術中に嵌る
それなのにさっきから一度も剣は相手の体を捕えられない。打ち込んで来ない代わりにひょいひょいと簡単にメキラの剣先をかわしていく。なんだかそこに余裕が見える気がしてメキラは一層激しく攻撃した。
その一振りも、一突きもまるで掠りもしなかった。無駄に叩かれた床板が芝生を所々抜かれた庭のような無残なありさまになっている。
「焦ってますね、動きが鈍いようにお見受けしますが、具合が良くないのですか」
振り下ろされた剣をわざと大きく弾いてラドビアスが顔色も変えずに問う。
――おかしい、おかしい。
バサラのしもべと以前に打ち合ったことなどないが、こんなに一方的な戦いになるはずが無い。
「何でだ」
思わず口にしたメキラにラドビアスの目が細くなった。
「だから誤解していると言っているじゃないですか。わたしはしもべじゃないんですよ」
「嘘をつくなっ」
しもべの分際で自分をからかうような真似をする相手をメキラは憎々しげに睨んだ。
――こいつの主人も兄を兄だと思わない不遜なやつだ。
主従ともに目上を敬うことなど考えてもいないのだろう。メキラが両手に持った剣を上段から振り下ろすが、またもそれを紙一重の間合いでラドビアスは後ろに飛んで避けた。
寸での差で避ける、そのことが余計にメキラの怒りを増幅させていた。それを狙っているのならまさにメキラは術中に嵌まっていた。
「わたしはあなたの弟ですよ」
「何?」
ラドビアスの言葉は聞えてはいたが、メキラには別の世界の言葉に思える。一体このバサラの不詳のしもべは何を言っているのか理解できない。
もはや狂っているのかもしれん――そう判断した。
「引導を渡してやる」
言うが早いか突き刺すように二つの剣を構えて走り出す。ずぶりと肉に刺さる感触を予想した刹那、ラドビアスは自分の剣でメキラの剣を下に押さえると、その上に足をかけて飛び上がった。それを追って顔を上げたメキラの顔に目がけてラドアビスはナイフを続けざまに放った。
「ぐわあっ」
振りあげていたメキラの二本の剣は大きな音を立てて床に落ちた。ラドビアスの投げた三本のナイフがメキラの目に刺さっていたのだ。
目元に手を当ててメキラは呻きながらナイフを抜こうとしている。そこを間髪入れずラドビアスが腰を蹴りつけた。平衡感覚はかなりの割合を視力に頼っている。倒れそうになったメキラはふらふらと円を描くようによろめいた。
その足元をラドビアスの剣が掬うようになぎ払うと受け身も取れずに床に倒れ込んだメキラはどこにラドビアスがいるのか必死で気配を探している。
その耳に、わざと聞かせるようにラドビアスが大きな足音を立てた。その音が思ったより近いことにメキラの背中がぶるりと震える。
「引導を渡してさしあげますよ」
さっきの言葉を逆に差し向けてラドビアスは剣を逆手に持ち替えた。
「や、やめ……ぎゃあああ」
ずさり……皮膚を破り、肉を押し開いてめり込んでいく音が部屋に響く。バスターソードが硬い骨に止まったのをラドビアスが体重をかけて強引に押し切った。
赤い赤い血の緋毛氈が床に敷かれる。
その赤く広がった背景の中にメキラの頭が転がり落ちて自らの身体に並んだ。いくら信じられないほどの寿命を持ち、死ににくい頑健な身体を持っていても首と体が離れてしまえばどうしようもない。術ですぐに繋ぎ合せる――そんな手間をかける者もここにはいない。
今やただの醜悪な肉塊を見下ろしながら、ラドビアスは淡々とメキラの服で剣の血糊を拭った。
以前、クロードと一緒にクビラを殺した。知らなかったこととはいえ自分の兄を殺したというのに、いささかもラドビアスの心にはさざ波は立たない。
血の繋がりを有難がるには辛酸を舐めすぎたのだと思う。兄弟を殺すこと、それに何の罪悪感も持たない自分は、やはりこの呪われた一族の血を引いているのだとラドビアスは自戒する。
ラドビアスが何よりも大事に思うのはクロードの身の安全だけだ。固執するこの思いはどこから来るのか。独り立ちできないのは自分の方。
それは決して相手を思ってのことではないことは明らかだ。
自分が生きるために。
自分が必要とされる意味のために。
押し付けて、囲い込む。醜い妄執、それはバサラと変わるわけではない。それを知ってなお、自分の心を抑えることがラドビアスにはできないのだった。
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「バサラはどこ?」
巨体を揺らしながらさっそく部屋の中央に置いてある椅子に座りこむ。途端に響く大きな音はさながら椅子の悲鳴のようでもあった。しかし、それを打ち消すような大きな声をハイラが出した。
「後でおいでになりますよ」
「後?」
振り向いたハイラに白い髪に砂色の肌の青年が微笑みながら答える。
「呼び付けておいて、何なの?」
ハイラはメイファを睨み付ける。これまで一度として自分を寝所に入れなかったバサラがこの獣と交わっているのを知ってどんなに腹が煮えたか。しかし使役獣ごときに嫉妬していると知られるのはハイラの矜持が許さない。
――卑しいくせにっ。
どんと目の前のテーブルを蹴りつけると、見事に細工されたテーブルの脚の装飾が飛ばされて壁にぶつかって落ちた。
「いつになったら来るのか、教えなさい」
冷静なつもりでハイラがバサラの眷属に問うと、メイファの目が弓のように細くなった。
「すぐですよ。ハイラ様、主が特別に選びました御酒でも召し上がりながらお待ちください」
「バサラが?」
ええと頷きながらメイファは血のような赤い液体を硝子の杯に注いだ。
「葡萄の酒です。それにハイラ様のお好きな物も入っております」
「好きな物、――ですって?」
華奢な杯に似合わないごつい指が、メイファの手からひったくるようにそれを取り上げ、香りを楽しむこともなく中身を飲み干す。
「血ね、血が入っていたわ」
途端に満足そうな声がした。ハイラが口の端についた赤い液体をペロリと舌で舐め上げる。待たせるお詫びにこれをバサラが寄越したというのなら、あと少し待ってやってもいいだろうとハイラはメイファに杯を突き出した。
「お代わり」
機嫌を治したハイラにメイファはにっこりと笑って酒を注ぐ。
「美味しゅうございますか、ハイラ様」
「美味しいわよ、いいからもっと注ぎなさい」
二杯目もあっさり飲み干したハイラの差し出した杯に、触れた葡萄酒の入った容器がカタカタとうるさく鳴り始めた。
何を無作法な。そうハイラが叱責しようと顔を上げると目の前の男は肩を震わせている。
「何をやっているのよ」
「あ、いえ、あんまり可笑しいもので」
笑いながらメイファの姿が男から女の姿に変わった。
「あんた、この女の姿に妬いてたんだろ? なんてたって俺はバサラ様に何度も抱かれてるんだからな。獣だってなんだって綺麗なほうが抱きたいって思うものさ。ついでに教えておいてやるけど、その酒に入っているのはさっき俺が屠ったあんたのしもべの血だよ」
メイファの言葉にハイラがぎゃあと叫んで杯を放り投げた。白い毛足の長い絨毯の上に葡萄酒が零れて大きな染みを作る。
「許さないよ」
ハイラがメイファを掴もうと手を伸ばすが、その手は自分の思うようには動かず、空を虚しく何度もかいた。
「く、くそ……薬か……」
立ち上がろうとしたハイラはぐらりとその巨体を揺らめかせて床に倒れた。それを近付いたメイファが足で突つく。
「熊を倒せるほどの睡眠薬でやっとなんて、あんたどこまで俺たち魔獣寄りなんだよ、まったく」
そうして敷いてあった絨毯ごと部屋の隅に引きずっていく。 その後に現れたのは大きな魔法陣だった。