そして、灰は風に還った
プロローグ
――そして、灰は風に還った
世界がひとつに統一されてから、四年が経った。
戦火は止み、空は青さを取り戻した。
人々は隣人を疑わず、兵士たちは銃を置き、子どもたちは平和を“知らずに”育つ。
そう、まるで――最初から何もなかったかのように。
書斎の窓辺に、ひとりの男が座っていた。
歳は七十を超えているだろう。銀色の髪はすっかり白くなり、背筋こそ伸びているものの、身体には年相応の衰えがあった。
だがその眼差しは、どこか底知れない深さを宿している。まるで、万の修羅場を通り抜けてきた者だけが持つ“静かな圧”だ。
男は一冊の書物を手に取った。
表紙には金色の文字で、こう刻まれている。
――『第三次統合戦争全史』。
分厚い背表紙に指を這わせると、懐かしい感触が指先に蘇る。
彼の手は、かつてこの世界で最も多くの命を奪い、最も多くの人々を救った“剣”だった。
その手が今は、ただ静かにページをめくるだけの存在になっている。
「……偉人、だと?」
自嘲するように笑い、男は卓上のカップに手を伸ばす。
冷めかけたブラックコーヒー。口に含むと、独特の苦味が舌を刺した。
昔はこの味がどうしても苦手だった。だが今は、不思議と心が落ち着く。
「まったく……あの頃の俺には、この味すらわからなかった」
書物の中には、かつての戦争の記録が詳細に綴られていた。
連邦と専制国家群の対立、資本と支配、自由と統制。
そして、その戦乱の渦中で“灰の剣”と呼ばれた男の存在。
彼自身の記録が、そこにあった。
写真も、功績も、戦況地図も。
しかし、そのすべてがまるで“他人の話”のように思えた。
――人類史上、最も多くの命を奪い、最も長きにわたり戦場を支配した男。
――旧体制を崩壊に導き、統一国家成立のきっかけを作った“英雄”。
――灰の剣、カイン・レグナス。
いま、彼はその男の名を見ている。
そして、自分の手を見つめる。
もう、剣は握っていない。
もう、殺す理由も、命令も、存在しない。
だが、心のどこかに、あの時の感触がまだ焼き付いている。
「……俺は、本当にあれでよかったのか?」
誰に問いかけるでもなく、彼は呟いた。
答える者はいない。
だが、その声はどこかに届いているような気がした。
書斎の外では、子どもたちの笑い声が聞こえる。
兵士ではない。戦争を知らない、未来の民たちの声。
それだけで――救われる気がした。
彼はページを閉じ、しばらく沈黙の中に身を置いた。
だが、やがて静かに語り始める。
「……聞かせてやるか。
この世界がどうやって“平和”を手に入れたのか。
俺という“化け物”が、何を見て、何を失い、何を壊したのか。
――すべては、あの日から始まった」
そして彼は目を閉じる。
思い出すのは、血に染まった空と、命が砕ける音。
鋼の匂い、魔導の熱、そして――涙の味。
カイン・レグナス。
かつて“灰の剣”と呼ばれた男の記憶が、いま再び語られようとしている。
これは、
戦争を終わらせるために、世界そのものを壊したひとりの兵士の――
“最初の物語”である。