声のない戦場で
――少女との出会い、そして揺らぎの始まり
【地上/アウストリア第8区 中央区画・制圧完了後】
戦場の終わりには、何も残らない。
正確に言えば、“何も残さない”のが〈灰夜〉の任務だ。
魔導兵器も、指揮官も、兵士たちの記憶すらも。
そのすべてを削ぎ、圧し、消してしまう――
それが、灰の剣が歩いた後の“静寂”だった。
市街地中央広場。
瓦礫と焼け跡に覆われたその場所には、カイン・レグナスがただ一人、静かに立っていた。
彼の足元には灰が積もり、風すら吹かない。
沈黙――それがこの都市最後の“音”だった。
彼はまだ剣を収めていない。
だが、振るう必要もなかった。
すでに敵は、誰もいない。
静かすぎる。
あまりにも、静かだった。
魔導障壁の余韻もない。遠くの爆音すら届かない。
それは、死の静けさだった。
彼の耳に、微かな音が入った。
初めは、錯覚かと思った。
風が石を転がす音か、崩れた鉄骨の軋みか。
だが、違った。
それは――**“声”**だった。
「……おかあ、さ……ん……」
掠れた、幼い声。
瓦礫の奥、崩れた店舗の影から、それは確かに届いた。
まるで、燃え残った命が、最後の叫びを絞り出すように。
彼はその方向に視線を向けた。
いつもなら、処理すべき対象かどうか判断し、行動を完了させる。
命令は絶対。疑う必要もない。
だが、このときだけは、違った。
足が――勝手に、動いた。
数歩の距離だった。
その瓦礫の山を超えた先に、小さな影があった。
煤と血で汚れた白いワンピース。
細くて痩せた肩、膝を抱えてしゃがみ込む少女。
年の頃は――十歳ほどだろうか。
髪は元は茶だったのだろうが、今は土と灰に染まり、色がわからない。
足は片方だけ靴が脱げ、膝には擦り傷と乾いた血の跡があった。
彼女の顔が上がる。
涙で濡れた目が、カイン・レグナスを映した。
彼は思わず、一歩を止めた。
その瞳――そこには、“人間”が映っていた。
恐怖でも、怒りでもない。
ただ、「誰かを探している」目だった。
「……おにいちゃん……兵隊さん……?」
少女の声が震えている。
それでも彼女は、立ち上がった。
ぐらり、とよろけながらも、カインに向かって近づいてくる。
その歩幅は遅く、小さく、頼りなかった。
まるで――何かを、訴えるように。
「おかあさん……しらない?
おとうさん……ここにいたんだけど……」
彼は、何も言えなかった。
普段であれば、“対象ではない”と判定し、立ち去っていたはずだ。
だが――声が、耳から離れない。
少女のその言葉が、まるで彼の心の奥に、錆びた刃を差し込むように痛かった。
少女が、手に握っていた布を差し出した。
ほつれた刺繍がある。
簡素な家庭用の布。
ところどころに子供の手で書かれた文字が縫い込まれていた。
「おかあさんがね……これ、まもってくれるって……
でも、みんな、いなくなって……」
言葉が、喉に詰まる。
彼は剣を振るう時、何も感じない。
それは命令だから。
それは任務だから。
でも今、この小さな手が握る布を前にして――
カイン・レグナスは、立ち尽くしていた。
(……これは、何だ?)
(俺は、何を奪った?)
少女は、泣かなかった。
ただ、怯えもせず、見つめてきた。
彼の目を、剣を、戦闘スーツを――何もかもを見つめたうえで。
そして、言った。
「……おじちゃん……人、ころしたの?」
その言葉に、彼の全身がわずかに震えた。
“おじちゃん”。
今まで誰も、彼にそんな風に呼びかけたことはなかった。
まるで“人”に向けた言葉のように――まるで、“名前ではなく人格”を求めるように。
彼は目を逸らすことができなかった。
視線の先には、ひとりの命。
瓦礫の下、たったひとつ残された火種。
その火は、まだ――消えていなかった。
やがて、彼はしゃがみ込んだ。
少女と目線を合わせるように。
そして、そっと、問うた。
「……名前は?」
少女は、わずかに躊躇したあと、小さな声で答えた。
「ティナ、です……」
カインは、ゆっくりと目を閉じた。
そして――
「……生きろ。お前は、生きろ。
それが……“今の俺の、命令”だ」
その声は、彼自身にも驚くほど静かだった。
まるで誰かの言葉を代弁しているようで、
まるで“命令”に従う自分を真似ているだけのような――そんな、不器用な響きだった。
だが、その手は迷わなかった。
彼は腰のポーチから、非常用の水ボトルと圧縮栄養ブロックを取り出す。
戦場での個人携行用。敵地での潜伏行動用として常備されているものだ。
それを、ティナの前に差し出す。
「ティナ。……これを食べて、生き残りなさい」
少女は少し戸惑いながらも、カインの手元を見て、おそるおそる手を伸ばす。
冷たい金属のような装甲手袋から受け取った水と食料。
それは、誰かの命令ではなく――**“この人が、自分にくれたもの”**だった。
少女の手が触れた瞬間、カインは一瞬だけ目を細めた。
(なぜ、俺はこんなことを……?)
彼は理由がわからなかった。
命令にそんな項目はなかった。
この少女は排除対象でも、保護対象でもない。
彼が与える理由など、どこにもないはずだった。
それなのに――
体が、勝手に動いた。
まるで、心のどこかで“何か”が疼いたように。
まるで、“生きてほしい”と、言われたことがあるかのように。
水を口にしながら、少女が小さく微笑んだ。
その笑顔は、彼の記憶には存在しないはずの温かさだった。
――その瞬間。
灰の剣が、わずかに揺らいだ。
風が吹いた。
瓦礫の隙間から、青い空が覗いた。
戦場の匂いに混じって、どこか遠く、**“未来の匂い”**が漂ったような気がした。
命令ではない、選択。
処理ではない、救済。
カインの中で、何かが確かに“生まれた”。
それがこの後、世界を変えていく引き金になることを――
この時、誰も知らなかった。