魔法陣
「もう良い頃合いだろう。クロード、悪いけど場所を変えようじゃないか」
バサラが顎から手を外して決まっていた予定をこなすようにクロードに話しかけた。
「どこに行くつもりだ」
「魔経典、出したいのだろう?」
警戒するクロードに、にっこりと笑いかけながらバサラは「それに――」と続ける。
「来ないとこの子が可哀想なことになるかも」
――この子?
いったい誰のことを言っているのかとクロードは首を傾げた。この部屋に子供と称される人物がいるなら自分しかいない。外見なら当然クロードは子供だった。十四歳から一歳も年を取っていないのだから。
体の中に魔経典が入っているとその身は成長を止めてしまう。五十でも八十でもクロードの見かけはずっと十四歳のまま。
いったいどういうつもりだ。
からかわれているのかもしれないとクロードは黙ったままでバサラを見返す。
「何怒ってるの? 勘違いしないでよ。君の道連れに関係する子供だよ」
バサラが目を細めて部屋の隅を見ながら印を切る。すると白い布が取り払われたように現れたのは十歳くらいの子供だった。
「隠ぺい魔法……か」
クロードが驚いたのは子供がいたことじゃなく、自分が何も気づかなかったことだ。いくら魔導師の見習いといえど、全く何もとは。
この部屋で魔術の痕跡などそれこそ微塵も感じなかった。きっとバサラの力はクロードにはとても及びもつかない高みにある。それは弟のカルラが魔経典を奪って辺境の島に逃げ込むほどの力だ。
だが、人をはるかに超えた力。果たして天はそれを許すのだろうかとクロードは思う。一人の人間にあまりにも偏った能力を与える事で世界の均衡は保たれるはずはない。
そこに打たれた楔となるために生まれたのが自分なのか。そうじゃないかもしれない、とはもう思わない。思い込まないと自分の今迄が報われない気がする。
クロードは鳥肌を立ててその少年の傍に駆け寄った。黄色味のある肌はハオ族の特徴だ。自分に関係するハオ族の子供といえば、頭に浮かぶのは一人しかいない。
「まさか……セイシン?」
それは、ランケイが必死で助けようとしていたハイラに攫われた少年の名前。
「おまえが何でこの子を知っているんだ?」
とっくにハイラに食われてしまったと思っていた。生きていたとは。クロードの脳裏に弟のためにと思い詰めていたランケイの顔だ。だとしたら彼女の頑張りは無駄ではなかったのだ。今すぐに教えてやりたい、クロードはそう思う。
「ハイラがあの二人を襲ったことを知って、まあ利用できないかと思ってさ。この際、使える手はなんでも使わせてもらうよ。こっちもそんなに手駒があるとは言えないものでね。」
余裕がないと言いながらバサラはのんびりと転がっているセイシンに目を移す。よもや自分の言いつけを破ることはしないとは思っているが、子供は動きが読めないことが多い。
これから起こることで騒がれても困ると術で眠らしてあった。最初はもっと違う利用法を考えていたが今はクロードのために質になってもらおう。
臨機応変――まあ、そういうことだと口の端を上げた。
「わたしと一緒に来るだろう?」
バサラの言葉にクロードは固い表情のまま頷く。
――甘い。そんなだから悪い大人に付け込まれるんだよ。
ここで声を上げて笑うのは不味い。
「クロード、君って可愛いねえ」
思わずバサラの本音が出るが、それを聞いたクロードは露骨に嫌そうな顔になった。
「一緒に行ってやるからセイシンを解放してやってくれ」
「解放?」
くすりと、バサラは笑う。
「解放ねえ……いいよ、本人の行きたいところに行かせると約束する」
それを聞いてクロードはセイシンの体をぽんぽんと叩いて立ち上がった。
「お姉ちゃんのところに返してやるからな」
さあ、とバサラがクロードの背中を押す。セイシンが既に自分の傀儡になっていることを知ったらどうだろう? そう思うと知らずに頬が緩むのをバサラは止められなかった。
絶望の顔はきっと――蜜の味だ。
クロードが部屋から出ると後ろから付いて来たサウンティトゥーダが一緒にいるバサラを見て髭をピンと立てた。
「大丈夫だから。危なくなったら呼ぶ」
「すぐ呼べ」
不承不承ながらサウンティトゥーダはそう言うとその場に大きな身を伏せた。
バサラに促されて部屋に入った途端、クロードはその中の様子に目を見開いく。何も無いがらんとした広い部屋の真ん中よりやや右に大きな女が倒れている。女だと思えるのはその着ている服だとか、前に突き出した腹の様子からだ。苦しそうに歪められた顔は輪郭から造作までいかつくてとても女性的には見えなかった。
――ということは、これがハイラか。
子供を食べるという悪癖を持ったベオーク一族最後の女性。今この人のお腹には赤ちゃんがいるのだと思うと、クロードは胃液が逆流するような気がした。
自分が宿している子供と食事として食べている子供の、違いがどこにあるというのか。身震いする程の利己主義にうなじの毛が逆立つようだ。
「始めますか?」
「いや、サンテラが揃ってからだ」
しもべのインダラの問いにバサラが答える。部屋にはさらにバサラが使役している魔獣のメイファまでいた。
「サンテラってラドビアスのことだよな」
それは自分側の人間だと主張するようにクロードが口を挟むとバサラの目が糸のように細くなった。
「そうだよ、君の従者ってことになっている」
宥めるようなバサラの言い方にクロードは抗議の一瞥をくれた。
そうだ、ラドビアスは自分の従者だ。でも、今ここに来るのはどういう立ち位置なのかと不安になる。
――バサラのしもべとしてだったら。おれは――。
いや、初めからそれも織り込み済みだったはず。クロードは弱気を振り払うように頭を振った。
「この魔法陣でいったい何をするつもりだ」
ハイラを中心にして部屋いっぱいに広がる魔法陣の文様は見たこともないほど複雑な意匠だった。
「今から魂を移す術をしようと思ってね」
「魂を移す……? 誰の」
聞いた途端、クロードの背中にぞわりと悪寒が走った。ここに自分がいる意味がある……というのか?
ごくんと唾を飲み込む音が大きく響き、煩い程心臓が暴れる。
「サンテラが戻ったらまずは、君の中にある魔経典を抜くよ」
ぐいと手を引かれてクロードはバサラに拘束された。自分もそれを望んだはずが、とんでもないことに足を踏み入れてしまったのではと怖くなる。
でも、自分には護法神が憑いているはずで、バサラがクロードを害することなどできないはずだ。
――腹を括れっ。
クロードは自分にそう言い聞かせた。