ちいさな綻び
「グルバ、使者を頼む。あの青くでっかいばけもんの口の中に突っ込んで行こうぜ」
「よっしゃっ、任せとけ」
グルバは若い兵士の何人かを引き連れてログ―に跨った。
「ザック、行ってくる」
「ああ、俺が行けばいいんだけどな」
ザックの渋い声にグルバは笑う。
「何言ってやがる。先ぶれに総大将が行ってどうするよ。ヘマはしないから安心しろ」
「ん、ああ、そうだな」
どっかりと構えてないと。そうは思うがキータイにそびえるこの城門を見てしまうと臆病な自分が待ち構えていたように顔を出してしまう。
自分たちが喧嘩をふっかけようとしているのは、大陸の大半を押さえている大国なのだ。
――くそっ、神さまがいると言うのなら今こそ姿を現しやがれ。
ザックは胸元に入れた呪符を服の上から握りしめた。
「シンダラさま、楼蘭族の副長が大門の前に来ております」
「そうか。仕方ないな、桜蘭族を外門の中へ招き入れなさい」
藍竜将軍の秦が浅く礼をすると部屋を出て行く。その背中を眺めながらシンダラは側にいた小姓に耳打ちをする。
「例の娘を隣室に控えさせなさい」
そこにもう一人の側小姓が走り込んで来る。
「シンダラさま、捕えていた娘の連れが逃げたと報告が」
「何?」
次から次へと小さな不手際が重なるのに苛つく。始まりは何だったのか? 不味い薬でも飲んだように苦いものが喉の奥に広がるのをシンダラは感じた。
物事が傾くのはこういう時だということを長い年月のうちでシンダラは肝に命じている。長い由緒ある王国が崩壊していくときも始まりはたわいない小さな綻びなのだ。
「すぐに捕えて口を塞ぐように。それと、あの者たちを連れて来た親子がいたな。それらも始末しなさい」
「かしこまりました」
小姓は返事の後に印を組んだ。途端に姿は消える。小姓に見せていても彼らはシンダラと同じ魔導師だった。見かけの歳はあてにならない。
「シンダラさま、いかがしました?」
「いや、何でも無い。娘まで逃がすなよ、ヤン」
胸騒ぎが収まらない。
その胸騒ぎは外殿の屋根の上に舞い降りた鴉のせいかもしれない。鴉は羽を畳むと姿を変える。
ずずずと黒い染みのようなものにどろりと溶けたそれが、建物内部に入っていく。そして、廊下に姿を現した小姓の後ろから黒い糸のようなものが彼を追って進んでいた。
するするとわざとその姿を蛇に似せているかのように左右に振れながら、その糸は小姓を追って行く。
「何者?」
気配に気づいた小姓の首に、すでにするりとその糸が足を伝って体を這いあがり、蛇のように巻きついていた。
「な、なんだこれっ」
驚いて首から引きちぎろうと小姓が引っ張る。ところが細い糸のはずなのに、それはきりりと意志でもあるかのように首に巻きついてぐいぐいと皮膚に食い込んでいく。指を首との間に入れようとするが、すでに息もできなくなりそうになっていた。
「それはわたしの髪の毛ですよ」
霞む目の先、腕を組んで説明するように声をかけてきたのは、ハオ族の特徴を備えた青年。つり上がった一重の目が細くなる。
それが笑っているのだと思う余裕は小姓には残されていなかった。
「インダラと言います。あなたが仕えているシンダラはわたしの同胞ということでしょうかね。わたしはバサラさまのしもべです」
「バサラさま? ……そのしもべが……なぜこのような?」
その問いをやっと言い終った途端にぐぐっと髪はいっそう引き絞られる。ひゅっと喉から最後の息が漏れた音がしたが、龍印を受けたものは首を絞めたぐらいでは死なない。
青黒く変色してきた小姓の顔を一瞥してインダラの笑みが深くなる。
『夜陰、下弦、闇路を通り彼の者を滅せよ』
インダラが組む印の先から次々と髪は飛びだすように伸び、たちまち小姓の上半身は黒一色になる。
「なぜと言う問いに答えてあげましょうか。バサラさまはシンダラを見限って他と手を組んだ。そういうことです」
「シ、シンダラ……さまを裏切る……ということは……ビカラさまを? う、がぁああっ」
呻く声の後にゴトリという音がして重い物が床に落ちたのが知れる。それはごろごろと転がって柱にぶつかって止まった。苦悶の表情を浮かべたままのその顔は自分の命が消えたのに気付いていないのかもしれない。
「うーん、ちょっと気持ち悪い光景ですね。次は気をつけないと」
インダラはにまりと笑って抱いていた小姓の体を頭の側に降ろす。途端に小姓の死体は砂のようにぼろぼろと崩れて床に山を作った。死んで術が解け、本来の姿に戻ったらしい。彼の寿命はとっくに尽きていたのだ。
続いて床に広がった髪は、黒い煙になって天井に吸い込まれるように消えた。
「さて、クロードはどこにいるのかな? 朝陽宮じゃないと、どこに何があるか今一つ分らないな。次は聞くことを聞いてから始末しないと」
ぶつぶつと言いながらインダラが顔を廊下の先に向ける。
「いいところに来たな、サンテラ。クロードさまはどこだ?」
「それはわたしも知りたい」
コウユウの擬態を解いたラドビアスがぼそりと呟いた。