スモーキーチューン
「煙草は寒ければ寒いほど美味い」と言う元彼の言葉が、煙のようにふわりと頭に浮かんだ。あれがオカルトだったのか科学に基づいた事実だったのかはわからないままだけれど、確かに冬の煙草は味がしっかりとしている気がする。
冷え切った指先を下げ、ふうと息を吐き出すと、真っ白な煙が姿を現す。どこまでが白息でどこまでが煙草の煙なのかもわからない塊が、蛍光灯に照らされてゆらゆらと揺れた。
終業後の喫煙所には、名も知らぬ社員たちがまばらに見られた。ほとんどが帰宅準備を終えた人ばかりで、舌打ちをしたくなる。一方、コートも羽織らず外に出てきてしまった私。ちくしょう。残業代でおいしい物を食べに行こう。沙由も巻き添えにして。
慣れない花のような香りを燻らせて留飲を下げていると、喫煙所に新たな人影が現れた。
「お疲れさん」
「お疲れ様です」
上がった手に軽く会釈を返すと、彼は私の隣を陣取って煙草に火をつけた。牧場のような匂いが私の鼻を刺した。
課長の辻井さん。オフィスで言葉を交わすことはほとんどないけれど、入社当時から喫煙所で顔を合わせることが多かったのでなんとなく交流がある、年齢も地位も私より遥かに上の、いわゆる煙草友達だ。私は彼の子どもの顔と名前まで知っている。
そんな彼は、こんな寒空の下、ワイシャツの上に何も羽織らず身を震わせていた。私は煙草を一吸いし、彼に視線を向けた。
「残業ですか?」
「おう。栗山もか?」
「見ての通りですよ」
首から下げた社員証を持ち上げると、彼は困ったように笑みを浮かべた。皮肉に取られてしまったのだろうか? そんな気は毛頭なかったけれど、申し訳ないことをしてしまった。逃げる様に煙草に口を付ける。
吐き出した煙が、吹き込んだ風に吹き飛ばされた。私がきゅっと肩をすくめると、辻井さんは同じように身を縮こまらせた。
いくら熊のような体型の彼でも、この寒さは堪えるのだろう。彼は大きく煙を吐き出し、ぽつりと呟いた。
「寒いなぁ」
「そうですね。課長は特に寒そうですけど」
「油断してた。たかだか煙草を吸うだけで、こんなに寒い思いを強いられるなんて、厄介な世の中だよなまったく」
「そういう時代ですからね」
とはいえ、私が煙草を吸い始めたころには、もうこういう時勢になっていたけれど。思考を飛ばす様に吹いた冷たい風に、頬の温度が奪われた。
使わなくなった駐輪場を再利用しているだけなので、喫煙所はとにかく寒い。風を遮るものもないし、暖を取る手段もない。昨日塗り替えたばかりの青い爪が、無様に震えている。
息を吐く音が薄闇に浮かんだ。私は話題を探しながら煙を吸い込んだ。
「そういえば、煙草は寒ければ寒いほどおいしいって、誰かが言ってた気がします」
「煙草はな、燃焼温度が低いほど美味く感じるんだよ」
「へえ。そうなんですね」
「とはいえ、限度はあるがな」
辻井さんは大きな身体をぶるんと震わせた。その様子が動画で見た犬にそっくりで、私はくすりと笑みを浮かべる。
なるほど。元彼の言葉は、ちゃんと理に適ったものだったのか。わかったとて、何かが変わるわけではないけれど。ぼうっとそんなことを考えていると、辻井さんは火先を私の煙草に向けた。
「煙草、変えたのか?」
「わかります?」
「匂いでな」
どうせなら、綺麗に塗れた爪の方に注目してほしかったんですが。私はわざとらしく眉をしかめ、ポーチから箱を取り出した。
「実は朝、コンビニで買い間違えちゃって。乱視なんで、番号がはっきり見えなくて、一か八かに賭けたんですよ。そしたらこのザマです」
「なるほど。これじゃないって言えば良かったじゃないか」
「きらきらした顔でこの箱を持ってきた学生バイトちゃんを見たら、違うって言えなくなったんですよ」
私の言葉を聞いて、辻井さんはくつくつと噛むような笑いを浮かべた。笑うがいい課長様。今後は絶対に裸眼でコンビニになんて行ってやらないからな。
短くなった煙草を灰皿に放り込み、私は箱から一本煙草を取り出した。歯でかちりとカプセルをつぶし、煙草に火をつける。ライターの光が、一瞬だけ手先を温めた。
パッケージの柄は毒々しいし、人工的な花の匂いも好きになれない。そもそも、元彼が吸っていたものと同じ銘柄だから、良い思い出がない。それでも私は煙を大きく吸い込んで吐き出した。薄い闇の牧場に、ふわりと花が咲く。
しばらく隣で笑みを浮かべ続けていた辻井さんは、煙草の先を強く光らせた。器用なわっかがふわふわと、蛍光灯の灯りに向かって進んでいく。
「変わったなぁ」
「時代がですか?」
「いや、栗山がだよ」
辻井さんは朱色の光を私の社員証の方へと向けた。光に導かれるように、私は自身の胸元に視線を落とす。入社当初から変わっていない社員証。栗山雪乃という文字の横では、今より幾分若い垢ぬけない私が仏頂面を浮かべている。
私は冷えた指先で社員証を弾いた。
「確かにこの頃より多少は老けましたけど」
「違う違う。前までなら絶対に、ミスの話なんか俺にしてこなかっただろ? 上司としてはありがたいよ」
「そ、そうですか……」
私は落としそうになった煙草にきゅっと力を込める。まだ息を潜めていたカプセルに爪が突き刺さり、小さく弾けた。
課長への好感度は、良くも悪くも長期間横ばいのまま。態度を変えたつもりはない。だとしたらこの変化は、私自身の変化ということだろう。私は呼吸を正し、視線を彼に戻した。
「ちなみに、いつ頃からその変化は——」
「覚えてねえよ」
「ええー。課長って、記念日とか覚えないタイプですか?」
「馬鹿言うな。携帯の暗証番号を結婚記念日にするくらい気にするタイプだよ」
辻井さんはおおらかに笑い、火種を灰皿に擦りつけ、それをそのまま放り投げた。半分以上残った煙草が、黒い穴に吸い込まれていく。
「ジジイの戯言だ。気にすんな。寒いから一足先に戻らせてもらうぞ」
「あ、はい。お疲れ様です」
喫煙所から出ていく彼の背中が、煙でぼんやりとぼやける。文字通り煙に巻かれてしまったけれど、私は彼の言葉をじっくりと噛み締めた。
ただの煙草仲間に変化を言及されたというのが嬉しくて、私は必要以上に息を吐き出し、心の中で小さくガッツポーズを掲げた。心の中なんだから、小さくする必要はなかったかな。自分でツッコんで、自分でおかしくなってしまい、私は気味悪く笑みを浮かべた。
今から約半年前。私は弱音が吐けず強がりばかりの哀れな自分を、打ち上げ花火に合わせて放り捨てた。がっかりされても弱い自分を隠さないでおこうと、そう決めたのだ。しかし、内面の変化を噛み締める瞬間というのは、案外多くない。
時間は地続きで、今の私と昔の私にはっきりとした境界線は引かれていない。白息と紫煙のように、境目がわからないまま、日々何かが少しずつ変わっているらしい。
弱みを吐けなかった仏頂面の私からすれば、あの言葉を貰えたというのはもはや進化といっても過言ではないのだ。笑みを隠すように、私はいつも以上に煙を吸い込んだ。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
浮かれる私の隣に、ふわりと人影が現れた。整えた髪に精悍な顔立ち、シックなチェスターコート。さっきの熊とは大違いなほど爽やかな人影は、違う部署の後輩である市川君だった。
他の職員同様、帰る用意を済ませている彼は、靴からビジネスバッグに至るまで全てを同じブランドで統一していて、店頭に並んだマネキンを引っこ抜いてきたみたいだった。
彼はとんとんと箱を叩いて煙草を一本取り出した。
「ここに来ると、一日終わったーって感じがしますよね!」
「まあね」
「もし暇なら、今から飯とかどうっすか?」
「今から?」
「栗山さん、彼氏と別れたらしいじゃないですか。飯くらい付き合ってくださいよ」
私は返答を考えながら、見せつける様に煙を吸い込んだ。きらきらした瞳を見たところ、皮肉を言っているわけではなさそうだ。会話を広げようと必死になってくれているのかもしれない。トークテーマのセンスはゼロ過ぎるけれど。
天秤。お近づきになりたがっている後輩と、早くオフィスに戻りたい私。
理想の先輩でいるためには、前者に重きを置くべきなのだ。さくっと残業を終わらせて、食事に付き合ってやればいい。数か月前の私なら、間違いなくそれを選んでいただろう。がっかりされることは、私にとって致命傷だから。
でも、今はそれに傾く気が全くしない。大きく吸い込んだ煙を吐き出す。
「寒ければ寒いほど、煙草って美味しいよね」
「えっ?」
私は自分が編み出した発見のように言葉を並べ、煙草の火を消した。元彼から借りた言葉だし、課長から解は貰っている。捨て置く台詞としては、ちょうどいい塩梅だろう。
浮かぶ煙はやっぱり人工的な花の香りがして、私には合わなかったみたいだ。元彼からは不評だったあのバニラの香りが、私は好きだし。
私はポーチからもう一度煙草の箱を取り出し、それを市川君に向け投げた。
「あげる。間違って買っちゃったから」
「うわっと」
「残業があるから戻るね。食事なら別の誰かを誘ってちょうだい」
私は返答も受け取らず、跳ねる様に喫煙所を出た。
吹き込む風が無くなれど冬は寒い。この空気が暖かくなるころには、白息と紫煙の境目を見分けられるようになっているだろうか。
今は煙を吐くだけで精一杯だったけれど、ひょっとしたら、スマートに相手を煙に巻く私に進化しているかもしれない。
充実した煙草休憩を満喫した私は、自身の変化を噛み締めながらオフィスに戻った。