灰の剣、その日より始まる
【統合自由連邦軍 空中戦艦/作戦開始時刻前】
世界は、すでに燃えていた。
大地ではなく、空でもない。
戦争そのものが燃え続けていた。
自由と資本の名のもとに統合された超国家連邦――〈統合自由連邦〉。
その軍中枢である“ヴァルキリオン機構軍”が送り込んだこの空中戦艦は、
今日もまたひとつの都市を見下ろしていた。
目標は、旧黒統圏に属していた工業都市《アウストリア第8区》。
魔導兵器の生産施設と民間居住区が密接した、中規模の都市である。
しかし、これまで一度として連邦に制圧されたことはなかった。
それが意味するのは、ひとつ――
この街は、まだ“焼かれていない”。
そして今、その処理が始まる。
艦底部の作戦区画。
重力制御が施された艦内は静かで、作戦前特有の騒がしさもない。
否、騒がしさを許さない緊張感が支配していると表現すべきだった。
空気が張り詰めている。
それは、任務の困難さゆえでも、敵の戦力ゆえでもない。
理由はただひとつ――
“彼”が、いるからだ。
空間の中央を、黒い戦術スーツを纏った男が歩いていた。
長身で無駄のない動作。全身から“軍人”以上の何かを放つその存在感に、
誰一人として視線を向けようとはしなかった。
カイン・レグナス。
機構軍の最上級戦力のひとつにして、“人の姿をした剣”。
その男は、誰からも“灰の剣”と呼ばれていた。
彼が歩くだけで、通路の空気が変わる。
風が止まり、兵士たちの呼吸が浅くなる。
まるで、彼が歩いているのではなく――
“剣そのもの”が動いているかのようだった。
その姿には、ひとつの異常すら感じられない。
淡い灰色の短髪、白磁のように滑らかな肌。
顔立ちは端正で、むしろ美しいと言えるほど整っている。
だが、彼を“美しい”と表現した者はいなかった。
その原因は、眼だった。
銀灰の瞳――冷たく、静かで、そして恐ろしい。
誰もがそれに触れられたくないと感じる。
目が合えば、何かが“終わる”ような錯覚に陥る。
人の眼ではなかった。
心のない兵器の光。
スキャン、測定、そして――処理。
彼の視線に触れた者は、そう本能で理解する。
カインは無言のまま、作戦ブリーフィングルームへと歩みを進める。
周囲の兵士たちは動きを止め、その背中に一礼すらできずに通り過ぎるのを待つ。
彼が軍服に帯びていたのは、ヴァルキリオン機構軍の特別階級章――中将待遇を示す双星。
しかし、その名目上の“中将”という表現すら、彼に対しては軽すぎる。
背中に担がれた一本の剣。
魔導重力剣。
その存在が、あらゆる階級や戦術、戦力評価の全てを無意味にする。
それが、“灰の剣”の力だった。
ブリーフィングルームには、副官であるグレイ・イオラス少佐が待っていた。
彼は軍人らしからぬラフな外見を持ちつつも、
目の奥には軍務に染まりきった者だけが持つ硬質な意志を宿している。
「お疲れさまです、中将。作戦開始予定まで、あと十三分です」
声は抑えた敬語。
だがそこには、言葉にできない“重み”が込められていた。
グレイは無言でホログラムを展開し、三次元の戦術マップを映し出す。
「目標は、アウストリア第8区。
魔導兵器工場が二基、対空砲六門、魔導障壁三基。
兵力推定三千。……民間人は約一万二千。
命令区分はA-Zero――殲滅指令。民間区分は“無”です」
言葉を濁すことなく、正確に伝える。
それが、グレイの仕事だった。
「支援要請、なし。
地上部隊展開、なし。
空中砲撃、なし。
――中将おひとりによる降下および全処理です」
彼は、すでに慣れていた。
これが“いつもの仕事”であることを。
カインは頷いた。
無言のまま、剣の柄に指を添える。
彼にとって“命令”とは、感情を必要としない事実でしかない。
感情も理性もない。
ただ、実行するだけの義務。
それだけを背負い、彼は剣を握る。
――剣が、落ちる。
その瞬間から、戦争が始まる。
【作戦時刻:13時07分】
艦底が開いた。
重力制御フィールドが展開され、カインはその中へと歩み出る。
その姿に声をかける者はいない。
誰もがただ、静かに終わりを見守っていた。
風が彼のコートを揺らす。
そして、次の瞬間――
彼は、跳んだ。
【大気圏内・降下軌道上】
空が裂けた。
いや、重力が砕けたと言うべきか。
カイン・レグナスは垂直に近い降下軌道で落下していく。
空気を焼き、風を斬り、速度は音速を越えていた。
だが彼の姿には揺れも乱れもない。
周囲に形成された魔導制御フィールドが空間そのものを滑らせている。
まるで、彼だけが“空”という概念の上を走っているかのように。
――落下まで、残り7秒。
彼は剣に手をかける。
レーヴァテインの柄が微かに振動し、刃が“出現”する。
抜いたのではない。“世界から切り離された刃”が、現れるのだ。
刃の出現と同時に、降下軌道上に歪みが走る。
重力が集束し、空間が鳴った。
【地上/アウストリア第8区 中央広場】
市街地中央にある防衛施設の上空。
監視員が異常熱源の急接近を感知し、砲手に警報を発した瞬間――
彼は、落ちた。
地面が陥没し、周囲50メートルが“消えた”。
爆発ではない。
魔導障壁は発動したまま、内部構造ごと押し潰されていた。
空気が逆流し、衝撃波が四方へ広がる。
地表のタイルはすべて砕け、建物の壁が裂ける。
剣は、まだ振られていない。
だが既に、戦場は壊れていた。
「な……なんだ、今の……ッ!?」
「中央、防衛ラインが……一瞬で……!?」
「くそっ、何が起きたんだ、応答しろ、応――」
そのとき、彼は一歩を踏み出す。
その歩みとともに、刃が閃いた。
見えない。
剣は、見えない。
ただ、“空間の歪み”が残るだけ。
刃が振るわれた場所には、“存在の破断”が起きていた。
斬られた兵士は、反応できない。
身体が真っ二つになることもない。
ただ、存在が“消える”。
刃が通ったという“記録すら残らない”。
砲兵隊が配置されていた区画に向けて、彼は一歩進む。
その間に、敵兵五名が空中で散る。
残った砲兵が叫ぶが、すでに周囲には“味方の形”がなかった。
魔導障壁を強化した中隊長が突撃を試みた。
全身を覆う障壁に加え、四層のバリア魔術。
だが、彼の肉体は触れる前に内部から粉砕された。
見えない刃ではない。抗えない死。
わずか6分で、前線部隊は壊滅。
カインの歩みは止まらない。
剣を構えることすらほとんどなく、彼の周囲にはただ“静寂”が広がっていた。
それは戦場ではなく――“処刑場”だった。
【《ネオ・ファルマス》管制ブリッジ】
「……敵魔導反応、消失。市街地広域で交戦記録ゼロ……」
作戦統括オペレーターが、ほぼ呆然とした声で報告を上げた。
後方に立つグレイは、その報告に頷くだけだった。
「まぁ、記録できるものが残ってるなら、それはまだ“軽い方”だよ」
ホログラムに映る市街地は、既に“色”が変わっていた。
白い建物は黒く焼かれ、街路は歪み、煙が立ち上っている。
それは兵器が通った跡ではなかった。
もっと静かで、もっと確実な――
“存在の否定”の跡だった。
グレイは肩越しに、監視員へ声をかける。
「突入部隊、降下準備を。……今から掃除だ」
【地上/戦闘終了から数分後】
焼けた空気。
崩れた街角。
どこにも、音がなかった。
そこにただ一人、黒い影が立っていた。
カイン・レグナス。
彼は剣を鞘に収め、静かに空を見上げていた。
何も感じていないように見えた。
だが、その内に何があったかは誰にもわからない。
なぜなら、彼は今でも“剣”としてそこに立っているから。
やがて、遠くから空挺部隊の着陸音が聞こえた。
後処理部隊が突入する。
その兵たちは、彼の立つ広場には近づこうとしない。
誰もが知っている。
その場所に踏み込んではいけない、と。
彼が踏みしめた地面は、
まだ“剣の熱”が残っている。