第三十五話:夜に揺れる
さて、二つ目は武山さんという四十代の女性から聞かせていただいたお話をしましょう。
これから話す体験をした後、割とすぐに引っ越しをしたそうなのですが、当時その方が住んでいたのは市営住宅だったそうで、四歳になる男の子との二人暮らし。所謂シングルマザーだったんですね。
それで、生活も大変だということで、家賃の安い市営住宅に住むことにしていたそうなのですが、その部屋で結構不気味な体験をしてしまったと言うのです。
住み始めて最初の一ヶ月程度は、特に何も問題なく生活をしていたそうです。
しかし、その一ヶ月を過ぎた頃から、あるおかしな出来事が側で起きていることに、武山さんは気がつきました。
それは何かと言うと、毎週日曜日の夜、十時を過ぎたくらいの時間になると、決まってベランダからドン……ドン、トン……と、何かが壁にぶつかるような音が聞こえてくる、というものでした。
その音は、ベランダの側にいると結構はっきり聞こえるくらいの大きさで、毎回五分くらい鳴り続ける。
武山さんは、その音が聞こえていることに気づいてからはどうしても原因が気になり、何度かベランダへ出て音の正体を確かめようとしたらしいのですが、どうにもそれがわからない。
その市営住宅は五階建てで、武山さんの部屋は二階。
誰かがベランダへ入り込み、悪戯をするなんてことはできないし、何か石などを投げ込まれたりしている形跡もない。
いったい何なんだろう、どうして日曜日の夜にばかり変な音がするんだろう。
武山さんは、どうしても理由がわからず、首を傾げることしかできずにいたそうです。
しかし、そこで暮らし始めて半年が過ぎた頃、武山さんは偶然にも音の正体を知ることとなりました。
いつも通りの日曜日。時刻は十時過ぎ。
また、ベランダから壁を叩くような音がし始める。
ああ、今週もまた鳴ってるなぁ。
その日は翌日に用事があったため、武山さんは子供を寝かしつけながら自分も既に布団へ入っていて、その時の音は布団の中で聞いていたと言います。
そうして、一分、二分と静かに音を聞いていた武山さんは、ふともう一度ベランダへ行き音の発生源を調べてみようと思いついた。
と言うのも、もしこれが誰かの嫌がらせなどであるなら、部屋の明かりが消えている今の状態であれば、ベランダへ近づいても相手にはばれないはずだし、せっかくだから一度くらい試しておくべきではと、そう思ったそうなんです。
それで、子供を起こさないよう静かに布団から起き上がり、ベランダのある部屋へと足音を殺して歩いていった。
閉められたカーテンの前に立ち、外の様子を窺おうと慎重にカーテンを捲りその隙間からベランダを覗いた武山さんは――そこで、人の足を見てしまった。
外は晴れていたため満月がでていて、その月明かりに照らされるように、ベランダの上から二本の足が垂れ下がり、まるで藻掻くようにバタバタと揺れている。
その踵が、時折ベランダの壁に当たり、叩くような音を響かせていた。
それを見て武山さん、咄嗟に上の住民が首を吊ってるって思ったそうなんです。
これは早く警察を呼ばなくてはと慌てかけたそうなのですが、武山さんがその場を離れるより一瞬早く、その垂れ下がっていた足は弛緩したように動きを止めると、そのまま幻のように消えてなくなってしまった。
驚きで動けなくなりながら武山さん、ようやく答えがわかった。
これまでずっと聞こえていたあの音は、これが原因だったんだと。
自分が見えていなかっただけで、今までベランダへ出て外を確認していた時も、すぐ頭上で今の足がずっと暴れていた。
武山さん、その夜は恐くなって息子さんへ抱きつくようにしながら布団の中で眠れぬ一夜を過ごしたそうで、翌日、同じ棟に住む人たちにそれとなく上の階の部屋について訊いて回ったらしいのです。
そしてわかったのが、武山さんの真上に位置する部屋で、十五年程前に男性がベランダで首吊り自殺をしたことがあるということ。
うつ病か、それに類似したような精神病を抱えていたようで、それで夜に自殺をしてしまい、翌朝、ベランダにぶら下がっている男性に住民が気付いて通報した。そんな経緯があったそうです。
その男性は、それからずっと毎週日曜の同じ時間になるとベランダで首を吊り続けていたのでしょう。
その証拠に、武山さんが借りた部屋と真上の部屋は、どういうわけか入居者がすぐに引っ越してしまい、人の入れ替わりが激しい場所だったそうです。
武山さん親子も、その話を聞いて一月後には近くにあるアパートへ引っ越しをしたんですよと、困ったような表情で語ってくれました。




