新緑色のトワイライト
金木犀の香りが涼やかな風に乗って街中に広がってゆく。
甘くうっとりする香りを胸いっぱいに吸い込むと幸せな気持になる。
コンビニにゆく道すがら、改めて秋を感じた。
ふと、その香りの中に香ばしい薫りが混ざりこんで来ることに気が付き、辺りを見回すと真新しい一軒の建物を探し当てた。
いつの間に出来たんだろう?
毎日通学に使う細い路地にある控え目な佇まいのその店は、香しい珈琲の薫りを道しるべにして、私をしっかりと引き止め誘っている。
50年代風の店構えのシックな扉は、学生の私が躊躇してしまう「大人の世界」への入口に思えた。
不安と期待が混ざった頭の中で、覗くだけにすべきか思い切って入ってみるか思案していた。
コンビニのコーヒーよりも高いだろうけど、絶対に美味しいはずだ。
客層は中年のオジサンやお爺さん達だろう。私のような学生が入っていいのか・・・。
でも、出来たばかりの店だから、まだ常連客もいないはずだと、魅力的な店構えと珈琲の薫りの誘惑に逆らえず、思いっきて扉に手を掛けた。
「いらっしゃいませ」
店の中には、4人の制服姿の店員だけで、お客さんは1人もいなかった。
小柄の女性が、私を出迎えて奥のテーブルに案内してくれた。
店内のインテリアも、外観と同じ50年代風に落ち着いている。
店員達は私より少し年上ぐらいで、
カウンターの中で珈琲を沸かしている男性も、オジサンやお爺さんではなく、入店する前の想像とは違っていた。
大人ばかりの店だと思っていた緊張はなくなり、席に案内してくれた女性に注文を告げた。
「すいません。ブレンドをお願いします。」
「少しお待ちくださいませ。」と女性は、丁寧に会釈をしてカウンターへ向かった。
私以外にお客さんは入って来ない。
この小さなお店に、男性2人女性2人は多いように思った。
カウンター内の男性が珈琲を入れる様子をぼんやりと見ていると、
「開店初日なので、サービスで出させて頂いています。お口に合いましたら、またご来店くださいませ。」
先程の女性とは別のハーフっぽい女性が、テーブルにケーキを運んできた。
「洋梨のタルトでございます。」
「ありがとうございます・・・。」
綺麗に飾られたみずみずしい洋梨が乗ったタルトに見入っていると、小柄の女性がブレンドを運んできた。
日曜日のお昼過ぎに私1人しかいない「今日が開店日」のお店。
大丈夫なんだろうかと、勝手な心配をしながら、なんだか申し訳ない気持ちになりながら、珈琲を口にした。
ふと、カウンターの中にいるもう1人の男性店員と目があったので、
タルトをつつく振りをして、なんとなく目をそらしてうつむいた。
気まずい・・気まずいよ。誰か他にお客さん来て欲しいよ・・・。
テーブルの横に誰かが来たので顔を上げると、先ほど目が合った男性店員だった。
「すいません。従業員の方が多くて落ち着かないですよね。」
今思っている事をはっきりと言い当てられて、苦笑いしかできない。
「ご来店くださりありがとうございます。」
「いえ・・あの、素敵なお店が出来たなあって思って・・・。」
「それは、ありがとうございます。地域の方の憩いの店にしたくて、敢えて宣伝をしなかたんですが、せっかくご来店いただいたのに、これじゃ落ち着かないですよね。」
「あの・・もしかして私が初めてのお客って事はないですよね?」
「はい、開店1人目のお客様です。」
びっくりするしかなかった。朝のうちに少しは人が入ってるだろうと思ってたのに、まさかの一番目だなんて・・・。
私が気が付かなかったら、この時点で来店客0だったわけだ。
「明日、大学の友達を連れてきます。寮が一緒なんで。」
「ありがとうございます。助かります。」
柔らかく微笑むその男性との約束通り、私は寮の友達を何人か連れてゆくようになり、いつの間にか店は近所の常連のお客さんと寮生でいっぱいになって行った。
通ううちに、小柄の女性が「外谷愛さん」。ケーキをサービスしてくれた女性が「宮崎亜論さん」。カウンターで珈琲を淹れていた男性が「浦野進さん」。私に話しかけてきた男性が「霧島黒之祐さん」だと知った。
そうそう、店の名前も外観に気を取られていて見ていなかったので、
後になって「珈琲ジブラルタル」と小さく書かれてあるのを見つけて知った。
年も近そうだから、店員の皆とも気軽に話せるようになったけど、黒之祐さんは、初対面の時の印象と違いあまり話さない人だった。どういう訳か「お客様第一号」と言う理由で、黒之祐さんは毎回私にケーキをサービスしてくれる。
朝8時から開いている店は、あっという間に近所のオジサンたちの憩いの場になり、ランチタイムから夕方までは、学生や主婦の人達で満席になる。
木枯らしの中、私「金野林檎」とルームメイトの宇佐優姫は、閉店近い6時半ごろに店の扉を開けた。
「いらっしゃい、待ってたよ」
愛さんが笑顔で迎えてくれた。
「この時間帯、お客さんが少ないから、皆と話せていいよね」
閑古鳥が鳴いていた初日を知らない優姫が嬉しそうに言う。
カウンター席に座ると、
「カフェモカとカフェオレだね。」
進さんがおしぼりを出して聞く。
「そう。あったかいのお願いします。あれ?黒之祐さんはお休み?」
優姫が珈琲を入れている進さんに尋ねた。
「急な用事ができたから、帰ったんだ」
「そっかあ・・。来月、クリスマスに寮でパーティをすることにしたんで、皆も来て欲しの。7時からだから、来られるでしょ?黒之祐さんも誘いたいし。」
弾むように話す優姫の誘いに、愛さんが目をキラキラさせて、すぐに頷いていた。
「大学生がいっぱい集まるんでしょ?楽しそう!勿論参加するわ。」
「そうね、皆で参加してもいいね。」
亜論さんも進さんも参加の約束をしてくれた。
次の日、黒之祐さんも誘えると思っていた私達は、暫く休みで来られないと聞いてがっかりしたが、お誘いは進さん達にお願いして、私と優姫はパーティの準備で店に通うことはなく、通学や買い出しの際、店の前を通り過ぎるだけの日が続いた。