撤退と見逃し
――命令を果たしながら、誰にも知られぬ“選択”を
【アウストリア第8区・戦後制圧区域】
――作戦完了から35分後
空はもう、灰色ではなかった。
黒煙が徐々に晴れ、廃墟の隙間から薄い陽光が差し込んでいた。
焼けたコンクリートの匂いに混じって、焦げた木と血の混ざった残滓が鼻を刺す。
それでも、戦闘の音は消えた。
カイン・レグナスは、剣を背負い直して立っていた。
魔導制圧波はすでに収束し、敵軍は全滅。
反応源もすべて沈黙。
任務は完遂された。
――彼の剣が、そのように告げていた。
通信が入る。
『こちら《ネオ・ファルマス》。灰の剣、応答願います。
後方掃討部隊、着地完了。戦域封鎖を確認。』
カインは短く答えた。
「こちらカイン・レグナス。任務完了。周囲敵性反応なし」
『了解。命令通り、市街地の民間反応についても、
“残存者なし”で報告を進めます。』
“残存者なし”。
その言葉に、ほんのわずかにカインの指が止まった。
通信を切る。
そして、瓦礫の陰に目をやる。
――そこに、彼女はいた。
ティナ。
あのとき、彼が水と食料を与えた小さな少女。
だが今、彼女は瓦礫の裏で息を潜めていた。
自分の存在を隠すように、息を殺し、気配を消していた。
けれど彼の目は、確かにそれを捉えていた。
(命令に従えば――この少女は、ここで“存在しない”ことになる)
(だが……)
カインは歩みを止めた。
何かを考える素振りはない。
表情も変わらない。
ただ、ゆっくりと足音を鳴らし、彼女に背を向けるように立つ。
「……お前の存在を、報告には入れない。
生きろ。俺の目に映ったのは、瓦礫だけだった」
ティナは声を出さなかった。
ただ、震えながらその背中を見送った。
あの冷たい剣のような男の背が、少しだけ、柔らかく見えた。
その場に風が吹いた。
剣の風ではない。
人が歩く、ただの風だった。
カインは通信機を起動する。
「こちらカイン・レグナス。戦域、異常なし。
最終確認をもって現場を離脱。後続部隊へ指揮を委任する」
『了解。後続部隊、進軍開始。中将は帰艦後、機構軍本部へ報告を。』
静かに、戦場が“本部のもの”へと引き渡される。
報告書には、数字が並ぶだけ。
そこに、“生き延びたひとつの命”が記されることはない。
そしてその瞬間、ひとつの選択が、この世界に記された。
誰も知らない。
誰にも語られない。
だが確かに――剣を持つ男が、命を見逃した。
それは、のちに世界を動かす“欠落”となる。
記録に残らなかった、ただ一人の少女。
それが、運命の分岐点だった。
ティナは、瓦礫の陰で泣いていた。
声は出なかった。
涙だけが、音もなく頬を伝っていた。
生き延びたという実感も、まだない。
だが、あの人が振り返らなかったことだけが、
なによりの“答え”だった。
「……ありがとう、カイン・おじちゃん……」
風が、少女の言葉をさらっていった。
上空には、空中戦艦の巨影がゆっくりと旋回を始めていた。