第四十四話:羽切葛杷
「何で死体が消えてんだよ!」
何もいなくなった枝を凝視し、渋沢が叫ぶ声を聞きながら、俺は咄嗟に身体を反転させて家の中へと戻った。
床の状態を考え、履いたサンダルは脱がずに細い廊下を駆けると、すぐに渋沢もついてきたのが音でわかった。
家の中は、全てが真っ暗だった。
点いていたはずの電灯は幻であったかのように消え失せ、台所も茶の間もライトがなければ足元も見えないような有様になっている。
「おい、茜! 大丈夫か?」
茶の間へ入り、即座にスマホの明かりをかざすと、埃とゴミにまみれたテーブルに頬杖をついた戸波が、胡乱な瞳でこちらを見上げてきた。
「大丈夫って、何が? どうしてそんなに慌ててるの?」
状況がわかっていないような、あまりにも危機感のないその声に、胸糞の悪い焦燥感だけが膨らんでくる。
「どうしてって、お前この状況見て何も思わねぇのかよ!」
俺を押し退けて茶の間へ入った渋沢が、戸波の前へと近づき大声を浴びせた。
だが、戸波本人はぼんやりとしたまま周囲を見回し、
「この状況って?」
と、不思議そうに首を傾げるだけ。
この異常な状況を微塵も理解していない戸波の様子に、俺はぐらりと眩暈がしそうな感覚に襲われた。
ひょっとしたら……いや、間違いなく俺と渋沢も数分前まで戸波と同じ状態だったのではないのか。
きっかけは何だったのか。
あり得るとすれば、この家から外へ出たこと。それがスイッチとなり、幻覚から目覚めたのだとすれば……。
テーブルへライトを当てれば、俺たちの座っていた場所には濁った液体が入ったコップと、縮んで干からびた黒い何かが載せられた皿が埃に埋もれて置かれている。
「…………」
自分たちは、何を口に入れさせられていた?
首筋に毛虫が這うようなゾクゾクとした感触が走ると同時に、胃が不快感を訴えてきた。
改めて室内を照らせば、床には様々な物が散乱している。
埃に埋もれた小物から、妙に新しい感じのするバッグやジャンパー。
それらを一瞥して、俺はある可能性を脳裏へ浮かべた。
部屋の隅に置かれているリュックは、埃を被ってはいるものの他の物よりも一番新しく見える。
他にあるバッグや服もそうだ。まるで、そこへ置かれたタイミングに大きなばらつきがあるみたいに、埃の積もる量や劣化の具合に明らかな差異が見られる。
そして何よりもおかしいのは、ついさっきまでこれらの物は一切この部屋にはなかったはずだということ。
「……全部、放置されたのか」
無意識に、俺は呟きを漏らした。
ここにある不自然なリュックや服は、全て過去に自分たち同様ここへ迷い込み、何かしらの理由があって置き去りにせざるを得なかった物たちなのではないか。
例えば、今の俺たちのような、訳の分からない状況に遭遇し、慌てて逃げだした……というような。
自分たちが今まで見ていた光景は、全て幻。そして、この家へ誘い込んだ張本人であるあの女――羽切葛杷は……。
「――?」
よろめくように足を動かした瞬間、カサリと小さな音を立てて何かがつま先に触れた。
ハッとしながら下を照らせすと、そこに新聞の切り抜きが一枚放置されているのを見つけた。
しゃがみ込み、それを拾う。
結構古い記事のようだが、いつのものかは日付が記載されていないのでわからない。
「おい、そんなん見てる場合じゃねーだろ」
新聞の切り抜きを読みだす俺に、渋沢が焦れたような声をかけてくるが、そちらへ反応を返す余裕はなかった。
【山中の一軒家で男性の首吊り死体。家の中には腐敗した女性も】
記事のタイトルを見た瞬間、裏庭の木からぶら下がる男をすぐに連想した。
この事件が発覚したのは、どうやら六年前の三月。
【――三月十九日(金)、この家を訪ねた市の職員が、家の中から異臭がすると警察へ通報。事件が発覚した。この家に住んでいた男性、羽切幸太郎とその妻、羽切葛杷が遺体で発見され、夫である幸太郎は裏庭の木で首を吊った状態で見つかった。死後数週間が経過しており、現場の状況から自殺の可能性があるとみられている。また、家の中からは首を切断された妻の遺体が見つかり、遺体の損傷が激しくこちらは死後数ヶ月が経過していた。警察は現在、夫が妻を殺害し、その後何らかの理由で自殺を図ったものとみて捜査を進めている】
「……何だよ、これ」
写真などは載っていない。だが、詳細には書かれていないとはいえ、記事に記載されている地名を確認する限り、この事件が起きたとされる場所は、今自分たちがいるこの家とほぼ一致している。
「おい、そんな紙切れがどうかしたのか? 早く茜連れて逃げようぜ。マジでやべぇぞここ」
戸波から俺の方へ身体の向きを変えてくる渋沢へ、俺は読み終えた切り抜きを差し出す。
「これ、読んでみてくれよ」
「ああ? こんな時に何を悠長に……」
苛々したような荒い口調になりながら、渋沢が俺の手から切り抜きをひったくり、その文面へ視線を落とした。
ライトで照らしてやりながら暫し待つと、やがて渋沢は「マジか……」と重苦しい吐息を漏らし、弾かれたようにして戸波の腕を掴むとそのまま強く揺らし始めた。
「おい、茜! 逃げるぞ、すぐに立て!」
「きゃっ!? ちょっと、いきなり何――え? うわ、どうして急に電気が消えたの?」
ガクガクと乱暴に身体を揺すられ正気に戻った戸波は、一瞬不快そうに文句を口に出そうとしたが、すぐにビクリとしながら天井を見上げ、戸惑うように渋沢の腕へとしがみついた。
「オレらだってわかんねぇんだよ! とにかく立て! 今はここから離れるのが先だ!」
強引に戸波を立ち上がらせ、渋沢は自身のスマホのライトを点けた。
「え? え? 羽切さんは?」
「いいんだよ! おい、行くぞ」
俺の方を向き、玄関へ行けと顎をしゃくり告げてくる渋沢の声に、躊躇することなく同意する。
考えてみれば、おかしなことはいくつもあった。
怪談会を行う最中、その違和感を感じ取っていたのに、気づききれずにいたのはあの羽切の仕業だったのだろうか。
ここへ来て、最初に外観を眺めた時。
家の周りは藪のように群生する下草が取り囲んでいた。
庭は整地され畑も見えたが――恐らくあれも幻覚だったのだろうが――、それ以外の場所は手入れも何もされていない状態。
この家へ通じるための道が、どこにもなかった。俺たちは羽切の案内の下、獣道とも呼べぬような場所からこの家の庭へ辿り着いたのだ。
それがまず、普通じゃなかった。
それに、電気だ。
この家の周囲に、人工物はなかった。
それは、電柱や電線も例外ではなく。最初に見上げた屋根に、電気を通すはずの電線を目にした記憶がない。
それなのに、この家は初めから当たり前のように電気が点けられた状態で俺たちを迎え入れたというのは、冷静に考えれば不自然だった。
「ほら、しっかり歩けよ!」
「ちょっ……痛いから! 何なのよもう!」
外へ向かい歩きだす二人の声を背後に聞きながら、俺の脳はこの数時間で蓄積した矛盾をタガが外れたように溢れさせてくる。
家の中にいる時もずっとそうだった。外ではあんなに野鳥や蝉の声が聞こえていたのに、中へ入ってからは驚くほどに無音と化していた。
どう考えても防音性のある家ではない。風の音すら招き入れそうなこの家屋で、あんな静寂はありえないはずだった。
そして何より。
一番おかしかったのは、気温。
窓を閉め切り、クーラーも扇風機もない部屋の中に長時間いて、微塵も暑さを感じなかった。
今は服が肌に張り付くようにして汗が滲み出てきているのに、どうして先程まではあれほど普通でいられたのか。
この空間そのものがまがい物であり、意識もずっとコントロールされていたと仮定すれば、真実は全て覆い隠されていたことになり、違和感を明確にすることすら至難だった。
突然止まった時計も、新聞記事と同じ時期からそのままになっていたカレンダーも、全てをもっと疑えていれば。
「おい、佐久田、早くしてくれ!」
玄関で靴を履きかえる俺に、渋沢が焦れた声をぶつけてくる。
「わかってる。ちょっと待ってくれ」
ライトに照らされる自分たちの靴だけが、場違いのように真新しく見える。
「――よし」
靴を履き、老朽化で建て付けが悪くなっている玄関のドアを無理矢理開け放ったその瞬間――。
「どちらへ?」
まるでタイミングを計っていたかのように、奥の座敷から羽切の声が響いてきた。
「……どちらへ、行かれるのですか?」
ビクリと肩を跳ねさせ、俺たちは三人同時に部屋の奥へと振り返った。
「まだ、夕食の用意が済んでいませんが」
「ひっ――!」
喉を引き攣らせるような、戸波の短い悲鳴。
茶の間と座敷、その間にある欄間から、逆さまになった羽切の顔が覗いていた。
驚愕し、動けなくなる俺たちの前で、渋沢の向けたライトに照らされる羽切の首が、ボトリと鈍い音を立てながら畳の上へ落ちて転がった。
「帰られるのでしたら、せめてお見送りをしなくてはいけませんねぇ」
赤黒い首の切断面をチラリと見せながら、毛細血管が浮き出て血走ったようになった目でこちらを見つめ、羽切はニタリと微笑み、血で染まった歯を覗かせる。
それを見た戸波が、狂ったような甲高い悲鳴を上げた。
それに追い立てられるようにして我に返った俺と渋沢は、急いで踵を返すと飛び出す勢いで外へと逃げだす。
「しっかり歩けよ! 佐久田、手ぇ貸してくれ!」
「ああ!」
半狂乱で泣きじゃくる戸波を一人で支え歩くのは困難だと渋沢に助けを求められ、俺はすぐに戸波の左へ移動して腕を肩へ回させた。
ドッ……ドッ……ドッ……という、ゴム毬が弾むような音が家の中から近づいてくる。
「来てるぞ! 急げ!」
振り返らないまま渋沢が叫ぶのを合図に、俺たちはおぼつかない足取りで必死に羽切家から離れ、草藪の中へと入っていった。
「――また、迷い込んでくださいねぇ」
下草を掻き分ける音に紛れて、背後から不気味な笑い声が響いてきたが、この瞬間の俺たちには、振り返るほどの余裕など微塵もなかった。




