6話:首席卒業と医薬品プロパーへ
その結果を調べると、見事に、合成の難しい物質の合成に成功していて、純度も十分で美しい色と結晶が見事に再現された。この物質を増本教授に見せると、すごい、良くやったと褒めてくれ、是非、これを卒業論文として提出しろと言われ同意。翌月、10月末が卒業論文の提出期限だから絶対に失敗できない。佐藤君が悲壮感を漂わせて10月27日の実験を開始。
今回は、失敗できなので、伊藤が、もし、この実験が成功しなくても私のもう一つの4月末に完成した実験の資料を君に渡すからそれを提出しろと言った。そして難しい実験行程を伊藤がやるような実験計画を立て開始。そして、10月30日、実験が終了。合成した物質の純度、色、結晶も問題なく、成功できた。その論文をすぐに佐藤君が書き上げて10月31日に教授会に卒業論文を提出。
増本研究室の6人の学生は、全員、卒業論文を提出し受理された。この時点で、卒業が認められ、その晩、横浜の安い居酒屋で祝賀会を開いて、酔いつぶれるまで飲んだが最高の気分になった。やがて1976年を迎えて2月、横浜国立大学工学部応用化学科の最優秀者「首席」として伊藤光一が選ばれたと研究室の増本教授に言われた。そして、SG製薬に採用が内定と言われた。
この結果を2月初旬、自分の両親に報告すると喜ばれた。その後、3月、研究室での解散式が終わり横浜駅近くで飲み会の席で増本教授に呼ばれた。その時、SG製薬では、優秀な研究者が数多くいる。だから伊藤君には医薬品の営業マンとして優秀な頭脳を発揮してもらい日本中の先生方にSG製薬の誇る抗生物質を多くの先生方に正確に説明して売り上げて欲しいと言われた事を打ち明けた。
それを聞いて伊藤は、増本教授に営業の方が給料が多いんでしょと聞くと、もちろん外勤手当、日当、出張費、転勤の時は住宅手当と高給を約束されると言った。それなら構いませんよ、笑顔で答えた。サラリーマンは、なんだかんだ言って、いくら稼いで、その何割かの給料をもらうだけですからねと、割り切っていると話した。それでこそ、プロだと、増本教授が肩をたたいた。
「それに対して医薬品業界のセールスをプロパーって呼ぶらしいですね」。
「金を稼ぐためなら、文字通りプロのパーになり稼ぐと大声で笑った」。
1976年3月、伊藤光一は、横浜国立大学工学部応用化学科を卒業してSG製薬に入社。その後、4月1日、SG製薬に採用された者のうち28名が大阪の本社集合。本社と工場の研修を1日して4月26日から3ヶ月、瀬戸内海の島のSG製薬の保養所の横の研修棟で医薬品の基礎、化学、法律、製剤学などの研修に入る。もしプロパーとして資質が足らないとわかると営業部ではなく他部署に配属される。
万が一、カンニングとか試験時の不正が見つがった場合は問答無用で解雇すると言明された。その後の3週間の会社見学は難なく終わり工場の女の子は、今一だとか営業所でも好みの子がいなかったとか馬鹿な事を話した。肝心の研究所は、極秘事項が多いので見せてもらえなかった。工場の見学した後、4月17日、一度解散。1週間の連続休暇をもらい実家に帰り4月26日、朝、9時に集合する音と言われ解散。そのため伊藤を始め12人が新幹線で東京へ帰って行った。
その後、伊藤を始め12人が、4月25日の晩、定宿のホテルに到着し、ゆっくり休んだ。そして明朝8時に出発して約6時間かけて瀬戸内海の孤島の研修棟に移動。研修の間も日当も出て必要なも着替えなど学習に必要な資材など全て会社で精算し出してもらえた。つまり、この1ヶ月と研修の3ヶ月、給料の総取り、坊主丸儲けとなる訳で医薬品の利益率の高さをうかがい知ることができる。