これから書きたいことのメモ その2
いろいろと忙しい…
こっちの方が先にできてしまった(汗
中二病(もちろんその当時にそんな言葉はないが…)の頃から疑問に思っていたことがある。
「なぜ中島は一式戦・二式戦・四式戦と次々と開発(改良を含む)・量産しているのに、三菱は零戦とせいぜいが雷電だけの開発・量産しかできなかったのか?」
いやいや、試作機(「烈風」とか…)があるでしょ?
そんなの三菱だけではなく、中島だって試作機自体はいろいろとやってるよぉ!
「開発能力が中島の方が高かった?」
そんなの、さほど変わりません。強いて言えば「東京大学工学部(航空学科を主として)」の卒業生は三菱の方が多かった。(中島に始めて東京大学出身者が入社したときには、駅に提灯行列で出迎えたらしい)多少の人数の差はあっても、開発能力自体が高い・低いは関係ないし……
「堀越さんが病弱で……」
おいおい、近代的な会社がそれでいいのか? 堀越さんが倒れたときには上司や本庄様が頑張って監督してくれたじゃないか?
「海軍化の要求がコロコロと変わって…」
陸軍だって、かなりひどいぞ? 百式司偵の後釜「キ70」を立川に任せた機体への要求追加はブラック企業並だったぞ? (まあ、まぁ立川は「ありもの」の改良ばかりだった(キ77は東大航研、キ94は陸軍の援助がある)し、たとえ中島に単発機以外のものを作らせても無駄だと今だと思えるが…… 中島の双発機でまともな機体はない! え? 「月光」? ありゃ、間に合わせ以外の何物でもない。川崎か三菱に任せてれば良かったのに…)
ということまでは、中二病が終わりきった大学までの話…
・丸メカニック
・世界の傑作機
・日本の試作機
などの本を読みあさっていた時期ですね。
そう
わからん…
という状態だったのです。
判明したのは、その後、自分の仕事に「使命感(笑)」を感じて二十年くらいたったある日のこと、
そう言えば、例の件は解決したっけ?
という、またまた趣味の世界を思い出したときです。見つけました、中島飛行機の開発現場の人の本。要約すると
『中島の開発現場は、上司もなければ部下もない自由な空気が占めていた』
ということらしいのです。(まあ、それに比べて三菱は…という話が続いてますが……)
でもそれくらいでは開発の速さの理由が分かりません。
で、
『開発陣は、試作・量産・改型の三つの分業制だった』
おお! 遂に見つけました。中島の有名設計技師である小山様とかは「試作」が中心で、量産や改型にはあまり参加していない(もちろん0ではない)のですよ。対して三菱は零戦の機銃取り替えだけにも堀越さんが参加してます。これは確かに三菱側の負担が大きいということですねぇ。
まあ、このことは中島が開発した機体を中島が改設計した際には有効だったかもしれません。試作にしても工場側からの意見が言える雰囲気もあったのではないでしょうか?
ところが…… 皆さんならばご存じの通り、中島は零戦を量産してます。しかも三菱よりも多くです。そして、零戦乗りに「中島製零戦」が嫌われていたことはご存じでしょうか? 宛がわれた機体が中島製の場合、『外れ』とがっかりしています。
量産のために三菱の設計をかなり改設計してます。そのためか
「中島製のは機体性能が低い」
と言われてます。中島の機体(21型)は昭和18年くらいから配備されてますが、激戦区であったガ島戦域では結構嫌われてます。(マイナーな戦記の表現ですが…)そして末期(中島製52型?)では
「沖縄まで飛ぶと、10中8、9機が届かなかった」
という話もありました。この話を読んだときには「うそだろう? 大げさすぎ!」とも思いましたが…… どこまで事実かは分かりませんが、そういう証言もあったという程度にしておきます。
中島と三菱の設計・開発に対する「立場」の違いが如実に表れていますね。ところが、逆を考えてみると、中島は帝大出身が少なくそれぞれの立場で自由に意見が出せる雰囲気であり、三菱は帝大出が多いためにそれ以外の技師への軽視(「零観」の佐野様のような…)があったのも事実なようです。(本庄様はけっこう気を遣ってます)
「俺の設計が正しいのだから、工場はそのままに生産しろ」
ということなのですね。分かります。(分かりたくない)
ところで他社の設計・開発の状況は?
川崎は土井様というマルチ設計者がいらっしゃいます。単発機から双発機、はたまた4発機(風洞模型まではできていますから基本設計は終了していたのでしょう)……
「獅子奮迅の働き!」
ではありません。もちろん土井様以前の設計陣もいらっしゃいます。井町勇技師とか…土井様の上手いのは、以前の線形を流用して上手く向上させる手法を採られていることですね。例えばの九九式双軽爆撃機の基本設計(特に翼型)を流用してキ45改、更には続く双発機のキ96、キ102、キ108と小変更のみで使い続けているのは、基本設計自体が素晴らしかったのもありますが、開発速度を高めるためには有効な手でした。これはキ60とキ61との同時開発時にも言えます。このあたりの手法とか開発については川崎の指導的技師であったリヒャルト・フォークト(変態的(ほめ言葉)左右非対称偵察機BV141の設計者)を源流にしているのかもしれません。ただ、「研3中間機」とか「ロ式輸送機」とかの開発も手がけてますから、それなりに開発陣の裾野が広い会社だったことも事実でしょう。
愛知はどうでしょう?
かの「カ式観測機」への助言をし、「テ式観測機」の設計者である大阪大学の三木鉄夫教授はその前に愛知の設計者でした。が、どうも愛知とは喧嘩別れしているのです。(海軍での競作に負け続けていたことも原因の一つか?)
愛知は大正末期にハインケル社と提携し、かのエルンスト・ハインケル自ら指導のために来日してます。その影響を受けたのが、九九艦爆・青嵐・流星・瑞雲という一連の名機を産んだ尾崎紀男様です。(九九艦爆の楕円翼についてはステキですが、あまり効果がなかったという話もあります。明星などは直線翼(まぁ木製・戦時急造であることもありますが…)ですしね)この流れは、海軍の航空本部からの援助がかなりあったことが推測出来ます。あまりに先進的な彗星を生産させるためには九九式艦爆の開発が終わったとは言え愛知の開発現場を支えるためには少々不足しているでしょう。
ちなみに九州飛行機はかなり技研の支援があって東海や震電を製作出来てます。陸軍の立川飛行機も同様に東京大学航空研究所や陸軍の航空関係から援助受けているようですね。(立川のキ94Ⅱのデザインは好きです。長谷川龍雄様はヨタハチ・初代カローラ・初代セリカの設計もしてます。トヨタの乗用車開発陣戦後初期メンバーですね)
川西飛行機の方は、中島と喧嘩別れ(中島さんの唯我独尊的な経営方針に資金援助してた川西さんが切れた!)して最初イギリスのショート・ブラザーズ社と提携し指導援助を受けてますが、かのカルマン博士を招きいれて直立式試験風洞を設計・設置するという民間としては画期的なことを成しています。太平洋無着陸横断飛行を目的としたK-12号(「桜号」)の設計者である関口英二技師などを代表とする設計者も多くいたようですが、二式大艇の菊原静男様が有名ですね。ここの設計・開発は中島の開発陣から分離した方が多かったようですので、中島のような分業体制だったかもしれません。なにせ二式大艇・強風・紫雲がほぼ同時期ですし、強風からの紫電・紫電改、未成に終わった陣風などと多様な機体を次々と開発してます。
そう言えば、設計士・技師たちの出身校を見ていると、東京大学工学部(航空学科)ばかりが目に付きますが、中島の小山様・愛知の三木様は東北帝国大学工学部、尾崎様は大阪帝国大学造船学科といずれも帝大出が揃っています。航空科自体は東京大学が先駆してますが、その後に大阪大学などの他の帝大が次々と航空科を新設してます。このあたりは大学単体で考えるよりも、陸・海軍が昭和10年代に
「航空機開発・生産を!」
と呼びかけ、昭和飛行機・日立飛行機・九州飛行機などが産声を上げてますので、その影響もあるものと思います。また、現在の大学工学部の元となった学校も航空工学科が増設されています。(例えばヘリコプター「 特殊蝶番レ号 」の横浜高等工業学校 (現横浜国立大学工学部)などが上げられます)
つまりこの時期に、これまで少数精鋭であった航空機の専門家が次々と量産され、裾野が広がることになったのです。
これが5年早かったら…
確かに空想してしまいますが、自動車でさえ国産が始まったばかりの日本で一気に航空機開発が進むことは難しかったでしょうね。
さて話がそれましたが、中島と三菱の開発の方法が異なることをお分かりいただけたでしょうか? どちらが良いとか悪いとかの話ではなく、それぞれに「社風」というものがあってそれぞれの方法を使っていたものと考えます。現在の会社もそれぞれに異なるものでしょうけれど、ITの世界では中島的な手法なのでしょうね。
ただ、
もしも三菱が中島的分業開発システムであったら?
堀越様が度々倒れても、開発は進んでいたのではないでしょうか。もしかしたら烈風は1年くらい前に投入されていたかもしれません。(まぁエンジンが絡みますから~~そんな簡単な話ではないでしょうけれど…)
などと考えると、空想が捗りますよね。