二つある意味
紫檀と桜の寄木の床材が敷き詰められた廊下にカツカツと音が響く。メキラを倒したラドビアスが足で床を蹴り付けるように廊下を走っていた。久しぶりに戻った朝陽宮の中は、彼の記憶よりも全体に木蘭色の膜がかかっている。風格とか、気品とかをそれに重ねる者も多いだろう。
伝統と格式を感じる者も少なくない。
だが、ラドビアスはここも年老いたと感じた。ここにある何もかもが五百年の時間からは逃れられないのだと微かに落胆したほどだ。
それなのに。
自分たちだけが変わらない。
記憶が薄らぐことも無い自分たちを置いて、月日は確実に過ぎていく。物質は変化を遂げるのに、時の流れの中で止まり続ける自分たちの方がこの世では異分子だ。
ラドビアスが手首に目を落とすと、バサラに切られた場所は赤紫に盛り上がっていた。ついさっきの出来事だというのにもう塞がり引き攣ったような感覚がするだけだ。。きっと切断された腱も元通りになっている。メキラと戦ったときにもまるで怪我など意識していなかったのだから。
普通の人にはあり得ない治癒力。
――これが本来の自分。
五百年以上も生きてきて、ラドビアスは初めて自分の力量のほどを知って唖然とする。バサラに龍印を刻印されていたということがこれほど力を削ぐものだったのかと思う。
それは即ち、それほどバサラは自分を憎んでいたという証明なのだ。血族以外の女性との間に生まれた自分をバサラは許せなかったのか。
でも、時間を遡ったとしても自分はカルラについてここを出ただろう。違うことがあるとしたら、もっとカルラを追い詰めていたということだけだ。
同じ血を持つと知っていたなら、黙って付き従うだけには留まらなかった。自分はきっとカルラに思いをぶつけていた。そしてそれを受け入れられないと知ったら――。
「バサラと同じことをしていた」
知らずに漏らしていた自分の言葉にラドビアスは傷ついていた。所詮自分もベオーク一族の血を継いでいることを何度も思い知る。
それでも、この衝動を抑えることにはならない。ならばカルラにとってはあれで良かったのだ。
懲りない自分。
今もこうしてクロードを裏切ろうとしているのだ。自分の大事なものを失うことが――耐えられない。
そしてカルラの時と同じことを繰り返す。
そうだ、クロードを失うことは絶対に阻止する。それがクロードにとって望まぬ結果となろうとも。
――自分は決して虐げられた者でなく、加害者なのだ。
ラドビアスは、そう強く思いながら戸を開けた。
「来たな、サンテラ」
「ラドビアス」
「クロードさま」
ラドビアスが、まっすぐにクロードの処に向かうのを見てバサラがやれやれと肩を竦める。
「ラドビアス、頼んでいたことを忘れるなよ」
「……はい、勿論」
ラドビアスの返事にクロードは再度頼むと言葉を重ねた。忘却の術をキータイにかける仕掛けやあれやこれや。もしかして自ら動けない局面になったことを考えての措置だったがラドビアスがどこまで自分の言いつけを守るのか、いわば賭けだと思っている。それでも実際クロードの手駒はラドビアスしかいない。
ここまできてやるべきことが何もできないのでは意味が無い。それは魔経典を体から取り出すことよりもしかしたら切実な願いだとクロードは思う。
「おまえ遅いから昼寝しちゃうとこだったよ。さ、揃ったな。始めようじゃないか」
そこにのんきな声をバサラが上げた。彼の横にいたインダラが素早くクロードの傍らに寄り「失礼しますよ」の声とともに印を組む。
「縛せよ」
え――と思う間もなくクロードは体の自由を奪われる。簡単にインダラに抱えられ、抵抗したいが手も足も指の一本も動かせない。恐慌状態に陥ったまま、クロードは魔法陣の真ん中よりわずか左に横たえられた。
経典を取り出す術式が始まるだけだと思っても、クロードは落ち着けるはずもない。どくどくと大きく心臓が全力疾走したときみたいに暴れている。それは異なる二つの魔法陣を目にしたせいだ。
大きな術ならいくつかの魔法陣を組み合わせることはあり得る。だが、その場合その魔法陣は二重になっていたり円のどこかが重なっているものだ。それがここにあるのは複雑で高度な術式だが隣接しているだけ。どう見ても同一の目的を持っているとはクロードには思えなかった。
もう一つのものになぜハイラが寝かされているのか。何かの術をするにしてもどうして自分と同じ部屋なのか――とか。
嫌な予感しかしない。
「おい、インダラ、何休んでる? サンテラと一緒にその化け物を運んで隣に寝かせろ」
バサラの言葉にインダラは見せつけるように大きなため息をついて天を仰ぐ。
「言うだけなら容易いですが、ハイラ様の大きさといったら牡牛並みなんですよ。腰を痛めたらどうするんですか。わたしも結構いい歳なんですけど」
「それを言ったら私だって同じだろ。後で何かいいものをやるからさっさとしろ」
「本当にくださいよ」
「しつこい、早くやれ」
はいはいとインダラは嫌そうな態度を隠しもせずにハイラの元に向かった。
「サンテラ、おまえ足を持て」
頷いたラドビアスが大人しくハイラの足を持つのを見てバサラが目を細めた。聖人君子面していてもやはり一族の血を半分とはいえ継いでいるのだとその行為が示している。己の欲望に忠実で、そのためなら寄せられた信頼を裏切ることさえ厭わないという意味で。
――血は争えない。
その思いは中々苦くバサラの心にも染みを残す。
目の前の男は自分たちの未来を繋ぐ唯一つの可能性という存在らしい。自分たち種族と人との混血だからだ。蔑んでいた存在。ところが、目が覚めたら足元が崩れそうな崖に追い詰められていたのは純潔の自分の方だった。
否、まだそうと決まったわけじゃないとバサラは頭を振る。
――それを確かめるためのクロードじゃないか。
転がされている少年に視線を移し、バサラは再び薄っすらと笑みを浮かべた。