4.母の愛
「どういうことだ!!!」
雷が落ちたかと思う程の怒声を上げるのはエリーゼの父ライカネル公爵だ。目の前には顔面蒼白の王と王の執務室の床に頭を擦り付けるジャマル男爵とサイラスがいた。
王に対し大変不敬であるが、それを口にできるものはいなかった。いや、あまりにもの非常事態に不敬だのなんだのと頭によぎるものはいなかった。
「誠に申し訳ございません!この罪は私達の命で償いますぅぅぅぅぅ」
男爵が床にめり込まんばかりにおでこを床に押しつける。しでかしたことへの恐怖心から流れる冷や汗や涙が王の執務室の床を濡らす。公爵の怒りを堪えようとする吐息と男爵の恐怖から出る荒い呼吸の音が静まり返る部屋に大きく響く。
ギロリと公爵の視線が向かう先は王でも男爵、サイラスでもない。サイラスの隣に蹲る肉付きの良い男だった。
「そなたが男爵の次男ジョーか?顔を上げろ」
「は、はいぃぃぃぃぃぃ」
なんとも間抜けな返事をするジョーの顔を見て公爵は怒りの表情から一転して顔を青ざめさせた。
自分でも見た目をどうこう言うのは間違っているとはわかっている。だが、だが思わずにはいられない。
下の下顔の男……しかもなんと肉付きの良い男。しかも若いのにてっぺんハゲ。こんな醜い男と女神の如き美貌を誇る自慢の娘エリーゼが婚姻を結んだなどとは信じたくない。
しかも、引きこもり気味だと聞いている男。
そう、本当であれば今日はエリーゼとサイラスの婚姻締結のはずだったのだ。それが弟のジョーとの婚姻となってしまったと連絡を受け慌てて王宮にやってきた公爵。
あまりにもの衝撃に身体がふらつく。王が慌てて駆け寄ってこようとするのを力なく顔を横に振り止める。
「説明を……説明をしてくれ」
「は、はいぃ」
ショックで目も虚ろな男爵は聞こえやすいように少しだけ顔を上げると話し始めた。
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貴族の婚姻は婚姻届を書いて王宮に提出、それに王が判を押せば婚姻成立となる。今回は褒美ということ、そしてこれから姪をよろしく大切にしないとわかっているなという意味も込めて先に王の判や公爵家の判を押し、エリーゼの名前を記入した婚姻届を男爵家に届けたのだった。
必ずエリーゼを幸せにしろという圧を感じる婚姻届。これを目にして軽々しくサインするものなどいない、と王や公爵は思った故の特例。
しかしこれが間違いだった。
王家より派遣された王宮の使者が何やら色々と言っているが、緊張のあまりうまく頭に入ってこない男爵。署名の段階になりいよいよかと心臓は早鐘をうち、頭がうまく回らない。
サイラスがペンを取ろうとしたとき、横から腕がぱっと伸びてきて持ち上がるペン。そしてさらさらさらと記入される署名欄。
あまりにも突然のことで誰も止められなかった。
いや、声を出すことさえできなかった。
男爵夫人以外は……。
夫人は署名を終えたペンを置いた。ハーハーと苦しげな荒い息を吐き、身体は震え、涙と汗でグシャグシャの顔。そんな彼女の異常な姿が自分がやったことへの恐怖、罪悪感からだと気づいたのは恐る恐る署名欄に記載されたものを見た時――
書類の夫欄に記載された名前は
サイラス・ジャマル ではなく、
ジョー・ジャマル だった。
静まり返っていたはずの場は、騒然となった。
書類に違う名前が書かれたこともそうだが、夫人が血を吐いて倒れたからだ。
男爵の口からなぜだ……と言葉が溢れた。
夫人の口から息も絶え絶えに言葉が出てくる。
サイ…ラスなら……じ…ぶんでい…い人を……むかえられ…る……。ジョー……はできない……から……。ごめん…な…さ……い…サ、サイ……ラ………ス………………。
そう言って息を引き取った夫人。
子を思う母の心。
確かに妻は常々ジョーのことを心配していた。見た目、性格と一般受けしないから大丈夫かしらと。サイラスに与えられたものが一つでもジョーに与えられていたらと嘆いていた。
だが何もこんな形でサイラスのものをジョーに与えなくても良いではないか。
信じがたい今の状況と妻が亡くなったということに男爵は呆然とするしかなかった。
サイラスも同じく呆然とするしかなかった。
エリーゼの婚姻相手がジョーになってしまった。暗く引きこもりがちのジョーに。ジョーの存在こそ公爵に伝えた一つの問題。
引きこもりがちの身内がいることはエリーゼの瑕疵にならないか心配だったのだが公爵は気にされなかった。むしろ誰か良い相手をなどと仰って頂いていたのに。
公爵への申し訳なさと同時に母へのなんとも苦い思いがこみ上げる。
母は心臓を患い先は長くなかった。だから自分の命を捨て罪を犯すことにしたのだ。同じように愛されていたとは思う。でもなんでも卒なくこなす長男よりも劣る容姿、引きこもりがちの暗い性格の次男を何かと気に掛けていた。
あなたは1人でなんでもできるけど、あの子は――それが母の口癖だった。
母が次男の今後の人生を憂いてしまったがゆえの狂行。
今後どうなるのか…………。
そして彼ら以上にパニックに陥っていたのは王宮からの使者だった。王印が押された書類の破棄など勝手にできるわけない。かといって横線2本引いて、名前を書き直すなんてこともできない。
いや、もう許されるのならばしたいくらいなのだが。
そもそもなぜ、本人の署名以外は認めないという法律がないのか!?
貴族の結婚には家と家のお付き合いというものが密接に関わる。だから親が代わりに署名することなどいくらでもあるのだ。
皆呆然、唖然、パニック。しかもやらかした本人は毒を飲んで亡くなっている。混乱極まる中、なんとか少しだけ正気を取り戻した使者の指示によりとりあえず皆で王宮に向かい今に至る。
「はっはっはっ、なんだ簡単なことじゃないか」
話を聞いている間に冷静さを取り戻した公爵から笑いが漏れる。
「そいつに消えてもらえば良いだけだ」
そいつと人差し指をジョーにビシリと向ける。すぐに離婚はよろしくないが死別、弟の代わりに兄に嫁ぎますなら全然有りだ。
即ちジョーを消してしまえばよし。
表面上だけ冷静で中身は全く冷静さを取り戻していなかった公爵。
自分たちの腰に刺した剣をガン見する公爵に気づき、近衛兵たちは慌てて剣を抜かれないように柄をしっかりと持つ。
男爵は項垂れるしか無かった。公爵家との約束を勝手に変えてしまったのだ。彼が……いや彼ら一家や王家が大切に育ててきたエリーゼの人生をも変えてしまった。一家全員どんな目に遭わされても文句は言えないくらいなのだ。
一方のサイラスはジョーの前に飛び出し頭を床に擦り付けて命だけはと願う。言葉は出なかった。どんな言葉もこの場にふさわしいと思えなくて。助命さえ罪なことのような気がして。
ん?あ?うーーーーむと悩む空気の中、そもそもの発端となった狩猟大会の主催者である側近が声を上げる。彼の謹慎は早々に解かれ、現在はこき使われていた。
「その婚姻書ですが我ら以外の目には触れていませんし、問題の王印も陛下自身がお破りになり燃やしてしまえば誰も不敬罪に問われず、何もなかったことにできるのでは?」
ピコーンとその手があったかと表情が明るくなる面々。
では早速…………王が使者から婚姻書を受け取ろうとしたとき、す――と美しい白い手が上がった。
その手の持ち主は
「「エリーゼ」」
だった。
父と叔父の呼びかけににこりと微笑んだエリーゼは口を開いた。