第一章 - 存在の始まり
この物語は、『最高の人生』という概念を私なりに言語化したものである。考えられる限りの幸福と幸運を詰め込んで、当人が受ける苦痛を極限まで制限し、常に質の良い快楽に満たされるよう努めた。
これがこの地球上で、人間として産まれた場合の唯一絶対の『正解』である、とは言わないが、どれほどの反出生主義者でも『産まれたこと』を羨ましく思うほどの、素晴らしい人生であることは間違いない。
またこれは私の、ある種の思考実験でもある。今現在この世界に絶望している私自身が、もしもう一度この世に生まれる権利を与えられ、その誕生から永眠までの全事象を自分の手で定義できるとしたら、はたしてどんな人生を歩むだろうか? そんなたわいない疑問を解くための実験である。
そして最終的には、次の問いへの答えを知りたいのだ。
『全てを書き終えた後で私は、本当に転生してまで、その人生を生きたいと思うのだろうか?』
人生というものは、往々にして突然始まるものである。彼らが皆、事前に自分の運命を操るために、『あの世』で何らかの手続きを踏んだのかはさておき、今回ばかりは私が『神』だ。さてさて出来レースを始めようではないか! 楽しい楽しい人生の始まり始まり~。
<出生条件① 誕生 - 彼の名前はエリス>
2025年7月7日。彼は先天的な染色体異常により、精巣を持たない男の子として、スイス南西部――レマン湖畔にある町『ニヨン(Nyon)』――にて、裕福な若い白人夫婦のもとに産まれた。彼を見舞った疾患というのは、性腺無形成症における無精巣症(Anorchia)に該当し、これは簡単に言えば、『身体のどこにもタマタマがない』病気だった。
無精巣症の赤ちゃんは、胎児発生時に分泌されるテストステロン量が極めて少ないことから、第一次性徴による男性器の発達が不十分になるケースが多く、なかには全く男性器を持たずに産まれてくる子もいる。彼の場合はミニサイズのおチンチンを持った『小陰茎症』という状態だった。
通常、小陰茎症として生まれた男の子は、テストステロンを投与して人為的に陰茎部の発達を促されるか、あるいは性転換手術を受けて女の子として育てられる場合が多いが、幸い尿道下裂(尿道が陰茎尖端に向かって真っすぐ開口しない症状)が見られなかったため、彼の両親は苦慮の結果、どちらの治療も行わない決断をした。
これは英断だった。なぜなら性腺を持たない以上、どちらにせよ彼に繁殖能力はなかったし、彼の生命維持機能に関係のない治療のために、わざわざメスや針や薬を用いて、その小さく脆弱な身体を傷つけるのは、リスク以外の何ものでもなかったからである。
彼は少しばかり普通とは違っていたが、彼の両親はただただ、我が子が生きて産まれてきてくれただけで嬉しかった。そんな愛情深く賢明な両親に恵まれたこと、それが彼にとって何よりの救いだった。両親に『エリス(Ellis)』と名付けられた彼は、家族の優しさと愛に包まれながら、慎ましく穏やかで、それでいて活発な子供に育まれた。
<出生条件② 美しすぎる容姿>
彼は生物学的に見れば、ただ『性腺を持たないだけの普通の男の子』だったが、実際にはそうも言い難かった――何と彼は、両親から極めて優れた遺伝子を受け継いだことによる、絶世の美貌を持っていたのだ。
彼が成長するにつれ、その美しさは徐々に顕現し始め、2歳半にもなれば疑いようのほどだった。ちょっと両親とお散歩に出掛けようものなら、近隣住人や道行く通行人の誰もが、彼に気づいて度肝を抜いた。二度見、三度見は当たり前。まるで天使が地上に舞い降りたかのようだった。
<出生条件③ 両親の信仰とキャリア>
彼の両親はともに無宗教者で、特定の信仰に縛られることなく、自由な価値観を尊重できる人たちだった。また父親の『サミュエル(Samuel)』は、ジュネーヴの大手時計メーカーに勤務するエンジニア兼デザイナーで、安定した高収入を得て出世街道を順調に歩んでいた。
一方母親の『エリーズ(Élise)』は、ローザンヌを拠点にするパフォーミング・アーツ・グループに所属し、舞台演劇の俳優やダンサー、歌手としてマルチに活躍していた。多才で引っ張りだこだった彼女は、夫に負けず劣らず高収入だった。
<出生条件④ 住居と家庭環境>
ニヨンにある彼らの住居は、レマン湖の畔からE25号線(欧州を縦断するAクラス幹線道路)方向に少し行ったところにある、とある草原に佇む大きな一軒家で、エリスが伸び伸びと何かに挑戦できるほどの、充分な居住スペースと拡張性を備えていた。
その家は父親の実家でもあったので、同居する家族は彼と彼の両親の他に、父方の祖父と祖母を含めた5人だった。よって両親が仕事で家を空けるときには、祖父母が喜んで彼の面倒を見てくれたし、もっと言えば二人とも、エリスを溺愛していた。
<出生条件⑤ ファミリーネームと血筋>
彼の一家は『シンクレア(Sinclair)』という苗字だった。これはフランス語由来の英語名で、かつてイングランドに住んでいた祖父が、スウェーデンからの移民であった祖母と結婚し、息子サミュエルを授かってから間もなく、スイスに移り住んだことに起因している。
よって彼の血筋は、祖父のゲルマン系(アングロ・サクソン系)と祖母のノルディック系(スカンディナヴィア系)に加え、母エリーゼのラテン系(ガリア・ローマ系)の血がミックスされた複雑な白人系ということになる。
<エリスが受けた教育① École maternelle>
彼は3歳になると、近所にあった『The Secret of Childhood Montessori School(幼少期の秘密モンテッソーリ学校)』という幼稚園に通い始めた。6歳までの3年間をそこで過ごした彼は、モンテッソーリ教育法に基づいたカリキュラムを通して、自主性や社会性を育み、たくさんの楽しい経験と友達を得ることができた。
またバイリンガル対応の園であったため、多様性に富んだ先生や友達にも恵まれ、在園中は彼の住むロマンド地方で話されるフランス語だけでなく、イギリス英語にも触れる貴重な機会となった。
<エリスが受けた教育② École primaire>
6歳からは初等教育として、近所の小学校『École Saint-Exupéry(サン=テグジュペリ学校)』に入学した。その名の通り、『星の王子さま』にインスパイアされた学校で、まるで3つの惑星を旅するように、それぞれフランス語、ドイツ語、英語のみを使用した授業が受けられるシステムになっていた。
12歳までの6年間をそこで過ごした彼は、プルリリンガル(それぞれの習得レベルに関係なく、複数言語を話せる状態)の基礎を身につけると同時に、芸術やスポーツ、歴史、地理、科学、数学などの初歩的な知識――世界の面白さ――を学ぶこととができた。
<エリスが受けた教育③ Enseignement secondaire I>
12歳からは中等教育Iとして、隣町にある『École Moser Nyon(ニヨン・モーザー学校)』に通い始めた。『モーザー』という一家が経営する私立学校(8歳から18歳までを受け入れる小中高一貫校)で、こちらも三言語によるプルリリンガル教育を推進していた。15歳までの3年間で中等教育Iを修めた彼は、各教科の中級レベルの知識と、多くの友人たち――とりわけ数人の『親友』と呼べる存在を得ることができた。
<エリスの親友① 幼馴染編>
幼稚園からの親友『ニコラ(Nicolas)』は近所に住むヤンチャな男の子で、エリスとは互いに『エリー(Ellie)』、『ニコ(Nico)』と呼び合う仲だった。ニコラは『トムとジェリー』や『スポンジ・ボブ』、『怪盗グルー』シリーズが大好きで、よくアニメさながらの秀逸なイタズラを仕掛けては、エリスを驚かせて自分の親に叱られていた。
彼は先にモーザー学校に入学していたため、エリスとは小学校が別々だったけど、その間も休みの日はよく二人で遊んでいた。だから彼は、エリスが同じ中学に来てくれて嬉しかったし、次のイタズラの計画は着実に練られようとしていた……。
続いて紹介する『ソフィー(Sophie)』は、エリスの小学校生活における一番の親友だ。ディズニー・プリンセスに憧れる高貴な印象の女の子で、いつもフリルが付いたワンピースドレスを着ていた。エリスとは二年生のときに演劇の授業で、『ヘンゼルとグレーテル』をダブル主演したときに仲良くなり、よく二人でメルヘン・トークしたり、童話ごっこしたりして遊んだ。
彼女の一番のお気に入りは、『王女と執事ごっこ』という――二人で架空の王女とその執事になりきる――遊びだった。ソフィーは自分が命令口調で、「エリス! ワタクシの紅茶が切れましてよ! すぐに替わりを持ってきなさいっ!」などと雑用を申し付けると、彼が片膝を突いて「かしこまりました、お嬢様」と従順に従ってくれるのが、もう……堪らなく『ボヘーッ!』って感じだった。
<エリスの親友② 中学校編>
中学校に入って最初に親しくなったのは、『エミリー(Émilie)』という勝気な黒人の女の子だった。彼女は父親が見ていたNetflixのドラマ『コブラ会』に影響を受けたことで、幼少期より近所の道場で『空手』を習っており、その腕前は大会で何度も表彰されるほどだった。またエミリーはスタイルも良くオシャレだったので、みんなのファッションリーダー的存在でもあった。エリスとは体育の授業でバスケットボールをしたとき、同じチームになったのがきっかけで仲良くなった。
次に出会ったのは『ダニエル(Daniel)』という、少しポッチャリしたオタクっぽい男の子だった。日本のアニメや漫画が大好きで、よく中庭に座ってスケッチブックを開き、いろんなキャラクターの絵や風景画を描いていた。エリスとは偶然カフェテリアで昼食をともにした際、『千と千尋の神隠し』や『ポケモン』の話で盛り上がって意気投合した。
最後に打ち解けたのは、『キアラ(Chiara)』という両耳にピアスを開けた派手な女の子だった。彼女はメタル音楽が好きで、お気に入りのバンドは『Ancient Bards』と『Rhapsody Of Fire』、そして『DragonForce』だった。いつも学校にiPodとAirPodsを持ってきてたので、ときどき先生に見つかって没収されていた(また髪の毛もしょっちゅう染めていたので、先生によっては派手すぎるぞと注意することもあった)。家ではエレキギターを練習していて、いつか自分もメタルでビッグになると豪語していた。二人が打ち解けた理由は……それは後述しよう。
<エリスの親友③ 特別編>
彼には小学校低学年くらいまで、『ノア(Noah)』というイマジナリー・フレンドがいた。ノアは世界最強の魔法使いで、エリスが困ったり怖気づいたりして、挫けそうになったときにはいつも、『ルミアラ・フェレルーヌ、無限の勇気よ!(Lumiara Ferelune, courage infini !)』という呪文を唱えて、彼に一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。
彼とノアはたくさんの冒険を乗り越えたけれど、彼に現実の友達が増えていくほどに、ノアと過ごす時間は短くなっていき、いつしか彼のなかからノアはいなくなっていた。それでもノアがくれた『勇気の魔法』だけは、いつまでも消えずに彼の心に宿っていた。これからもずっと……。




