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四季彩カタルシス  作者: 深水千世
2/16

お母さんのコロッケ

 念願の一人暮らしを始めたのは、大学に入学した春だった。

 入学を機に一人暮らしをしたいと言い出した私に、両親は実家から通えばいいと渋い顔をしていたが、三ヶ月かけて説得してやっとの思いで許してもらえた。


 高校時代は可愛い小物や雑貨を買い集めては「いつか一人暮らししたら使うんだ」と胸を膨らませて、衣装ケースにしまい込んでいた。

 そうしてこつこつと備えていた写真立てやクッション、オブジェが1LDKの部屋を飾り立てている。

 食器だってアルバイトの給料をつぎ込んで、大好きな北欧食器のブランド品ばかり揃えてきた。シンプルだけど飽きのこないデザインのプレートに、垢抜けたフォルムのグラスやカトラリーが並ぶ食卓は、私の夢だった。


 だけど、なんでかな? すごくつまらない。

 一人暮らしを初めて一週間目の夜、目の前に並ぶ夕食を見て、私はじっと座り込んでいた。今夜のメニューは三日前に作って冷凍しておいたコロッケだ。

 最初は自炊も張り切っていた。作り置きして、食べたいもの作って、飲みたいもの飲んで幸せだと思った。

 それなのに、今夜は大好物のはずのコロッケを前にしても、箸に手を伸ばすのも億劫だ。

 我ながら出来映えはいい。三日前に食べたときは味もお店に出して売れるくらいだと自画自賛した。揚げたての匂いが鼻をくすぐり、綺麗なキツネ色の小判型をしている。誰にでも自慢できるコロッケだと思う。

 なのに、さっきからこんなことばかり考えてる。


「……お母さんのコロッケが食べたいな」


 食欲がないのは新生活への疲れやストレスだけじゃないね、きっと。


「お母さんはもう、お弁当作らないから」


 私が中学生になったばかりの頃、母はあっけらかんとこう言い放った。


「お母さん、お弁当作るの下手だから、自分で作ってちょうだい。茶色いお弁当なんて、あんたも嫌でしょ?」


 あの言葉には、呆気にとられたっけ。

 確かにうちの母親は料理が嫌いだった。彼女の作るお弁当は、友達のお母さんが作るようにカラフルではない。

 でも私は茶色いおかずが好きだった。きんぴらごぼう、煮しめ、豚の生姜焼き……確かに茶色いけど、お母さんの味付けは上手だと思うんだ。その味で育っているせいかもしれないけどね。

 たまに「コレ、美味しい!」と思って作り方をきいても、彼女は首を傾げるばかりだった。


「どうやって作ったのって言われてもねぇ。なんとなくだから」


 そしてこう笑う。


「お母さんの料理は一期一会なのよ」


 つまり、目分量とその日の気分次第の味付けなので、同じ味を再現できる保障がないということだ。

 しかも、彼女はいまだかつて味見というものをしたことがない。

 そんな母親が作るコロッケは大好物ではあったけれど、子供心に「どこかよそのコロッケと違う」と感じていた。友人のお弁当に入っているコロッケとも、テレビに映るコロッケとも何かが違う。

 その『何か』がはっきり理解できたのは、三日前に初めて自分で料理本を見ながらコロッケを作ったときだった。

 コロッケのひき肉とタマネギはフライパンで炒めてから、茹でて潰したじゃが芋に加える。料理本でそれを知った私は、母が『炒める』作業を吹っ飛ばしてたことに気づいた。

 彼女は、茹でたじゃが芋に生のままのタマネギとひき肉を入れて作っていた。揚げるときに生のひき肉に火を通そうとするから必ず焦げっぽい。だったら薄く形を作ればいいと思うのに、彼女はゴロゴロとじゃが芋の塊が残っている食感が好きらしく、あまり潰さない。形も小判形と俵形の中間で、パソコンのマウスのようだ。

 うちのコロッケがお弁当に入っているのを見るたびに感じる違和感が生まれる理由に、ものすごく納得した。


 実を言うと、このコロッケみたいに、お弁当にも違和感を覚えていた。

 私のお弁当には真っ赤なミニトマトも、洒落たおかずもなかった。綺麗にカットされたフルーツが小さなタッパーに入っていることもなかった。そういうことに気がつくたびに、なんだか、自分の家の匂いが急にしみったれて感じていた。母の茶色いお弁当が恥ずかしいと思うこともあった。

 だから、「茶色いお弁当なんて、あんたも嫌でしょ?」と言われたとき、返事ができなかった。

 ごめんね、お母さん。もしかしたら、そんな私を知っていたのかな? 胸を張って「うちの茶色いお弁当は美味しいよ!」って言えなかった。こんなにお母さんの味が好きなのに。

 今になって、罪悪感で胸が苦しくなる。自分で作ったコロッケよりも、焦げっぽくてマウスみたいなコロッケのほうがやっぱり好きなんだ。そう思った途端、ぽとりと涙が落ちた。


「……うひぃ」


 変な声を上げながら、顔を思いっきり歪ませて泣く自分がいた。小判形のコロッケが冷めていくにもかかわらず、私はしばらく声を上げて泣いていた。

 家に帰りたい。目が覚めたらお味噌汁の匂いがして、家に帰ればご飯の炊ける匂いがする家に。寝ぼけ眼で聞くお母さんの「ご飯だよ」の声なんて、あの頃は当たり前のことだと思ってたよ。

 お味噌汁がすっかり冷たくなった頃、私は涙を拭って鼻をかんだ。

 食欲はなかった。だけど、もう湯気のないコロッケを箸でつまんで口に放り込んだ。鼻をすすって無理矢理にでも噛む。ぐっと呑み込んで、腫れた瞼を擦った。

 食べろ。生きるために食べろ。……そう自分に言い聞かせて。

 一人暮らしを始めてから、この社会で生きていくのがどんなに大変か初めて知った。お金がないと何も出来ない世の中で、懸命にお金を稼いで来る父親。限られた時間の中で家族のために家事をこなす母親。私が恋い焦がれる家は、初めからあったものじゃないんだよね。二人が懸命に築いてきたものなんだ。


 私もいつか自分がほっとできる場所を作るんだ。そして私の子がいつかはこの小判形のコロッケを懐かしむのかもしれない。

 でもまずは、今度実家に帰ったら、両親にこのコロッケを作ってあげよう。「ありがとう」って言いながら揚げたてを差し出そう。カラフルにミニトマトやパセリを添えて、実家のコロッケから巣立った私の、新しい形のコロッケを見てもらおう。

 そうしたら、少しは前に進める気がするんだ。

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