17.誰の子
ヤハ夫人の耳元に口を寄せて優しい声音で言葉を紡ぐエリーゼ。
「夫に複数の愛人がおりますのはご存知でしょう?その中には既婚者の方もいらっしゃるの。関係をもてば妊娠することもありますでしょう?」
ゆっくりと優しく何度も何度も夫人の手を撫でるエリーゼの手を振り払いたいのにうまく動けない。
「でね、そのときお腹の中にできた愛の結晶はご主人とジョーの子どちらなのかしら、と。だって同じような時期に2人の男性……または複数の男性と関係をもっていたら誰の子かなんてわからないじゃない?」
どんどん荒くなる呼吸、とめどなく溢れる冷や汗、ズキンズキンと痛む頭、ぼやける視界に夫人は焦る。
わからなくなんてない。この子は主人の子だ。
だって自分は主人の妻だから。
「誰の子とわからないながらもご主人にはあなたの子と言って通すのか…………それとも、本当にそう思っているのか。それとも真実などどうでも良いのか。
ふふっ自分のご都合の良いように考える方は世の中多いですものね」
「…………っ……!」
恐怖で歪むヤハ夫人の顔。
怖い、エリーゼが怖い。
そしてお腹の子が怖い。
この子は一体、どちらの……?
いや、違う!この子は主人の子だ!我が家を継ぐ大事な大事な跡継ぎだ!
そう思うもののなぜか震えが止まらない。
「ご自分の都合の良いようにしか考えずご主人の子供だと信じて疑わない心。ふふっ図々しくも逞しい方もいらっしゃるものですわね?」
都合の良いように考えているわけではない。こう感じるものがあるのだ。子を宿してる自分にはわかるのだ……!
「産まれた瞬間、それはそれは喜ばしい感動的な時間となるでしょうね?一つの尊い生命の誕生、幸福の時間ですわ」
そう言って微笑むエリーゼはお腹の子をここに導いた天使のよう。だがその言葉は人を揺さぶり苦しむ様を愉しむ悪魔のようだ。
「でも時が経つに連れ、違和感を覚える子供の顔。日増しに増える不安……そしてある日認めざるを得なくなるのです、愛人の子だと。
ご主人に愛人の子だとバレないと良いのですが……愛人の顔が特徴的だと……ふふっ。想像すると少し怖いものがありますわね?」
美しい顔からは美しい顔、醜い顔からは醜い顔が生まれやすい。それはこの世の摂理。稀に奇跡が、不運が起きることもあるがそれは神のみぞ知る、だ。
「ヤハ夫人本当におめでとうございます。お子様が産まれるまで待ち遠しい時間ですわね。産まれた暁には是非その可愛いお顔をお見せくださいね?」
エリーゼの手を思いっきり振り払い、席を立つヤハ夫人。その手の痛みにエリーゼは少しだけ眉を寄せる。そんな彼女を気に留める余裕がないヤハ夫人は顔を青褪め、挨拶もせずにお茶会の場を去っていってしまった。
あらあら、あくまで一般論として可能性の話をしただけなのにあんなに青褪めなくても。そのリスクを承知の上で関係をもっていたわけではないのだろうか。
普通なら気づくであろうことも見えなくなる。そんなにエリーゼに勝つということは甘美なのだろうか。
それとも自分には都合の良い事しか起こらないとでも思っているのだろうか。そんなわけあるはずがないのに。
ふふふふ、実に愚かだわ。
ぐりんと視線を残りの2人に向ける。2人の身体はビクリとはね顔は青褪め小刻みに震えている。
あらあら、何を怯えているのかしら。まだ何もしていないではないの。
では……仕上げといきましょうか。
「私ね、思いますの」
今度は何を言う気なのか、耳を塞ぎたいのにできない。身体がうまく動かない。
「夫の愛人の方たちはすごいなぁと」
は?
「だってあんな性格最悪見た目も最悪、いいところなしの男と致すなんて罰ゲームではありませんか?私だって性格が良ければ愛情だって湧き、見た目など気にならなかったでしょうが……でも全て最悪ですもの。
お金だって貴族としてそんなに持っているわけでもありませんし。夫を選ぶよりも他の方を愛人にした方がよろしいと思いません?」
妻以外の女と関係をもちたがる金持ちの男など貴族には腐る程いる。平民の金がない男でも顔がよく貴族の奥方の愛人希望の者は多い。
「よっぽどお金に困っていらっしゃる方なのでしょうか。他の殿方が相手にしてくれないような女性なのでしょうか。でなければなぜあんな男を選ぶのでしょう」
なあぜと小首を傾げるエリーゼの言葉に少しだけムッとする2人。
それはあなたの夫だから……。
あなたよりもいい女だと思えるから……。
「私でしたら愛人を選ぶなら見目の良い男にしますわ。お金もたんまり持っている方が宜しいですわね!遊ぶ相手でしょう?あんなのを選ぶなんて楽しくないし、自分の価値が下がると思いませんか?」
価値が下がる?エリーゼの夫なのに?
私たちは……間違ったの?
「それにあの顔のドアップ。服の上からでもわかるあのたぷたぷのお腹が自分の身体にたぷん……と重なるなんて……ああ!失礼ながら考えただけで寒気が」
いつもエリーゼの悔しがる様子が頭に浮かんで気にしていなかったが、思い返すと確かに怖気が走るほど気持ち悪い光景だった。
「「……っ」」
吐き気がこみ上げる2人。
「先ほども言いましたが子供でもできたらどんな子が生まれるのでしょうね?ふふふ……あの人のような顔かしら?」
まさか……。
2人とも自らのお腹に手を当てる。
いや、そんなことはない。体調はいつも通りで。
でも絶対にいないとは………………
滝のような汗が全身を流れていく。
「あらあら、私としたことが人の美醜を論じるなど失礼な真似をしてしまいましたわ。でも相手があのモラハラ野郎のジョーですもの。許してくださいませね?
さて、ヤハ夫人も退席されましたし私はこれで失礼致しますわ」
エリーゼは優雅なカーテシーをした後、優雅な足取りでその場を去った。
口元を押さえながら震える2人の愛人と
尊敬の眼差しを向ける3人の女性を置き去りにして。