動くー1
ランケイの弟はすでに生きてはいないだろう。それを知って自棄に走っても、何も事態は変わらない。過酷な運命にもがく人間ならこの世界には五万といる。一人を救ったとしてただの自己満足なんだということも分っているが。
自分が出会った、それこそがなにか意味があると思っていたい。
「一つくらいは良い事をしたって罰は当たらないんじゃない?」
「なんの事?」
何でもないと手を振ってクロードは迫る気配に眉を上げた。
「ただいま戻りました」
扉を開けて見慣れた顔が頭を下げた。いつものように、そっけないほどあっさりと戻って来た自分の従者にクロードは何かを言いかけて止めた。
「何です?」
「いやなんでもない」
「気になりますね、何か仰りたいのでしょう? 何です」
「おまえ何か連れてきた?」
はっ? 思わずラドビアスは、後ろを振り返ったがそこには当たり前だが何も無い。
「何も……どういうことでしょうか」
「北の気配。おまえ、沙羅の匂いがする」
クロードの言葉にラドビアスは一拍遅れてふっと笑った。沙羅の木はベオーク自治国の国木として朝陽宮の城壁に沿って植えられている。
「ここら辺には沙羅はありませんが。何かとお間違えになっておられますよ」
「かもな」
交差する視線をラドビアスはかわして首を傾げた。
「魔獣が戻りましたか、クロードさま」
「いや、まだだ」
口元は笑っているが目が笑っていない。今まで感じた事のない緊張感がクロードを満たす。
彼の師だったユリウスの孤独が今は良く分かる。初めから自分と一緒にいる従者が裏切っているかもしれないと言う疑念。
それは内側から侵食されていくような苦痛だった。
――おまえしか頼れるものはいないのに。
おれはただ一人でこの先を歩くのだろうか。ラドビアスの献身を疑うわけではないが、所詮彼はおれの眷属では無いのだ。
クロードはにっこりと笑ってラドビアスを見上げた。
「今日の晩御飯は何にする?」
「さようですね、宿の主人に聞いてまいりましょう」
深追いすることなく、ラドビアスはそう言うと部屋を出て行く。お互いに相手が気づいているのではないかと思っている。猜疑というものは、容易く人に近づいて知らずに本人をのっとってしまう。気を付けないと自分を見失うとクロードはラドビアスの背中を見ながら唇を噛んだ。
俺は捻くれただけの十四歳のがきだったのに。妾腹の州公の三男、陽の当らない境遇でもそこそこ幸せだった。それが今は――。
あれから三年しか経ってないのが信じられない。随分とおれは運命の女神に嫌われているもんだ。それとも遊ばれているのか。
「クロード、あんた人なの? それともあんたが連れている獣と同じなの?」
「獣?」
ランケイの問いにクロードはすぐに答えられない。実際、自分は人の範疇にまだいるのだろうかと思う。俺が魔教典を体内に封印した時から。いや、実は産まれてきた時から、魔導師側に引き渡された時から自分は人では無かったのかもしれない。
「ランケイ、君にはどう見える?」
「そうね、外見は完ぺき西の貴族の息子だけど、中身はおっさんだわ。腹黒の」
ランケイの素直な意見にクロードは噴き出した。
どう深刻に考えてみても、他人から見ればその程度の違いなのだ。
「戻った」
赤い塊が窓からするっと入ってきて、クロードの横についた。
「どうだった?」
「明後日にはキータイの入り口に着くな。総勢たったの千人足らずだったぞ。キータイを守る禁軍は二万は下らない。どうする」
クロードに喉を撫でられて赤い狼は翼をやや広げて主人に見せる。翼の付け根を軽く揉まれるのも気持ちがいいのだ。
「ランケイ、そろそろ姫を南に逃がそう」
おねだりに相好を崩してクロードは魔獣の翼の付け根を揉みながらランケイを見た。
「……そうね」
そう言ったものの、ランケイは膝が震えるのを止められない。途中で黒いドラゴンは二人を見捨てるのか。それとも派手に暴れて正体を知らせるつもりなのだ。
そこで軍隊はどれほど動くのか。そして、楼蘭族の表敬訪問を反乱に仕立て上げる。
これで軍は半分以上動くだろう。
身分を偽って入り込んだ自分たちが、そこで騒動を起こす。
上手くいくのか、クロードを問い詰めたいが、それには彼だって応えられないだろう。また人が死ぬ。それをどう自分の中で消化すればいい?
「ラドビアスが戻ったら、そろそろ動く」
クロードに頷いてみせてランケイはさっきの答えが間違っていたと思った。どう見ても貴族のお坊ちゃんには見えない。
あんたは死神だと口の中でランケイは呟いた。