その日、聖女が落ちてきて
注記:下品なネタが幾つか出てきますので、これから食事を取られる方はご注意ください。
その日、聖女は上空四万二千メートルに召喚された。王国の魔術師がうっかりミスをしてしまったのだ。
もちろん、この異世界においても、その高さは成層圏だ。あるいは、オゾン層といった方が馴染みもあるかもしれない。
何にせよ、つい数秒前まで大学生だった聖女こと南波七海は、物の見事に異世界の上空で真っ逆さまに落下していたわけだ。
正直、七海からすれば、さっぱり意味が分からなかったはずだ……
気づいたら、大気圏にいたのだ。
視界にはまず大きな球体が見えた。陸地や海がうっすらとあることから、そこが地球か、もしくは似た惑星だとすぐに気づいただろう。さらに見渡せば、どこまでも果てない暗闇――そう、宇宙である。
七海はそこで思わず、「息は?」と呟いて、すぐに口もとを手で押さえた。
ただ、不思議なことに呼吸はできた。宇宙服も着ていないのになぜ可能なのか、さすがに七海にも分からなかった。もっとも、これには一応の理由がある。
聖女として異世界召喚されるに伴って、ステータスが大幅に上がったのだ。
ステータスが上がれば本当に成層圏で呼吸ができるのかどうか、そういった物理的かつ生物的かつなろう的な問題はさておいて、とりあえず、七海は「ほっ」と息をついた。
とはいえ、七海の落下速度はすでに音速に近づいていた。
今いる成層圏の気温も、落下するにつれて少しずつ冷たくなってくる。
そもそも、落下による風圧と、成層圏特有の偏東風が当たって、体は冷え切っていた。その程度で済んでいるのは、聖女として水魔法や風魔法に対する耐性を得てしまったからなのだが、もちろん七海本人はそんなこと知る由もない。
ただし、そんな七海にも、一つだけ、確信していることがあった――
「このまま地上に落ちたら……わたし、絶対に死ぬよね」
そう。七海にとって、墜落死へのカウントダウンはとっくに始まっていたのだ。
★
南波七海のちょうど真下では、勇者と魔王が戦っていた。
もっとも、七海はフリーフォールしているので真下という表現は正確ではない。そもそも、ほんの少し手足を動かしただけで、あらぬ方向に回転して落ちていくのだ。
だから、ここでの真下というのはあくまで便宜上にすぎないわけだが、まあ何にしても、そんな落下予想地点のあたりで、勇者たちはこの世界の命運を決する戦いをしてしまっていた。
勇者の名前は田中一郎――
いかにも平凡な男子高校生だったが、一年前にきちんと王城に勇者召喚された。
そして、チートとステータスには頼らずに、これまたいかにも地味にレベルアップを重ねて、勇者田中はついに魔王に挑戦した。
勇者田中の見立てではすでに自分のレベルはカンストしていて、これ以上の修行に意味はなかった。それでも魔王とはほぼ互角――あとはせいぜい装備と経験の差だろうと踏んでいた。
だが、そんな堅実なはずの勇者田中はというと、戦いながらすぐに不利だと感じてしまった……
というのも、お腹が痛いのだ……
この勇者、本番にひどく弱いのである……
そんなわけで、勇者田中は「ちょっとトイレ行ってきてもいい?」と、魔王にいつ切り出すか、悩みながらずっと戦っていた。そろそろお尻の防波堤も決壊しそうだ。脂汗も止まらない。魔王の攻撃を受けきることさえ難しくなってきた。これは非常にマズい……
勇者田中はすでに涙目になっていた。
そんなふうに涙で歪んだ視界ではあったが、勇者田中はふと不思議なものを見た。
魔王の顔にも、なぜか大量の脂汗が浮かんでいたのである。
★
魔王に名前はなかった。
全ての魔族を統べて、その頂点に立つ者。いわゆる、王――それだけで事足りるからだ。
もっとも、魔王は勇者田中と違って美丈夫だった。
さながら芸術的な氷像のようだ。世界の命運を決める戦いだというのに、お洒落な黒い外套を纏って、優雅に踊っているようにすら見える。
そんな魔王はというと、そろそろ戦いにも飽きていた。
当代の勇者は人族にしてはたしかに強い。ただ、その戦い方が基本に忠実すぎるのだ。
たとえるなら、バナナを剥いて食べるようなものだ。かつてとある魔将軍のパーティーでわざわざナイフとフォークで丁寧に切り分けて食べさせられたことがある魔王にとっては、何てことはない戦いだった。
しかも、魔王はまだ三段階のパワーアップを残していた。それでも勇者に合わせて戦ってあげたのは、当代の勇者に対する礼に過ぎない。
が。
ふいに魔王に怖気が走った。
勇者を見ると、どうやら同じことを感じ取っているらしい。魔王よりよほど脂汗を浮かべていた。
次いで、魔王はちらりと上空に視線をやった。
何かおぞましいモノがやってくる。これは邪神か外なる神の類に違いない……
しかも、かなりの上空にいるはずなのに魔王はたしかな衝撃波を受けた。もちろん、それはいわゆるソニックブームだったわけだが、魔王がそんな物理現象を知るわけもなかった……
何はともあれ、魔王にとっては決断のときだった。
いったん勇者と停戦して、上空にある謎の脅威に如何に対処するか――
さもなければ、この一帯は天体衝突に近い衝撃によって、全ての生物が死滅しまうことだろう。
★
南波七海は女子大生だった。
しかも苦学生だ。バイトに明け暮れていた。
おかげで勉強時間があまり取れなかった。せっかく自由時間が多い大学生になったはずなのに、勉強よりもよほどバイトをしている始末だ。
入学したての頃は、現代思想の大家ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによる全体的知識論の新しい視座を学びたいと意気込んでいたのに、気づいたら、試験の点数も悪く、進振りにも失敗して、インド哲学科でウパニシャッド哲学を学んでいた……
そのせいか、最近では悟りまで開いて、ヨガフレイムを撃てるようになってしまったほどだ。これには七海も苦笑するしかなかった。
そんな七海ではあったが、人生でいきなり上空四万二千メートルに放り投げ出されることになるなんて思ってもいなかった。すでに落下速度は音速の域に達している。七海は真っ逆さまに「うーん」と腕を組んでいた。
七海はばりばりの文系なので、高校物理はもうほとんど忘れていた。だから、あと何分ほどで地上にぶつかるのか、計算できないのがとても悔しかった。
もっとも、残り時間が分かったとして、何ができるというわけでもないのだが、少なくとも最低限の心構えはできる。辞世の句を詠むのもいいし、何なら衣服を全て脱いですっぽんぽんになった方がいっそ気持ちいいかもしれない……
「こんなことなら……きちんと物理学も勉強しておくべきだったわ」
七海がそう呟いたときだ。
「では、その力を欲するか?」
ふいにどこかから神様っぽい声が聞こえてきた。
言うまでもなく、異世界転移でよくあるパターンのあれだ。
ちなみに、ここで七海がそれを神様だと認識できたのは、ウパニシャッド哲学を学んでいたからに他ならない。死期を悟ったことで、意識の深淵たる真我にまで達することができたのだ。
「そうね。計算していれば気も紛れるし……その力を欲するわ」
「いいだろう。ならば、くれてやる。物理の力を!」
「……え?」
神様は何か勘違いしているようだった。
七海が欲したのは地上への到達時間が分かる程度の物理学の知識だ。
だが、神様が与えたのは、異世界最強の力(物理)だった――
こうしてささやかなボタンの掛け違いから、聖女(※物理最強)が誕生してしまった。このとき、七海が地上に到達するまで一分を切っていた。
★
「それでは、いったん停戦だ」
魔王の言葉に、勇者田中は何度も首肯した。
きっと魔王もトイレに行きたいに違いないと、勇者田中はかえって親近感を覚えたほどだ。
そして、勇者田中は急いで近くの岩陰に隠れた。
もちろん、野糞をするためだ。現代日本出身の田中からすると、紙も何もないところで排泄するなどありえないことだったが、何といってもここは異世界――水魔法と風魔法を器用に使ってウォシュレットにすることも可能なのだ。まさに勇者としての腕の見せ所といってもいい。
それはさておき、そんな岩陰に隠れてどうするんだと、さすがに魔王は訝しんだ。
だが、魔王はやれやれと首を横に振ってみせた。
おそらく勇者は何かしらの衝撃波か強大な魔術を宙に放つ気なのだろう。秘奥義だから他者には見せたくないといったところか。魔王はそう好意的に解釈することにした。
次いで、魔王自身は宙に両手をかかげた。
魔王のもつ最大火力の必殺技を放って、上空の存在を消し去ろうとしたのだ。
「では、いくぞ。勇者よ!」
多分に魔王は息を合わせて、共に技を放とうと狙っていた。もっとも、当然のことながら勇者田中はというと、いくって何ぞ、と首を傾げた。
それから、勇者田中もまた好意的に解釈することにした。おそらく魔王は何か音の出る魔法でも放つことで、勇者田中の汚い音をわざわざ消してくれようとしているのだろう。そんなわけで勇者田中の中で魔王に対する好感度は爆上がりした。
何にせよ、こうして放たれたわけだ――
勇者田中のうんこと、魔王の必殺技である邪神必殺煉獄波が。
ちなみに、この邪神必殺煉獄波だが、上空にいた聖女こと七海を突き抜けて、成層圏はもちろん、中間圏から熱圏まで超えて外気圏を出てから、さらに宇宙空間を一気に進んで、幾つかの恒星をぶち壊しまくって、最終的には外宇宙にまで届いて外なる神の一体を屠ったところでやっと止まったわけだが……
さほどの威力にも関わらず、七海は聖女(※物理最強)のワンパンでもって穴を開けていた。
そして、いわば逆噴射の要領で七海の急激な減速に繋がり、さながらバルスによって壊れる天空城の映画の最初のワンシーンみたいに、ゆる、ゆる、と七海は魔王の両手にぽとんと下りてきた。
もちろん、七海は無傷だった。
次の瞬間、魔王と七海は互いに目を合わせた。
目と目が合ったらミラクルなんて言葉を七海は全くもって信じていなかったが、このとき、二人はたしかに恋に落ちてしまった。ぶっちゃけると、単なる吊り橋効果である。
勇者田中とは違って、七海はお腹を痛くするタイプではなかった――
「好きです」
魔王もさすがに魔族の頂点に立つだけあって包容力は抜群だった――
「あ、はい。お願いします」
こうして数日後には、聖女と魔王は結託して、可笑しな召喚を行った王国を滅ぼしにかかるわけだが、その先鋒をなぜか魔王軍筆頭となった勇者田中が果たしたことはあまり知られていない。ちなみに、ウパニシャッドという言葉の語源は「近くに座す」だそうだが、聖女こと南波七海はいつまでも魔王のそばにいたという。
その日、聖女が落ちてきて――結局、世界は七海によって全て支配されることになったのだった。
(了)
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拙作『異世界最強のスキルが、カレーだった件』が20000PVを達成した記念に書いた短編となります。ちなみに「レッドブル・ストラトス」で検索すると、成層圏からのスカイダイビング動画が見られます。結構すごいです。何はともあれ、今後もお付き合いいただけましたら幸いです。