『カノ イサ ハガラズ テイワズ』
「クロード?」
返事を返さないクロードの視線が自らの胸元を一瞬よぎる。それを目ざとく確認してビカラはニタリと口の端を上げた。
「ふん、私が分からないとでも思っているのか? 愚か者め」
ビカラの手がクロードの胸元に伸び、下げていたペンダントを掴むと引きちぎるように奪い取った。
「 サウンティトゥーダ!」
クロードの呼びかけに吼え声で応えて一頭の魔獣が姿を現し、間に合ったかとクロードの顔に笑みが広がる。
――まだまだ天はおれを使う気らしい。
「お帰り、ご苦労だったな」
クロードの労いに南から主人の匂いを辿って帰っていた魔獣は長い口先を彼の腕に擦り付けた。
「ばかなことを。経典の持ち主である私に魔獣をぶつけてどうなるというのか」
よしよしと魔獣の頭を撫でている相手にビカラが呆れた顔を見せるとクロードはクスリと笑う。
「本当にあんたがビカラならこんなことは無駄だろうけどね」
「何?」
クロードは、ビカラの隙をついてビカラの下から這い出ると、間合いを取って後ろに下がる。そこへ、黒い魔獣が彼を守るように素早く右についた。
「あんたはビカラじゃない。その胡散臭い擬態を解いて正体を見せたらどうだ」
クロードの言葉にビカラの微笑は消えた。
「私がビカラでは無い? おまえは何を言っている?」
ビカラはバカにしたように鷹揚に言い放つ。だがクロードはゆっくりとビカラの周りを歩いた。
「もしかして気がついていない?」
見た目はビカラなのだろう。初めて見るクロードにはそれが本人かどうかなど見た目では分らない。だが、ここにいる本人は自分をビカラだと疑ってはいない。
周りの人間もまたそうなのだとしたら? 初めて会ったクロードに分ることを誰もが気付かない。
裏に大きな誰かの作為を感じる。ビカラ本人が影武者を立てているのか、否か。もはや影武者本人でさえ、本人として暮らしていたほどの術と長い年月。それは、恐ろしい事実を考えざるを得ない。<ビカラはもうここにいないのかという疑問だ。
もしそうならクロードがここに来た意味は消えてなくなる。それを確かめなくてはならない。こいつが何者なのかを確かめなければ。
「鍵本来の持ち主であるビカラが鍵を見つけられないはずは無いと思うけどね。それは、ユリウス、いやカルラがおれにくれたペンダントだ。鍵じゃない。そんな事も分らないなんておかしいだろ?」
「これが鍵でない?」
呆然とした面持ちで奪いとったペンダントを見つめたビカラは暫く考えるように見ていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
「鍵の場所などおまえの体に聞けば分る事だ。不遜な態度を後悔させてやるぞ、クロード」
「できるならな、あんたは嘘もんだっ。そっちこそ経典と契約しているおれを小者だと見誤ったと後悔させてやる」
クロードが大きく印を切りながら解呪のレーン文字を宙に描く。すると、ビカラはがくりと膝をついた。
それは長い長い呪縛が解けた瞬間でもあった。クロードが使えるくらいの魔術で解ける程度。それは、初めから解されることをも意識していたのか?
ビカラの体の線が曖昧になってあらゆる色が交じり合う。一旦解かれた組織が新たに構成され形作っていく。擬態が解けた後に現れたのはハオ族の男だった。
バサラの僕のインダラと違うのはその筋肉質の大柄な体だったり、三十歳中ごろに見える外見だ。細身のインダラとかとは明らかに違う兵士のような体。
レイモンドールの魔道師らの華奢な様子とはまったく違う。ベオーク自治国の魔道師には体術、剣術が義務付けられているのだ。
術が解けてみればビカラとは似ても似つかない姿だった。
「おまえは?」
「私は……」
膝をついた格好のまま両手で顔を覆ったハオ族の男は古い記憶を呼び出そうとしていた。
「私は――誰だ。ビカラではないとすれば……。そうだ、術をかけられたのか。五百年前に。わたしは――」
男の顔から手が外されて、彼は立ち上がるとクロードを見下ろした。さっきまでのおろおろした様子はもう微塵も無い。
「私はビカラ様の僕、マコラだ。そして主の代わりにおまえから経典を取り返す」
「おまえがビカラじゃないのならおまえなどにおれは用は無い。呪ボケしてるんじゃないの? 経典はビカラしか取り出せない」
それともこいつは操られていただけの小物だったのか。そう考えればさっきの術の謎も解ける気がクロードはする。
操っていたのは、誰だ?
「おまえの本当の主人は一体誰だ、マコラ?」
「ビカラ様の御名を呼び捨てにするなど、恐れを知らぬがきだな」
マコラという男は、憎憎しげに顔をしかめると腰に手を伸ばす。クロードはその手がやや反りの入った片刃の長剣を抜こうとする男に向かって呪を飛ばす。
『カノ イサ ハガラズ テイワズ』
「おのれ、レーン文字かっ」
マコラの右腕が腰のところで凍りつくのを確認して、クロードは指輪に命じる。
「変じよ」
マコラの喉元に突き付けられる剣の先が肌に食い込む。
「ビカラはどこにいるのか言えっ」
「ばかな。わたしはビカラさまの僕だぞ。主に不利益なことをする訳がない。刺すのなら刺せばいい。だが、何も言わない」
「そうだったな。じゃあ術を使わせてもらう」
クロードの口から流れるレーン文字が形をとって宙に浮かぶ。その文字は、微細な虫のように蠢いてマコラの体を取り巻いた。
「うがっ、や、止めろ」
それは、抗うマコラの口の中にも流れ込む。
「レーン文字を知らないなら、教えてあげるよ。藩字の呪文と同じくらい使い勝手もいいってことをさ」
空にレーン文字を描きながらそれをゆっくり読んでいくと、マコラを取り巻いていた微細な文字たちが発光しながらマコラの体に移っていく。体に入り込んだ文字までが掌や口の中まで浮きあがっている。
「ビカラはどこだ」
胸ぐらを掴んで聞くがマコラはふるふると首を振った。
――質問を間違えたか。
クロードは次にぶつける問いを考える。知っていて答えないことなどできはしない。だとしたら、本当にこの男はビカラの居場所を知らないのだ。
「おまえの本当の主人は誰だ?」
マコラはびくびくと体を震わせて抗う様子を見せるが、術にかかっているために口を噤んでおくことができない。
「わたしの主人はバサラさまだ」
出された名前にクロードはやっぱりと呟きを漏らした。
「バサラ……」