幸せは黄色
「ばあちゃん、これ食べよ」
幼稚園に入ったばかりの孫の大地が持ってきたのは色とりどりのチョコレートが入った筒だった。赤、黄色、緑といった、いろんな色にコーティングされたチョコレートが孫の腕の動きに合わせてざらざらと音をたてている。まるでマラカスでも鳴らしているようだ。
「おや懐かしい。昔からあるねぇ、これ」
普段は滅多にチョコレートなんざ食べないからね。旦那は甘いものが好きだったが、その彼も他界して久しい。買い物に行ってもお菓子売り場は素通りする日々だ。
「何色がいい?」
すぽんっと小気味良い音をたて、筒が開けられる。大地はテーブルの上に勢いよくチョコレートを撒き散らした。
「そうだね、迷っちゃうね。大地は何色が好きだい?」
「茶色」
「それまた渋いね。何故だい?」
「だって、俺、チョコレート好きだもん」
チョコレートは茶色というイメージなんだね。声を上げて笑ってしまった。だが、大地は真面目くさってこう胸を張る。
「何がおかしいの? だって、幸せになるんだもん」
「おや、お前はもう幸せが何かわかるのかい」
この孫と話すのは面白い。真面目に大人ぶるからね。
「うん。よく母さんが言ってるよ。美味しいもの食べたときとか、綺麗なものを見たときに『幸せだねぇ』って」
なるほど。子は親の鏡とはよく言ったものだ。
「ばあちゃんの幸せの色ってどれ?」
孫が期待に目を輝かせて私を見上げている。
ふと微笑んで、カラフルに飛び散っているチョコレートを見た。
情熱的な赤? ちょっとクールな水色だろうか。オレンジが好きな果物だから、やはりオレンジ?
いいや、私はまっすぐに黄色を選んだ。指でつまんで大地に向かってかざす。
「私の幸せの色は黄色だよ」
そう断言した。
「どうして?」
この年頃はすぐに「どうして」「なんで」とききたがる。だが、こればかりは簡単には教えられないね。
「それは秘密だ」
一気にふくれっ面になる大地に思わず笑みが漏れ、そして旦那を想った。そう、この孫にそっくりな彼をね。
私が黄色を選んだ理由はたいしたことじゃない。旦那との思い出は黄色が多いんだ。ただ、それだけ。
「凛々子さん、ひまわりを見に行こうか」
連れ添って何十年経っても、私を『さん』付けで呼ぶ旦那が、夏の終わりに突然そんなことを言い出した。バイオリン教師の私は、楽器を手にしたまま、きょとんとする。
「なぁに、突然」
旦那がにっこりと微笑む。
「なんでもね、ひまわりの名所があるらしいよ」
その名所というのは、車を三十分ほど走らせたところにあるのだが、とあるドラマだかCMだかに使用されたということで、去年は大層な賑わいだったらしい。で、人ごみの嫌いな旦那はそのときに「騒ぎが静まるまで待って、来年行こう」と密かに決めていたらしい。
「ひまわりか……。そうだね。音符ばかり見ずに、たまには花を見るのもいいかね」
私はそっと立ち上がり、磨き終わったバイオリンをケースにしまって笑った。
「あんたは買ったばかりのカメラを試したいんだろう?」
この旦那は多趣味というか新しい物が好きで、孫が出来た歳になってもいろんなことに挑戦する。このときも、まるで子どものように歯を見せて笑った。
「それもあるけれど、凛々子さんと出かけるのもしばらくお預けになるみたいだから」
三日後に入院を控えた彼の笑みに、胸がぐっと鷲づかみにされたようだった。だが、その痛みを素知らぬふりをして、微笑んだ。
彼の髪には白いものが混じり、その目元には柔らかいしわが刻まれている。その笑みは若い頃と何も変わらない優しさで私を安堵させる。
しかし、この頃はその笑みが私の胸を刺した。なぜなら、そのとき私は旦那の体をむしばむ病魔が楽観視できるものではないと知っていたからだ。
彼は病名こそ知ってはいたが、その進行具合までは知らない。だからこそ『お預け』だと言ったのだから。
私は口元に笑みを浮かべて「行こう」と頷いた。あとから上手に笑えていたか、心配になったっけ。
抜けるような青空の下、私たちは車を走らせた。後部座席には彼のカメラも乗せ、私は助手席で窓の景色よりも、彼の気配を記憶に刻もうとしていた。
だが、フロントガラスの向こうに鮮明な黄色が見え始めたとき、思わず「ほう」と小さなため息が漏れた。
ひまわりの花畑というのは緩やかな丘陵になっていて、見渡す限りひまわりで埋まっていた。今年もけっこうな人手で、駐車場にやっとの思いで車を停めるまではイラついたりしたが、それさえ解決すればあとは呑気なもんだ。
「こいつぁ、絶景だ。あぁ、凛々子さん、あれはなんていうんだろう」
彼が駐車場のそばに立っている木を見上げ、ぎこちない手つきでカメラのシャッターを切っている。
「それはハナミズキの実だよ」
旦那が「へぇ」と心底感心したように唸っている。
「さぁ、行こう。向こうはもっと見晴らしがいいみたいだよ」
促すと、彼はにっこり微笑んで私の右手を引いて歩き出した。この人は年甲斐もなく、いつも手を握って歩きたがる。結婚する前からそうだった。今では足元がおぼつかないから握っているほうが安全ではあるんだが、慣れるまで結構かかったもんだ。
無数の大きなひまわりの顔が私たちを見守っていた。彼は時々立ち止まってはシャッターを切った。私はそんな嬉々とした彼を待って歩みを止める。そしてまた手を引いて歩き出す。
歩道は土で固めただけで舗装されていないけれど、それが膝に優しくてよかった。ひまわりの合間から沢山の人の頭が飛び出て、弾む声も聞こえてくる。来週に台風が来るという予報だったから、みんな今のうちに楽しもうと来たんだね。
そんなことを考えていると、ふと道端に風でなぎ倒されたひまわりの群れがあった。その一帯は運悪く風の通り道だったようで、花の大小かかわらず地面すれすれに顔をよせて、まるでうちひしがれているように茎が歪んでいた。
あぁ、なんだか私たちみたいじゃないか。この老いぼれが這いつくばってようやっと生きているような。
なんだか侘しくなってそっと憐憫の笑みを送った。
「おや、こっちは台風が来る前に倒れたんだね」
旦那も気づいて私の見ているほうに向かってシャッターを切った。
「こんな倒れている花を撮るのかい?」
ちょっと意外に思って尋ねると、彼が笑みを漏らした。
「健気じゃないか。彼らは命を全うしているんだ。どんなに見向きもされなくてもね」
そのとき、私はこの人のこういうところが好きだったと思い出し、なんだか甘酸っぱい気持ちになったもんだ。
その後、展望台で風に吹かれてひまわりを見回した。
どうも私はひまわりの花の形が好きじゃない。どんと大きくて真正面からこっちを見据えているイメージでね、恥じらいも可愛げもありゃしない。けれど、その黄色は大好きだ。
そんな話を夫にすると、彼がいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「どうして凛々子さんが黄色を好きか知ってるよ」
「おや、どうしてだい。自分でもどうして黄色が好きなのかわからないのに?」
途端に、彼はいたずらっ子のように得意げになった。
「俺の好きな色だからさ」
「なにを言ってるのやら、このばかたれが」
思わず吹き出して、肩を軽く叩いてやった。昔よりすっかり痩せて骨ばった感触に、ぐっと胸の奥を詰まらせる。
すると、彼がひまわり畑を見渡してこう言ったんだ。
「懸命に生きなきゃならん。太陽を見て咲くひまわりを見て、俺は覚悟決めたよ。俺は凛々子さんを見て咲き通してみせるよ」
「ばかたれが。若造みたいなことを言ってるんじゃないよ」
思わず憎まれ口をきいたけれど、彼には通用しない。そっと握った手に力がこめられて痛いくらいだった。
「あの折れ曲がったひまわりみたいに、最後まで諦めないからね」
私はそのとき悟った。彼は自分がもう長くないことを知っているんだと。なにか薄々と感じるものがあるんだろうね。そして、本当に彼は数ヵ月後にあっけなく逝ってしまったっけ。
今思えば、確かに彼との思い出には黄色ばかり出てくる。だって、彼の好きな色だったから、着ていた服の色だったり、持っていた小物の色だったり、贈ってくれた花の色だったりするんだ。
この頃、孫の大地は旦那に似てきた。私はこの新しい命の中に旦那の過去を見ているような妙な気持ちになる。黄色の似合うあの人の影を、この子に見るんだ。私に元気をくれた色。励ましてくれた色。あんまり眩しくて目に沁みた色。
チョコレートより甘いロマンが大好きで、黄色がよく似合う男だった。今でも墓にひまわりを供えるのを忘れない私も、彼のそういうロマンチックなところがうつってしまったのかもしれないね。