愛の迷走
2つのマグカップに、ティーパックの紅茶を入れてお湯を注ぐと、ふんわりとアールグレイの香りが広がった。
「林檎ちゃん、綺麗ずきなのね。お部屋も可愛いし」
「ありがとう。」
お土産に持ってきてくれたクッキーをお皿に並べていると、愛さんが申し訳なさそうに覗きこんだ。
「ごめんね。下手くそだから、美味しくないかもよ。」
「愛さんの手作りなの?」
「うん。彼がクッキー好きだから。」
「じゃあ、その残りを持ってきてくれたんですね。」
ラブラブ発言をからかうつもりで言ったのが、何故か愛さんはしんみりとした表情になった。
「え?何かあったの?」
「ううん。彼、とっても紳士的よ。私とのことは、真剣に考えてくれてるの。」
「それは良いことでしょ?どうしてそんな悲しそうな顔をするの?」
「うん。それは‥‥私の気持ちの問題だから、大丈夫。それよりさ、林檎ちゃん。お手伝い辞めたのね。どうして?」
「辞めたんじゃないの。もう、手伝わなくて良いって、黒之祐さんが言ったから。ちゃんとバイト代貰えるバイト探した方がいいよって。」
「え?バイト代が欲しかったの?」
「バイト代が欲しかった訳じゃないよ。私は、一人で大変そうだから勝手に手伝っただけなのに、黒之祐さんが終わりって。」
「そうなんだ。でも、暫く来なかったでしょ?どうして?」
「だって、どう接していいか解らなくてさ…。」
「彼が既婚で、奥さんが亡くなったと知ったから?」
「え?‥‥うん。」
「確かにそうよね。でも、林檎ちゃんが知るまで、霧島さんは3ヶ月も何も言わなくて、一緒に仕事してたでしょ?。隠すつもりはなく、わざわざ話す必要も無かったのが、チョコを貰ったのが決め手になったのかな。お礼って言ってたけど、周りからは林檎ちゃんの気持ち、丸わかりだったもんね。ずっと前から。」
「ずっと前から?!」
「多分、初めて来店した日からでしょ?無意識に目で追ってたもの。」
「えー。あの、誰もお客さんが居ない私一人の情況で?もう~恥ずかしいよ~。」
「私さ、林檎ちゃんの霧島さんに対する気持ち、凄く嬉しかったの。」
「え?どうして愛さんが、嬉しかったの?」
「私だけじゃなくて、店の皆が嬉しく思ってた。最初はね。林檎ちゃんが傍に居る事で、気持ちが安定して頑張ってくれるかなって。でも、今は申し訳ない方が多い。罪悪感っていうのもあるの。」
「どうして?」
愛さんは、少し考えてから鞄から小さなビニール袋を取り出した。
それは私が花王君から、愛さんの忘れ物として受け取ったことがあるお薬袋だ。
「これ、花王君から預かってくれたから、私が何か治療してるのは知ってるよね。」
「うん。アレルギーのお薬とか?。」
「ううん、それ、治験薬なの。まだ調剤薬局には出てない薬よ。私は…治験薬の臨床試験を契約した患者なの。」
「…治験薬?…。」
「なんの治験薬かは言えないけどね。ただ、とても重い病状だったから、治験でも何でもいいから、試したかったし。元気になったら、あれもしたい、これもしたいって夢を持てた。だから、毎日が楽しくて幸せなの。だけどさ、どんなに完治したとしても、いきいき出来ても寿命からは逃げられない。そんな不安もあるよ。」
「寿命…。黒之祐さんも言ってた。奥さんは、寿命だったのかもって。でも!そう思わないと辛いからじゃないないんですか!まだ若いのに!まだ20代でしょ?!副作用だとか考えなかったんですか?!」
「林檎ちゃん。落ち着いて。」
「だって、まだ若いのに。多分結婚して何年もたってないだろうに。黒之祐さんが可哀想すぎるよ。」
「林檎ちゃん…。そうよ。あのね。あのさ‥‥奥さんも‥‥霧島さんもそう。私と同じ治験の契約をしてるの。」
「黒之祐さんも。」
「…私と違って、霧島さんは多分‥‥時間がないと思う。」
「え?どうして?元気そうだし、効果出てるように見えるよ。寿命なんて自分じゃ解らないのに、愛さん、どうしてそんなこと言うの?!」
「逢いにくいとか言ってる場合じゃないの。お願い。一緒に楽しい時間を作ってあげて。林檎ちゃんまで離れてしまったら‥治験辞めてしまうかもしれないの。そしたら‥‥‥。
ごめんなさい。言い過ぎた。聞かなかった事にして。契約上、本当はこんな事言っちゃいけなかったのに。私、どうしていいのか解らなくなってるみたい‥‥。霧島さんには言わないでね。」
頭が混乱していて苦しくなって、もう何も言いたくなくなってしまった。
「ごめんなさい。今日は、帰るね。」
愛さんは、うつむいたままの私の背中に向かって、小さな声で謝って部屋を出ていった。
黒之祐さんに、時間がないってどう言うこと?
奥さんと同じ治験の契約…。
奥さんと同じ様に、寿命?
訳が解らないよ。
嫌だ。嫌だよ。
治験薬やめたらどうなるの?
また、再発してしまうの?
だから居なくなるかも知れないから
離れるようにしたの?
嫌だよ。
一緒にいたいよ。
もっと、沢山話したいよ。
嫌だ。
嫌だ。
何処にも行かないで。
気がついたら、寮を飛び出して
店の前に来ていた。
奥の方で灯りが着いているのが解る。
黒之祐さんが、まだ一人で仕事をしているんだ。
私は、扉を開けて、店の奥へと駆け込んだ。
「申し訳ないのですが、もう、閉店時間を過ぎてるんですが。」
扉の音に気がついた黒之祐さんが、奥からこちらに向かって歩いてきた。
「…林檎ちゃん?」
黒之祐さんの姿を見つけた途端、涙が溢れた。
泣き顔の私に驚いたのか、直ぐに傍に駆け寄って来てくれた。
「何かあった?」
暫く彼を避けていた私に対して、今までと変わりなく優しく話しかけてくれた。
「く…黒之祐さん。」
「なに?大丈夫?」
大きすぎる悲しさに耐えきれず、躊躇いもなく彼の胸に顔を伏せ、声をあげて泣いてしまっていた。
そっと背中を抱き寄せ、優しく頭を撫でてくれる大きな手は、イルミネーションを観に行った時に繋いだ手とは違って、弱々しくてひんやりとしていた。
その儚さが、「時間が無い」という言葉に繋がって、本当に居なくなってしまうんだと言う真実に、私は泣き止む事が出来なくなった。
このまま時が止まればいいのに。
永遠にこのままでいられたらいいのに。
黒之祐さんの優しい腕の中で、泣きじゃくりながら、愛さんの言葉を思い出した。
「お願い。一緒に楽しい時間を作ってあげて。」
本当に避けられない別れが来るのなら、沢山の楽しい出来事で、幸せな思い出を作りたい。
黒之祐さんの為にも
お店の皆の為にも。
そして、
私も後悔しないように…。
特別な時間を沢山一緒に過ごしたい。
そう決心して涙を堪えて、彼を見上げると、心配そうな表情で私を見つめていた。
「私…私…。4月に3年生になるから、忙しくなるし…。卒業したら、地元に帰るから。それまでに、この街で沢山思い出を作りたいの。黒之祐さんと…一緒に。…だめ?ですか?」
一瞬きょとんとした表情をした黒之祐さんは、私の頬の涙をぬぐって優しく笑った。
「林檎ちゃんが、笑顔でいてくれるなら、俺は何でもするよ。」
「…ありがとう。」
無条件で向けられる優しさに、嬉しさと悲しさが混ざりあって、
苦しくなった私は、もう一度黒之祐さんの胸に顔を伏せた。
さっきは気がつかなかった、コーヒーの香りに混ざった消毒薬の匂いが、以前よりも強く感じられて、一層別れが近んだと言う不安感に体が震えた。
逝かないで欲しい!
思いが溢れた私は、両手を彼の体に回しぎゅっと抱きしめた。
「林檎ちゃん…だめだよ。直ぐに寮まで送るね。」
そう言いながらも、黒之祐さんは、
私の頭を何度も何度も優しく撫でてくれた。
月明かりの中を、私達は手を繋いで歩いた。柔らかな風の中に、春の匂いがしていた。
「月末、桜、観に行こうか。」
「お花見?いいの?」
「うん。一緒に行こう。」
「本当に?!嬉しい!どこの桜がいいかな?」
「綺麗に咲いてる所、探しておくからね。」
「楽しみ~。黒之祐さんとお花見行けるの。嬉しい~。いっぱい写真撮ろうね。」
「そうだね…。林檎ちゃん」
「はい?」
「やっぱり、君は笑ってる方がいいよ。
俺は、林檎ちゃんが笑ってると、本当に幸せを感じるんだ。だから、笑ってて欲しい。」
「黒之祐さん。」
「おやすみ。今度店に来るときは、笑顔でくるんだよ。」
「はい。…あの、お店に行けない時もあるから、これ、私の携帯番号。何か連絡があったら、電話してきて下さい。」
「うん、解った。連絡するよ。」
「おやすみなさい。」
「じゃあ。」
黒之祐さんは、手を降って月明かりの中、駅の方へと去っていった。
そのまま、スッと月の世界へ旅立ってしまいそうな程の美しい後ろ姿を、
追いかけてしまいそうな気持ちを堪えて、見えなくなるまで見送った。