあるの」


「なあに」


 わたしは鏡のほうを向いたままだった。


「一つめ。フェルディン伯爵家にはお金がありません」


 髪飾りを持つ手が止まった。


「うちの救貧院に、去年から七人が泊まっています。もとはフェルディン家で働いていた人たちよ。給金が半年出なかったからよ」


「……そんなの」


 嘘だ、と思った。


 伯爵家が使用人に給金を払えないなんてことがあるものか。


「二つめ。ラインハルト様には、お子様がいらっしゃるわ」


 わたしは振り返った。


「二歳の男の子。名前はトビアス。母親はマルタといって、もとはあちらの下働きよ。会いたければ、いつでも会わせるわ」


「お姉様——」


 名前まで用意していらっしゃる。


 嘘というのは細かいところまで作るものだと、わたしはそのとき知った。


「三つめ。フェルディン家の小切手は、もうどこの銀行も受け取りません」


 銀行のこと。


 わたしに分かるはずのない話だった。


 お姉様は数字のお話が得意でいらっしゃる。わたしが分からないと知っていて、それをお選びになった。


 言い返せない話を選んで並べる。それはずるいのではないかしら。


 わたしは髪飾りを鏡台に置いて、お姉様のほうを見た。


 三つとも、確かめようがない話だった。


 救貧院にいる人が何を言ったか。よその家に子がいるか。銀行が何を断ったか。


 どれもお姉様だけが見てきたことで、わたしには行けない場所の話だ。


 強いと思っていたお姉様が、こんな稚拙な嘘をおつきになるなんて。


 夕食の席では、あんなに静かでいらっしゃったのに。


 お顔色ひとつ変えないと思っていたけれど、そうではなかったのだ。部屋に戻ってから、三つも考えていらっしゃったのだ。


 お可哀想に、と思った。


 三年も婚約していたのだ。悔しくないはずがない。


 だからわたしは、お姉様のためを思ってこう言った。


「……お姉様。わたし、分かってるの」


「何を」


「お姉様が悔しいのは、分かるの。三年も婚約してたんだもの。でもね」


 わたしは微笑んだ。優しく言ったつもりだった。


「そういうことを言うのは、みっともないと思う」


 お姉様は頷いた。


「分かったわ」


「怒ってないよね?」


「怒っていないわ」


 お姉様は立ち上がって、扉のところで振り返った。


「お幸せに」


 わたしは笑って、手を振った。


 扉が閉まる。


 最後まで、お姉様は一度も声を荒げなかった。


 わたしは鏡に向き直って、髪を梳かす。


 うまくやれた。


 お姉様を傷つけずに、こちらの言い分も伝えられた。大人になったのだ。


 お姉様が嘘をおつきになるほど参っていらっしゃるのなら、わたしのほうが折れてさしあげるべきなのだろう。


 伯爵夫人になったら、救貧院にお金を出してさしあげよう。年に一度でいい。


 そうすればお姉様も、あんな嘘をおつきにならなくて済む。


 わたしは新しい髪飾りを鏡台に戻して、朝の支度を続けた。






 お姉様が出ていったあと、わたしはお母様の部屋へ行った。


「お母様。お姉様が変なことをおっしゃるの」


「何を」


「フェルディン家にはお金がないって。ラインハルト様にお子様がいるって」


 お母様は鏡台の前で髪を結わせていらした。侍女の手も、お母様の手も止まらなかった。


「そう」


「本当かしら」


「エミーリア」


 お母様は鏡越しにわたしをご覧になった。


「伯爵家よ」


「……はい」


「向こうは伯爵家なの。こちらが尽くすものよ」


 わたしは頷いた。


 お母様がそうおっしゃるなら、そうなのだろう。


 お母様は世の中のことをよくご存じだ。伯爵家のこともご存じだ。お姉様は救貧院のことしかご存じない。


 どちらを信じるかと言われれば、決まっている。


 思い返せば、お母様は前から同じことをおっしゃっていた。


 去年の秋ごろからだ。お茶の時間だった。刺繍の手を止めて、こんなふうに。


 『エミーリア。あなたのほうがふさわしいわ』


 『テレーゼには、あの救貧院があるでしょう』


 冬には、こうもおっしゃった。


 『テレーゼは十四のときからあそこを一人でやっているのよ。立派だわ。あの子には、あれがあるの』


 あるの、という言い方だった。


 ないのは誰なのかは、おっしゃらない。


 お姉様を悪くおっしゃったことは一度もない。ただ、お姉様には別の場所があるという言い方だった。


 そのとおりだ。


 わたしがこの家に来たのは四年前だ。お母様に連れられて、秋に来た。先の奥様が春に亡くなって、その年のうちだ。


 着いた日、お姉様は屋敷にいらっしゃらなかった。夕方に帰ってこられて、外の服のまま広間に入ってこられる。救貧院から戻られたところだった。


 初めてご挨拶したとき、お姉様は『ようこそ』とおっしゃった。それだけ。


 嫌われているのだ。


 嫌われていたのではないと分かったのは、しばらくしてからだ。お姉様は、どなたにもああなのだ。


 四年のあいだ、お姉様はずっとあの場所へ通っていらした。雨の日も雪の日も出ていかれた。


 お姉様にはあの場所がおありで、わたしには何もない。だからこちらへお話が来たのだ。


 ラインハルト様が初めていらしたのは、わたしが来た翌年だ。


 十三のわたしは、階段の上から見ていた。


 背が高くて、笑うと目尻が下がる方。その方が三年のあいだ、ずっとお姉様に会いにいらしていた。


 三年見ていて、今年こちらを向いてくださった。


「エミーリア」


 お母様は櫛を置いた。


「持参金のことは、こちらで用意すると申し上げてあるの」


「うちにそんなお金があったかしら」


「あるわ」


 お母様は笑った。


「心配しなくていいのよ」


 わたしは訊かなかった。


 お母様がおありだとおっしゃるなら、あるのだろう。






 四月に婚約が整った。


 お姉様との婚約の解消と、わたしとの婚約の締結が同じ一通の手紙で来た。


 紙は一枚。上半分にお姉様の名前があって、下半分にわたしの名前があった。


 お母様はその紙を三度読んで、それから胸に当てた。


「エミーリア。伯爵夫人よ」


 ドレスの仕立て屋が来た。宝飾商も来る。屋敷に人が出入りする日が続いた。


 仕立て屋は三度来て、そのたびに生地を広げた。宝飾商は首飾りを二つ持ってきて、両方置いていく。


 支払いはすべてうちが持った。


「向こうは伯爵家だから、こちらが尽くすものよ」


 お母様はそうおっしゃった。そういうものなのだ。


 鏡の前で生地を当てられているあいだ、わたしはずっと同じことを考えていた。


 秋になれば、わたしは伯爵夫人と呼ばれる。


 街を歩けば道を空けてもらえる。教会では前のほうに席が用意される。お茶に呼ばれたら、いちばん上座に座らされる。


 去年までわたしを「あちらの下の娘さん」と呼んでいた方々が、来年には奥様とお呼びになる。


 その顔を見るのが、少し楽しみだった。


 お姉様は式の話に一度も加わらない。朝に救貧院へ出て、夕方に帰ってくる。


 夕食の席で、わたしは一度だけ訊いてみた。


「お姉様。ドレスの色、どちらがいいと思う」


「あなたが着るのだから、あなたが決めるといいわ」


「そうよね」


 それだけだった。


 お姉様は式のことに口を出さない。出せないのだ。


 出せば、またみっともないことになるからだ。


 お姉様は、そういうところは分かっていらっしゃる。


 お姉様は怒っていないと言った。本当に怒っていないように見える。


 わたしは安心した。


 安心してから、少しだけつまらなくなった。






 五月、ラインハルト様が屋敷にいらした。


 三月からこちら、お会いするのは十四度目。けれど屋敷にいらしたのは初めてだった。それまではいつも叔母の屋敷か、教会の前庭だ。


 客間でお茶を出した。手が震えないように気をつけた。


「エミーリア嬢。お加減はいかがです」


「おかげさまで」


 お母様が隣で微笑んでいらした。お父様も同席なさった。


 しばらく話したあと、ラインハルト様がこうおっしゃった。


「そういえば、姉上は」


「お姉様ですか」


「ご挨拶をしておきたい」


 お母様が使用人に声をかけた。


 お姉様は二階から降りてこられた。客間に入って、扉の近くに立った。


「テレーゼ嬢。ご無沙汰しています」


「ご無沙汰しております」


「このたびは……その、なんと申し上げてよいか」


「お気になさらないでください」


「あなたにそう言っていただけると、救われます」


 お母様が満足そうに頷かれた。わたしも頷いた。


 立派な方だ。


 こういうとき、何もおっしゃらずに済ませる方もいらっしゃるだろう。ラインハルト様はそうなさらなかった。言いにくいことを、ちゃんと言いにくそうにおっしゃった。


 茶が出た。ラインハルト様は話が上手でいらっしゃる。王都の劇場の話、狩りの話、去年の舞踏会の話。お母様は何度もお笑いになった。


 三十分ほどして、ラインハルト様がこうおっしゃった。


「そういえばテレーゼ嬢。ご学友のクレーマー嬢が、秋に十八になられるとか」


「ええ」


「あなたも同じ年でしたね。お誕生日はいつでした」


「九月です」


「九月」


 ラインハルト様は繰り返された。


「そうか。九月ですか」


 それだけ。すぐ別の話に移られた。お母様はまたお笑いになる。わたしも笑った。


 茶が空になったころ、お姉様が口を開かれた。


「ラインハルト様。フェルディン領の今年の麦は、いかがでした」


 部屋が止まった。


 わたしは驚いた。


 お姉様が何をおっしゃっているのか分からなかった。麦の話など、この場に何の関わりもない。


 ラインハルト様はカップを置かれた。それから微笑まれた。


「……よく実ったと聞いている」


「そうですか」


 お姉様はそれだけおっしゃった。


 お母様が話題を戻される。ラインハルト様も戻された。


 わたしは頬が熱くなった。


 三月の朝のことを思い出す。お姉様はあのときも、こちらの分からない話をお選びになった。


 まだ続けていらっしゃるのだ。


 伯爵家のご令息を、麦の話で困らせようとなさった。上手くいかないから、それきりお黙りになる。


 みっともない、とまた思った。


 馬車が出ていったあと、わたしは玄関で手を振りながらお姉様に言った。


「お姉様にも、ちゃんと気を遣ってくださるのね」


「そうね」


「わざわざ呼んでくださって。お優しい方でしょう」


「そうね」


 それだけだった。


 わたしは嬉しかった。


 自分の選んだ方が、婚約を解消なさった相手にまで礼を尽くしてくださる。普通なら顔も合わせたくないはずだ。それをわざわざお呼びになって、お誕生日まで訊いてくださった。


 お祝いを贈るおつもりなのかもしれない。


 そう思いついたとき、わたしは自分の選んだ方をますます好きになった。


 その晩、わたしはお母様に言った。九月にお姉様のお誕生日があること、ラインハルト様がそれを気にしておられたこと。


 お母様は、そうと一度おっしゃっただけだった。






 六月になって、手紙が来なくなった。


 五月までは十日に一度は届いていたのに。それが二週間空いて、三週間空いた。


 わたしは三度こちらから出した。


 一通目は近況を書いた。二通目は式の日取りのことを書いた。三通目には、お加減が悪いのではありませんかと書いた。


 返事は来ない。


 やっと来た手紙には、四行しか書かれていなかった。


 式の支度を早めたいので、持参金を先に頂きたい。


 それだけだった。わたしの名前は上にあったけれど、本文にわたしのことは一つも書かれていなかった。


 お母様にお見せした。


「まあ。お式を早めてくださるのね」


「そう思う?」


「そうよ。お急ぎなのよ」


 お母様は嬉しそうだった。


「ね。お急ぎなのよ」


「そうかしら」


「そうよ。若い方だもの」


 わたしはその手紙を、夜に何度か読み返した。


 四行のうち、三行が持参金のことだった。残りの一行は日付だった。


 持参金のことばかり書いてあるのは、それだけお式を急いでいらっしゃるからだ。


 わたしのことを書いてくださらないのは、書かなくても分かっているからだ。近しくなれば、手紙は短くなるものだと聞いたことがある。


 文字が少ないのは、心が近い証だ。


 わたしはそう読むことにして、手紙を引き出しにしまった。


 わたしも、お急ぎなのだと思うことにした。


 お母様はその場で返事をお書きになった。用意いたします、と。


 夕食の席で、わたしはお父様に訊いてみた。


「お父様。持参金は、うちから出せるものなの」


 お父様は皿から目を上げなかった。


「出せる」


「そんなにあったかしら」


「ある」


 それだけだった。


 お父様は一度も皿から顔をお上げにならなかった。


 最初から決まっていることを訊かれた人の答え方だった。


「お父様。わたしでよかったのかしら」


 お父様は皿に向かったままだった。


「縁が続けばよい」


「……え」


「もう行きなさい」


 励ましてくださったのだ。


 案じることはない。縁は続くのだから、と。


 お姉様は皿に向かったまま、何もおっしゃらなかった。






 七月の初め、噂を聞いた。


 フェルディン伯爵家に差し押さえが入ったという話だった。


 街で聞いたのではない。屋敷の洗い場の女たちが話しているのを、廊下で聞いた。


 差し押さえというのが何のことなのか、わたしはよく分からない。ただ、女たちの声の高さでよくないことだと分かった。


 わたしはお母様に走った。


「お母様。ラインハルト様のお家が」


「噂よ」


「でも」


「エミーリア。伯爵家よ」


 お母様は刺繍の手を止めなかった。


「そういうお家は、少し傾いても必ず戻るの。付き合いのある方が違うのよ。あなたが心配することではないわ」


「……はい」


「向こうは伯爵家だから、こちらが尽くすものよ」






 七月の半ばに、一度だけお会いできた。


 教会の前庭。三度こちらから文を出して、四度目にやっと返事が来た。


 ラインハルト様は先に座っていらした。


「エミーリア嬢」


「お久しゅうございます」


 わたしは前の晩に髪を洗った。青い上着を出した。三日前から何を話すか考えていた。


 ラインハルト様は窓の外をご覧になっている。


「持参金は、まだですか」


「……お母様が、用意すると」


「いつです」


「秋には」


「秋」


 ラインハルト様は繰り返された。それから茶を一口飲まれる。


 わたしは劇場の話をした。先月読んだ本の話をした。式に着るドレスの生地が決まったことを話した。


 ラインハルト様は頷いていらした。


 窓のほうを向いたまま。


 わたしは途中で気がついた。


 この方は、今日わたしの顔を一度もご覧になっていない。


 髪も、上着も、ご覧になっていない。


 三月に初めてこちらを向いてくださったときは、ずっとわたしを見ていらした。目尻の下がる笑い方をなさった。あれは、あのときのわたしを見ていたのだ。


 いま見ていらっしゃるのは、窓だ。


 半刻ほどで、ラインハルト様は立ち上がられた。


「では」


「あの」


 わたしは呼び止めた。


「わたし、何かいたしましたか」


 ラインハルト様はわたしのほうをご覧になった。


 その日、初めてだった。


「いや」


 それだけおっしゃって、店を出ていかれた。


 わたしは自分の部屋に戻って、鏡の前に座った。


 噂というのは、うらやましがる人が立てるものだ。


 男爵家の娘が伯爵家に嫁ぐ。それを面白く思わない方は、きっといる。


 差し押さえなどという言葉は、そういう方が思いつきそうな言葉だ。


 三月の朝のことを、少しだけ思い出した。


 お姉様は三つおっしゃった。一つめが、お金のこと。


 わたしは首を振って、髪をとかした。


 お姉様は悔しかっただけだ。


 そう思うことにした。


 思うことにしても、髪をとかす手が止まった。


 三月の朝、お姉様は数字を三つ並べられた。


 嘘をつく人は、数字を三つも用意するものだろうか。


 わたしは鏡から目を逸らした。






 七月の終わりに、わたしはお姉様の部屋へ行った。


 ノックはしなかった。


「お姉様、助けて」


 自分の声が知らない人の声のようだった。


「座って」


 お姉様は椅子を出してくださった。わたしは座らなかった。座ってしまうと、話す前に泣いてしまいそうだった。


「あの方が……ラインハルト様が、変わったの」


「どんなふうに」


「会ってくださらないの。手紙も来ないの。この前やっと来てくださったと思ったら、持参金はまだですかって。それだけなの。それしか言わないの」


 わたしは両手で顔を覆った。


「わたし、何かしたのかしら」


「していないわ」


「じゃあどうして」


 お姉様は立ち上がって、引き出しをお開けになった。


 紙を三枚出して、机に並べられた。


 わたしは顔を上げた。


「これは」


「三月十四日に書いたものよ」


 三枚とも同じ形をしていた。上に日付があって、下に署名があった。


 一枚目の宛名に、わたしの名前があった。


「エミーリア。順に説明するわ。長くなるけれど、最後まで聞いて」


 わたしは頷いた。


「あの方が欲しかったのはお金です。三年前からそうでした。フェルディン家がうちに縁談を持ってきたのは、わたくしが十八になった日に母の遺産を受け取るからです。家格ではありません。血筋でもありません。わたくし個人でもありません。お金です」


 わたしの手が下りた。


「お義母様が、持参金はこちらで用意すると仰ったの。原資は母の遺産で、しかも全額よ」


 お母様の櫛が鏡台に置かれる音を、わたしは思い出した。


 『持参金のことは、こちらで用意すると申し上げてあるの』


「あの方から見れば、お金の出どころは何も変わらないの。変わったのは花嫁だけ」


 唇が震えた。


「そして九月にわたくしが十八になれば、遺産はわたくし個人のものになるわ。お義母様にもお父様にも動かせなくなるの。あの方はそれを知ったのよ」


 立っているのが急につらくなった。


 膝の裏が冷たい。手のひらに爪の跡がついているのに、力を抜き方が分からなかった。


「……いつ」


「五月です」


 五月。


 客間。劇場の話。狩りの話。


 『あなたも同じ年でしたね。お誕生日はいつでした』


 『九月です』


 『そうか。九月ですか』


 あのあと、お姉様は麦のことをお訊きになった。


 わたしはそれを、みっともないと思ったのだ。


 そして玄関で笑った。


 お姉様にもちゃんと気を遣ってくださるのね、と。


「だから持参金はまだですかとしか言わなくなったの。あなたが何かしたのではないわ。最初から、あなたを見ていなかっただけよ」


 わたしは三枚の紙を見た。


 顔が歪むのが、自分で分かった。


「……お姉様。こうなるって、分かってたの」


「分かっていたわ」


「じゃあ、どうして」


「何が」


「どうして、もっと強く言ってくれなかったの!」


 お姉様はわたしをご覧になった。


「三度、言いました」


「一度でしょう!」


 叫んでから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。


「いいえ」


 お姉様は三枚の紙を、指で少しずつずらして並べ直された。


「あなたに言いました。お義母様に申し上げました。お父様にも申し上げました。同じ日に、三度です」


 三枚。


 わたしの名前。お母様の名前。お父様の名前。


「同じものをもう一部ずつ作って、翌日に公証人へ預けました」


「……なぜ、そんなことを」


「書かなければ、なかったことになるからです」


 わたしは何も言わなかった。


 言えることが一つもなかった。


 わたしは一度しか言われていない。それは本当だ。


 けれど一度でも、聞かなかったのはわたしだ。






 十月、わたしは嫁いだ。


 婚約を解消するという話は、一度も出なかった。


 お父様が三年前に連帯保証の書面に署名しておられて、婚約が消えればその請求がうちに来る。そう聞かされた。


 それにあの方のお子様の話が街に広まったあとで婚約を解消した娘に、次の縁談は来ないのだそうだ。


 わたしは選べる立場になかった。


 三月に選んだのは、わたしなのに。


 式は小さかった。招いた客の半分が来なかった。


 招いたのは四十人で、来たのは十九人だった。数えたのはわたしではない。お母様が数えて、三度言った。


 空いた椅子が並んでいるのを、わたしは高いところから見ていた。


 途中でお母様が使用人に言って、後ろの椅子を下げさせた。並べたまま置いておくと、来なかった人の数がそのまま見えてしまう。


 ラインハルト様は式のあいだ、一度もわたしのほうをご覧にならなかった。手を取るところでは取ってくださった。指が冷たい。


 お母様は泣いていらした。嬉しくて泣いているのだと、そこにいた誰もが思ったはずだ。


 馬車に乗る前、わたしはお姉様のところへ行った。


「お姉様」


「はい」


「あのとき、お幸せにって言ったでしょう」


「言いました」


「……あれ、皮肉だったの」


 お姉様は首を振られた。


「いいえ。本当にそう願っておりました」


「……」


「三度目に断られたときに、願うのをやめただけです」


 わたしは馬車に乗った。


 窓は開けなかった。






 十二月には、屋敷はもうなかった。


 領地は債権者の手に渡って、爵位だけが残った。わたしたちは街の借家に移った。


 部屋は二つ。暖炉は一つ。


 ラインハルト様は昼に出ていって、夜に帰らない日が増えた。持参金の話はもうなさらない。わたしの顔を見ることもあまりない。


 帰っていらしたときは、安い酒と安い香水の匂いがした。香水はわたしのものではない。


 実家も、屋敷と領地を失っていた。


 お父様が署名なさった紙のとおりに、秋に請求が来た。お父様とお母様は街のはずれの小さな家へ移られた。


 お父様は寝ついていらっしゃる。


 わたしに、帰る家はない。


 その月に、お母様がいらした。


 お母様は救貧院へ行かれたあとだった。四年間、一度も足を向けなかった場所だ。


「テレーゼのところへ行ったの」


「……何をお願いしたの」


「お金を。あなたが困っているのだから、当たり前でしょう」


「なんて」


「断られたわ」


 お母様は椅子に座って、両手を膝の上で組まれた。


「救貧院を法人にしたんですって。理事が三人いて、一人では動かせないって。書面がどうとか、公証人がどうとか」


 お母様の声が高くなった。


「あの子はいつもああなの。理屈ばかり並べて」


「お母様」


「あの子が遺産を出してくれていれば、こんなことにはならなかったのよ」


 わたしは黙っていた。


 暖炉の火が小さくなっていた。薪を足そうかと思って、残りが四本しかないのを思い出した。


「お母様。持参金のお話だけれど」


「なあに」


「原資は、お姉様がお受け取りになるはずだったお金なのよね」


 お母様は顔を上げられた。


「それが何」


「うちのお金ではなかったのよね」


「エミーリア」


 お母様の目が、少しだけ揺れた。


「あの家はあなたのものになるはずだったのよ。伯爵夫人になるはずだったのよ。わたしはあなたのためにやったの」


 わたしは頷いた。


 それは本当だ。


 お母様は、わたしのためにやった。わたしを嫌いだからでも、お姉様を憎いからでもない。わたしのためだと本気で思って、他人の娘のお金を差し出すと申し出た。


 愛してくださっている。


 愛してくださって、こうなった。


 だから責める言葉が見つからなかった。


 それでもこの方は、明日も同じことをおっしゃる。


 お姉様なら、順に説明できたのだろう。一つめ、二つめ、三つめと、最後まで。


 わたしにはその言葉がない。


 お母様は帰り際に、もう一度おっしゃった。


「向こうは伯爵家なのよ。もう少し辛抱なさい」


 伯爵家に、もう屋敷はない。


 お母様はそれを見てきたはずだった。






 春に、爵位が消えた。


 書面が一枚来て、それで終わりだった。フェルディン伯爵家はもうない。ラインハルト様は伯爵令息でもなく、伯爵でもない。


 伯爵夫人と呼ばれた日は、半年ほどあった。


 その半年で、道を空けてもらったことは一度もない。教会で前の席に通されたこともない。お茶に呼ばれたこともない。


 呼び名だけがあって、中身は一日も来ない。


 夏になって、わたしは市場の端にある乾物屋で働きはじめた。


 名前は変えた。エマと名乗った。


 本当の名を言えば、この街の誰かは知っている。落ちた家の名を出して雇ってもらうのは、こちらが恥ずかしい。


 落ちた家の女が店に出るなどと言う人もいた。言う人は薪を持ってきてくれない。


 仕事は量りと勘定と、袋詰めだった。


 朝は暗いうちに店を開けて、樽の蓋を全部持ち上げる。豆と麦と塩と、乾かした魚。蓋は重い。最初の三日で手のひらが二か所すり切れた。


 ラインハルト様は何もおっしゃらない。働くとお伝えしたときも、ああとだけおっしゃった。


 止められると思っていた。家の名に傷がつくと言われると思っていた。


 傷がつく名が、もうない。


 最初の月に、わたしは三度間違えた。豆の目方を間違えて、勘定を間違えて、釣り銭を間違えた。


 店の主人は怒らなかった。ただ、こうおっしゃった。


「書いときな」


「書く、とは」


「間違えたことを書いとくんだ。それだけだよ」


 わたしは紙を一枚もらって、帳場の裏に貼った。


 七月十一日、豆の目方。七月十九日、勘定。七月二十六日、釣り銭。


 八月になって、間違いは一度に減った。


 紙を見ていて、ふと思った。


 書かなければ、なかったことになる。


 お姉様がそうおっしゃったのは、七月の終わりだった。


 三枚の紙を見せられたときだ。


 あのときは、それどころではなかった。






 十月の朝、店に女の人が来た。


 救貧院の買い出しだった。麦と豆と塩を、まとめて量って渡す。月に二度来る決まりだそうだ。


 二十歳くらいの人だった。


 背は高くない。髪をきつく後ろでまとめていて、袖を肘まで上げていた。手の甲が赤くなって、ところどころ皮がむけている。冬の水を毎日使う人の手だった。


 その人は帳場の前に立って、書き付けを出した。


「救貧院から参りました」


「うかがっております」


「麦を五袋、豆を三袋、塩を一袋お願いします」


 わたしが量りに手をかけたとき、その人が名乗った。


「マルタと申します」


 わたしは量りの手を止めた。


 その名前を、わたしは知っていた。


 三月十四日の朝に、一度だけ聞いた名前だ。


「……エミーリアと申します」


 店では、エマと名乗っている。


 なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。


 その人は少しだけ目を伏せた。それだけだった。


「豆を三袋、お願いします」


「……はい」


 わたしは麦を量った。目盛りが合わない。合わないのは手が震えているからで、豆でも同じことになった。二度やり直した。


 マルタさんは急がない。待っているあいだ、店の奥の樽を見ていた。


 わたしは背中を向けたまま、この人がわたしを憎んでいるだろうかと考えた。


 憎まれていたほうが楽だ。


 袋を渡すとき、わたしは訊いた。


「あの」


「はい」


「お子様は、お元気ですか」


 訊いてしまってから、後悔した。


 訊く資格がない。


 けれどマルタさんは、怒らなかった。


「元気です」


「……そう」


「三つになりました。よくしゃべります」


 それから、こうおっしゃった。


「名前は、トビアスといいます」


 わたしは頷いた。


「トビアス」


「はい」


 マルタさんは袋を抱え直した。


「あの人のことを、悪く言うつもりはないんです」


 わたしは顔を上げた。


「去年の十二月に、いらっしゃいました」


「……救貧院に」


「はい。歩いてこられました」


 マルタさんは袋の口を結び直した。


「お金の話でした。奥様がわたしにくださったお金を、返してほしいと」


「……お返しになったの」


「お返しするつもりでした。袋を持ってまいりました」


 マルタさんは袋の口を結び直した。


「テレーゼ様が止めてくださいました。その袋をしまいなさいと」


「……お姉様が」


「はい」


 マルタさんは少し考えてから、こう続けられた。


「あとで伺いました。あのお金は組合へ行くだけで、あの人の手には一銭も残らないからだと」


「……」


「わたしのために止めてくださったのかどうかは、伺っておりません」


 わたしは量りに手を置いた。


「あの人は、わたしがどこにいるか知っています。二年のあいだ、ずっと知っていました」


 マルタさんの声は静かだった。


「一度もいらっしゃいませんでした。お金のご用ができて、いらっしゃいました」


「……」


「それでも、悪い人ではないんです。ただ、そこまではなさらない方なんです」


 わたしは何も言わなかった。


 言葉を探して、何も見つからなかった。


 そこまではなさらない方。


 わたしの顔も、そこまではご覧にならなかった。


 マルタさんはそれから、救貧院のことを話された。


 冬に薪が足りなくなって、一部屋に十人で寝たこと。春に四人が奉公先を見つけて出ていったこと。そのうちの一人が、初めての給金で塩を持ってきたこと。井戸の縄が切れて、直すのに三日かかったこと。


 話は行ったり来たりした。順が整っていない。名前が先に出てきて、その人が誰なのかは後から出てきた。


 わたしは黙って聞いた。


 途中で口を挟まなかった。


 挟みたくなる場所は何度もあった。それは誰のことですかと訊きたかった。いつのことですかと訊きたかった。


 訊けば、話が止まる。


 だから最後まで、聞いた。


 マルタさんは最後にこうおっしゃった。


「テレーゼ様は、毎晩書いていらっしゃいます」


「何を」


「その日にあったことを。誰が来たか、誰が出ていったか、何を言ったか」


 マルタさんは袋を抱え直した。


「わたしが屋敷を出された日のことも、書いてくださっています。日付も入っています」


「……なぜ、そんなことを」


「書かなければ、なかったことになるからだと」


 わたしは量りの縁を握った。


 同じ言葉を、わたしは七月の終わりに一度だけ聞いている。


 お姉様の部屋で、三枚の紙を見せられたときだ。


 あのときは、それどころではなかった。耳に入っただけで、聞いてはいなかった。


 いま、わたしは初めて最後まで聞いたのだと思う。


 生まれて初めてだった。


 マルタさんが帰ったあと、わたしは帳場の裏の紙を取った。


 新しい紙をもらって、こう書いた。


 ――十月九日。マルタさん。お子様はトビアス。三つ。よくしゃべる。


 書いてから、しばらくそれを見ていた。


 この紙を誰かが読むことはない。


 それでも、書いてある。






 お母様は月に二度いらっしゃる。


 その日もいつもと同じだった。ラインハルト様の話をして、伯爵家の話をして、お姉様の話をされた。


「あの子が遺産を出してくれていれば」


 わたしは薪を足してから、こう言った。


「お母様」


「なあに」


「お姉様は、言いました」


 お母様は湯呑みを持ったまま、わたしを見た。


「何を」


「三月十四日に。お母様にも、申し上げたはずです」


 お母様はしばらく黙っていらした。


 それから、湯呑みを置いてこうおっしゃった。


「あの子はいつもああなの。理屈ばかり並べて」


 わたしは頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 言っても、同じだと分かったからだ。


 三月十四日の朝、お姉様はわたしの部屋にいらした。三つ並べて、最後まで話された。


 あのとき、お姉様がどんな気持ちだったのか。


 わたしは今、それを知っている。


 知ったところで、屋敷は戻らない。ラインハルト様も帰ってこない。お母様は明日も同じことをおっしゃる。


 何も変わらない。


 変わったのは、わたしがそれを知っているということだけだ。


 お母様が帰られたあと、わたしは紙を出した。


 ――十月三十日。お母様に、お姉様のことを申し上げた。お母様は聞かなかった。


 一度、言われた。


 わたしは、みっともないと思った。


 その一度を聞かなかったことで、屋敷がなくなり、爵位がなくなり、わたしは名前を変えて量りの前に立っている。


 いまのわたしは、人の話を最後まで聞ける。


 聞けるようになってから、わたしの話を最後まで聞く人は一人もいない。


 明日も暗いうちに樽の蓋を上げる。手のひらは治らない。冬が来れば、また薪が足りなくなる。


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― 新着の感想 ―
AI使用ではないのでしょうか?AI利用にあたって区分を設定しなくてはならないのですが
妹は多分今の暮らしか実家の男爵くらいが合っててラインハルトがマトモでも格上の家の夫人になれる器ではなかったと思う。 妹が口にしないけどそこはかとなく姉を見下してるのは母の影響だろうなぁ。 母は娘の…
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