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未曽有の危機

 インダラが歩み寄ったハイラの前で小さく印を結んで呪を唱える。端から術をかけて軽くするつもりだった。真面目に何も手立てをしないではこの大きな肉の塊を動かすなんて至難の業だ。そしてバサラもそんなことはお見通しなはず。二人にとってはさっきの会話もお馴染の掛け合いなのだ。

 それほどバサラとインダラは長い間主従関係を続けてきた。今さらサンテラが帰ってきたところで揺るがないとは思うもののインダラの心には波が立つ。

 同じしもべという位置にいながら主を裏切り主の大事な者を奪う暴挙に出るサンテラという男がインダラには理解できない。それを切り捨てない主の気持ちもまた――。

 インダラにとってバサラは主人であり、兄であり、親でもある。さらに友だとも。全てといっていい。物心ついた時には自分はバサラに仕えていて、親も兄弟もいなかった。龍印で繋がれたということだけでなく、インダラの向ける何もかもはバサラに対してのものしかない。

 主人を愛している。

 だが分からない。

 執着と愛、一体何が違うのか。自分が向けているのはどちらなのかと。五百年以上の長きにわたって仕えてきた中でそんなことをインダラは真面目に考えたことなど思えば全く無かったことに気付く。

「どっちだ?」

 ぽつりと呟きを漏らしてから頭をぶんと振る。

 ――これじゃまるでサンテラと同じだ。

 どちらだって別に構わないのだ。主人を中心に思っているならその呼び名などどちらでもいい。考えるだけ時間の無駄だろう。きっと今運んでいる恐ろしく重い荷物から現実逃避したいと頭が勝手に寄り道しただけ。そう結論付けてインダラは大きな肉の塊を指定の場所に下ろした。

「ん、じゃ、サンテラ外に出ろ」

「クロードさまを……」

 言いかけたラドビアスにバサラがくどいと一喝して呆れたように人差し指を振る。

「お前なんかに念押しされなくてってクロードに傷の一つも付けやしない」

 さあ出た出たと手の甲を押し出すように振ってバサラは魔法陣の縁に立つ。

「メイファ、セイシンをここに」

 バサラの言葉にメイファが少年を主人の前に咥え落とすとふわりと魔法陣の外に出た。

「いい子だ。お前も外で待ってなさい」

 バサラの言葉に、にゃあと猫のような声を出してメイファは淡々と器用に戸を開けると外に出て行く。外に出されて門外漢になることなど何とも思っていないのだろう。そこが人のように見せてはいても魔獣だという証なのかもしれない。 メイファが出て行くのを見送り、バサラは大きく深呼吸をすると部屋に広がる複雑な魔法陣に目を移した。

 隣接する二つの魔法陣。

 その一つにクロードが寝かされ、もう一つにはハイラがいて。魔法陣を繋ぐようにセイシンという少年が横たえられていた。

 魔経典を取り出せばクロードは死ぬ。だから同時に魂を移す術も並行して行う必要があった。バサラにしても今回はどちらの術式も初めてで、柄にもなく緊張している――要はそういうことだ。緊張するとか、不安になるなど他人に見せたことなどないが自分にだってそういう感情の揺れはある。思うとなぜだか可笑しくて堪らなかった。

「わたしも人間なんだなあ……でもね」

 この手の震えは武者震いで、これから自分が成すことで変わる未来への期待の現れなんだとバサラは両の手を強く握る。

 ――自分は運命に翻弄される側じゃなく、運命を司る者だ。







「どこに行く?」

 部屋から出た途端どこかへ行こうとするラドビアスに扉の前に陣取って寝そべっていたメイファが不審の目を向けた。もしかしたら自分が外に出されたのはこいつを見張れということだったのか? ともちらりと思う。

「すぐに戻る」

 だが、そう言い残しラドビアスは一瞬にして隼に姿を変えた。その姿に「おっ」とメイファの尻尾がピンと伸びる。こういうところは雪豹だろうが猫だろうが関係ないらしい。動く標的を追ってしまうのは猫族の悲しい性だ。

「くそっ」

 高く跳びあがったメイファをかわし、開け放たれていた窓からラドビアスは外に飛び出した。音も無く着地したメイファは悔しそうに前脚で髭を弾く。

「あれじゃあもう、追いかけられないな。実際追いかけろとは言われてないし。ま、いいか」

 メイファはあっさりと気を取り直し、再度寝そべり、ゆっくりと組んだ前脚に頭を置いて大きな欠伸をした。

 主人であるバサラのことは大好きだ。人化して辱に侍ることも楽しい。魔界で燻っているより面白いともう長い事この世界にいる。契約が始まりだとしても今の現状に何の齟齬も無い。

 だが、自分はインダラとは違う。バサラのために全てを投げ出すことなんかは頭には無い。主人が命じることには従うが意を汲んで立ち回ることまではしない。思うことがあってもそれはそれ――だ。

 ――例えばサンテラがここに居ないことで何が起こるのか、とか。

「それはそれで面白い」

 一連の動きにも前から廊下に陣取っていたサウンティトゥーダが我関せずと石にでもなったように動かないのを横目で確かめた後、メイファはそう呟いて目を閉じた。

 透明な水に波紋ができるように。空気の層に歪みができる。

 何度も何度も見えない壁を突き破るような感触をラドビアスは感じていた。それはベオークに幾重にも張られている結界を突き抜けているからだ。そこを抜けるとその先には青い瓦屋根の連なりが目に飛び込んできた。

 ハオタイの首都キータイ。大陸一の規模を誇る都市。その北にあるのが皇帝の住む蒼龍城だ。

 城というよりは高い塀と深い堀、そして魔術によって守られ、千年の長きにわたって栄華を誇ってきたた要塞都市。それが今、大きくその姿を変えていた。

 綺麗な植栽があった場所にぼこぼこと大きな穴が開き、城壁は崩れ、そこかしこから火の手が上がっていた。

 未曽有の災害のようなそれ。

 何頭ものサラマンダーの襲撃という経験したことの無い危機にハオタイの宰相シンダラは次の手を打ちかねていた。砂漠にいるはずの生物だが、実物などシンダラも今まで見たことが無かった。闇雲に軍を差し向けても犠牲者が増えるばかり。

 そこに楼蘭族という厄介者まで――。

「とにかく、体制を立て直さなければ」

 自分の頬をぱちんと叩き、シンダラは誰よりも自分に言い聞かすように大声を出した。


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