かける罠とかかる罠
窓の桟に腰掛けていたはずのクロードは今、床に転がっていた。
ただ転がっていたのでは無く、大型の獣のその大きな前足で押さえこまれていた。獣は、唸り声を上げながらクロードを大きな舌で舐めまわしている。長い舌で左右に振られると、それだけでクロードは頭を大きく持って行かれそうになっていて、ついでに目も回ってくる。
「もう、止めろっ。顔が無くなっちゃうよ」
主人の悲鳴めいた声に、はあはあと荒い息を吐きながら獣は陰惨な笑い顔を見せる。
いや、凶悪な顔に見えるが実はこの魔獣は上機嫌で、それをクロードも分っていた。
「我は元に戻った。クロード、嬉しいか?」
「もちろん」
クロードがくしゃくしゃと長い体毛に手を突っ込んで掻きまわすように撫でてやると獣はまたもや、恐ろしい咆哮を上げた。
もちろんこれも嬉しさのために上げた歓喜の声なのだが。
「はいつは?」
体がこの世界に上手くなじむには、しばらく時間がかかるのか、魔獣はまだ上手く発音できないようだ。
「はいつ? あいつってこと?」
ああ、とクロードは赤い狼を見上げる。この魔獣と同じ時に召喚した黒いドラゴンの事を言っているのだと分った。
仲が良いのか、悪いのか。
ともかくもお互いに気になる立場なのは間違い無い。
「サウンティトゥーダは先に姿を見せたよ。今はおれのお使いでちょっと出かけてる」
予想通り、クロードの言葉に赤い魔獣は不満そうな声を上げた。自分がまず先に主人に会いたかったのだと低く喉を鳴らす。その狼の喉元を荒っぽく撫でてクロードは起き上がった。
「アウントゥエン、おまえにも頼みたいことがある」
「聞いてやらんこともない」
大きな口を開いて赤い狼が牙を見せた。その牙をこんっと叩いてクロードは狼の耳元に言葉を流し込むように言葉をかける。
「分った?」
「了解した」
そう言うと赤い狼はまたもや姿を床に溶け込ませるように消えていった。それを眺めてクロードは「顔がべたべただ」と袖でごしごしと拭う。そのすぐ後に、隣の部屋から獣の声を聞きつけてランケイとコウユウが入ってくる。
油断ない目つきで剣を抜き放ったコウユウが眉間に皺を寄せてクロードを見た。
「恐ろしい声が聞こえたが、大丈夫か?」
「声? さあおれは何も聞いてないけど」
クロードの返事にランケイは眉を引き上げた。彼女には今のが何なのかは、がさすがに分っているらしい。
「ランカさまが今の音に怯えていらっしゃる。惚けるのは止めろ。一体なんだったんだ?」
再び詮議の声を出すコウユウにクロードはあっさりと言った。
「空耳だよ。これ以上は答えない。答えるつもりもない。姫には、宿の下で野犬が騒いでいるのが窓を通して聞こえたとでも言っとくんだな」
「それが答えか」
コウユウにクロードは頷いた。
「それが答えだ。今おれは眷属の一つを南にやって門を突破できるか調べている。できるという報告があったらおまえたちは南に逃がすことにするよ。アシャンタ王国あたりがいいかもしれない」
クロードの言葉が急には飲みこめなかったのか、コウユウが口を開けたままこちらを見ていた。
「どうやって。各門関の守りは硬いぞ」
やっと口にした問いにクロードはうんと頭を下げて、そのあとにっこりと笑顔を向ける。一見邪気の無い少年の顔にコウユウはどう言ったらいいのか判じかねて口を結んだ。
「空は手薄だと思うんだよね。きみらはおれの眷属に乗ってキータイから出る。そのまま南へ向かってくれ」
「そんな事をして……いや、それが本当なら嬉しいが。君らにはなんの益もないではないか」
釈然としない顔でそう言ったコウユウにクロードは笑顔を向ける。
「いや、きみらはせいぜい頑張って逃げてもらうよ。おれらはきみらを騙って宮城に乗り込むつもりなんだからね」
「私たちになり済ますということか?」
「ああ。今キータイ全域に回っている手配書は君のものだけだ。まさか、姫の顔まで手配書に描くわけにはいかないだろうからね。だけど所詮、似顔絵だ。どうとでもなる。それに俺の従者は化けるのが上手いからな、まずバレないと思うよ。俺は君たちを通報した善良な市民として宮城でたんまり褒美でも貰うことにする」
本当に信じていいのだろうか。コウユウの顔がそう聞いている。
「信じる信じないはそちらの自由だ。だけどここにいたって捕まるのを待つだけなんじゃないかな」
飲みこめないほどの不味い物を飲み下すようにコウユウは苦い顔を見せて隣の部屋に戻って行った。
「今の話本当なの?」
ランケイが机の上にあった赤い実を一つ取って齧る。しかし、視線だけは外さない。きちんとした応え以外聞くつもりは無いと言外に語っているようだ。
「半分本当で半分嘘かも」
「やっぱり」
溜息をついてランケイは窓際のクロードを見る。そんなランケイにクロードは悪戯っぽく笑った。
「途中でサウンティトゥーダには騒動をおこしてもらおうと思ってる」
「わざと見つかるように仕向ける気なのね」
「俺たちは宮城内からベオーク自治国に向かうつもりだから」
クロードの言葉にランケイははっと息を飲んだ。それ以上の説明は要らない。弟のところへ行けるのなら、他のことなんて目を瞑って耳を塞いでみせる。