案内人
「クロード、いつまで待つの?」
ランケイに声をかけられてクロードは意識を戻し、彼女に向けて水筒を差し出した。
「日が翳ったら出発するよ、もう少し待ってランケイ」
水筒を受け取りながらランケイはクロードを見る。 自分より二つは下に見える華奢な体。 艶やかでわずかな光りにも反射する銀が勝った金髪。 深い湖の底のような瞳。 どれをとってもこんな乾燥した岩山で汚れたマントに身を包んでいる人物では無いと思う。
そう思う気持ち、これはなんだろう。 恋なんだろうか。 いや、憧れに近いのだと思う。 貧乏で親の無い自分にとってのあこがれ。
魔術に秀でて、優秀な従者と眷属を持った少年。 神と言われるベオークの神も一目置く存在。 憧れと同時に感じるのは、深い嫉妬だ。 生まれでこんなに人は生き方に差が出る。 置かれた立場も何も。
選んだわけじゃないのに。
羨ましくてくやしい。 自分はだからクロードを騙しているのだ。 弟という存在を隠れ蓑にして。
「肩の力を抜いて、ランケイ」
覗きこむように顔を見られてランケイは赤くなって水筒から水をごくりと飲んだ。 生暖かい、しかし砂漠では奇跡のように美味いと感じる。
自分は一人きりだ。 今この瞬間もクロードを騙しているのだと思った途端に喉の奥で甘露が泥水に変わった。
日が沈むと、砂漠は驚くほどその姿を変えていく。
どんどんと下がる気温は寒いと感じるほどになる。 そして、あれほど死んだように何もなかった真っ白な土地に灯るのは無数の二対の目だ。
捕食者たちが、夜に動くものを襲うためにねぐらから出てきているのだ。 活気があるとさえ見える夜の砂漠に、クロードたちも動き出した。
「今晩中に次のオアシスまで行きますよ」
魔獣につけた鞍の調子を見ながらラドビアスが声をかけてきた。
「うん、ランケイに薄い毛布を出してあげて。上空は寒い」
「承知しました」
クロードのことなら、どんな些細なことにだって気を使うラドビアスだが、相手が違うと途端に無頓着になる。
上を見上げれば、漆黒の空にちりばめられた宝石の数々。 下を見下ろせば獣たちの瞳が反射して光る。
「綺麗だな」
魔獣の上から見る景色にクロードは夢中で声を上げる。
「あの光はなんだろう?」
一列に並んだ光りが砂漠の真ん中を渡っていくのが見えた。
「あれは砂漠の民、楼蘭族をやとったキャラバンが砂漠を越えているのですよ」
「キャラバン?」
はい、と応えてラドビアスが自分が乗ったサウンティトゥーダをクロードとランケイの乗ったアウントゥエンの真横につける。
「この砂漠を越えようとすれば、大回りをするか、砂漠を横切るしかありません。ですが、なんの準備も無しでここは超えられません」
「肉食獣が狙ってるから?」
「それもありますが、旅人を狙うのは獣ばかりではありません。楼蘭族の裏の顔は盗賊ですから」
「ええ?」
「一般にここを旅するには、金を払って商人のキャラバンと一緒に行動するのが普通です」
広大な砂漠は、ともすると自分の位置を見うしなってしまう。 朝までに予定していたオアシスに着かなければ確実に死んでしまう。 昼間は灼熱の鍋底にいるようなものなのだ。
「獣よけの薬草を混ぜた松明が無ければ、容易く人間など襲われてしまいます」
だから案内人を雇う商人のキャラバンにお金を渡して一行に入れてもらうのが一般的だ。
個人で案内人を雇うのはかなりの金持ちだということでもある。
「貧乏人はここを渡れない――そういうことか」
どんな過酷な自然よりも、やはり人が恐い。 そういうことだとクロードは思う。 ちらちらと小さい松明がまばらに見えるのはきっと、お金を用意できなかった旅人なのだ。
案内人を雇えない者は、危険を侵すしかない。 仕事にあぶれた案内人たちは、途端に追いはぎに姿を変えるということか。
知らずに眺めていた時にはあんなに綺麗だと思った光りが今は禍々しく見える。 人は知らない者にはとことん残虐にも卑劣にもなれるのだ。 右手でお金を受け取りながら、左手には刀を携えている。
気をつけないと、人は良い人ではいられない。 放っておくとどんどん悪に向かうものだとクロードは思った。 ――そして自分ももうすでに潔白ではない。
馬のような大型の背中にこぶのある動物にのった小隊が現れて、クロードの下からアウントゥエンの緊張した声が聞こえた。
「あいつらは、弓矢を持ってる。我らを襲うつもりだぞ、高度を上げるか」
「おれたちを?」
空にいるおれたちを襲うなんて偶然なんだろうか。 考える暇も無く、たくさんの矢がクロードたちにめがけて飛んできた。
「わたしが落としますから手をお出しにならないでください」
ラドビアスが印を組む直前にアウントゥエンが火を吹いた。
「止めろ、アウントゥエン!」
慌てたように言うラドビアスが消火の呪文を唱えようとしたが、火の勢いは思いの他早く、下にいた盗賊団を焼き払った。
「どうした、ラドビアス」
「アウントゥエン、サウンティトゥーダ、高く飛べっ」
クロードに応えることもなく、叫ぶラドビアスの声が終る前に、何かが恐ろしい勢いで飛び出してきた気配をクロードは感じた。 闇の中から砂を巻き上げて伸びる長いものが何本も地面から突き出ていた。
その何かが体に巻きついて大きく振り回されて、クロードは意識を失いかけるのをぐっと堪えて大声を出す。
「変化せよ」
指輪を剣にして、ただもうやみくもに振り回した。 最後の一振りに手ごたえを感じたと思ったら、地響きのような低音の唸り声と共にクロードは大きく振り飛ばされて今度こそ意識を失った。
「ラドビアス……」
一体どうしたんだと問いかけて、さっきの出来事がいきなり蘇ってクロードは目を覚ました。 上体を起こして周りを見ると、そこは薄暗くて湿ったところだった。 だんだんと目が慣れてくるにつれて、ここが地下なのではないかと気がつく。 穴倉のような乱暴に掘られた横穴。 地上からどのくらい下なのかは分からないが、かなりひんやりしていた。 今が昼間ならかなり深いとみたほうがいいのか。
慣れた目に穴の隅に転がっている人が見え、こちらに寝返りを打ったかと思うと、目が合った。
「おい、やっと気がついたか」
がっしりとした手が伸びてきてクロードの頭をかき混ぜた。
「あなたは誰ですか」
「俺か? 俺は案内人さ」
男は笑いを含ませて答えた。